そこに本が
寝付かれず、枕元の本をとって読む。大江さんの『「話して考える」と「書いて考える」』だ。なにげに開いたページに、苦しい時に読める本をもっていることこそ大事なことというようなフレーズに、思わず惹かれる。
シモーヌ・ヴェイユの言葉を引用している。
《隣人愛の極致は、ただ、「君はどのように苦しんでいるのか」と問いかけることができるということに尽きる。》
苦しいときというのは一人穴ぼこに落ち込んでいるようなものだ。ひとりで足掻いてひとりでジタバタしている。
――そうか、隣に誰かがいるという確信がどれほどの勇気をもたらすものか。隣人愛とは連帯(ソリダリティ)とも通じるように思える。この本のなかで、大江さんはサイードのその言葉をも紹介していた。
苦しみからの恢復というのは能動的であらねばならないと、大江さんは考えている。
《よし自分は恢復しよう、という意志をもつ。恢復したいと願う。希望する、といってもいい。恢復できるように祈る、といってすらいいと思います。そこから人間の恢復という道すじが始まる。》
この本を読んでいて、久しぶりに大江さんのユーモアということを思い出した。苦しいなかにあっても、ユーモアというものをそこはかとなく漂わせている。
20年前、大江さんと10カ国ほど旅していくなかで、いろいろな駄洒落を聞くことができたことを思い出した。
あるとき、こんなことを言った。「こんどね。子供が生まれてきたら、トマツリという名前をつけようと思ったことがあるのだ。」
「?」突然だったので、私は大江さんの言っている意味が判らなかった。
「戸祭と書くのだよ。大江、戸祭。大江戸祭と書くのだよ。景気がいいでしょう。」
唖然とした。あまりのバカバカしさに驚くというより、何か深遠な意味を言おうとしているのかと、私の恐竜のような小さな脳みそをターボ回転させて考えた。が、やはり、単なる駄洒落だとしか答えはでなかった。
この対話をしたのは、ソ連時代のモスクワでのことだ。あれもだめ、これもだめと取材許可が降りず、落ち込んでいた私をつかまえて、大江さんが話でもしましょうと、打ち合わせの冒頭の対話だったと記憶している。
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