大気がある星で
下町の住む人からリクェストされたことが心に響いた。母の詠んだ短歌が、私以外にも感じてもらえることがあるということを、私ははじめて知った。
歌の背景や環境、事情が分からない人には、この歌が伝えようとしているところなど見えてこないだろうと、私は思い込んでいた。
文学というのものは普遍的なものをもっているということは、文学理論を勉強してきた者として知ってはいたが、まさか母の短歌がそれにあたるとは到底思えなかったから、そんな大それたことは考えてもいなかった。
高度な表現を備えておらず、身の回りのことしか詠んではいない。それでも、雪の日のクリスマスのことや、遺影に向かう夏帽子のことなどを、わがことのように感じとっていただけることがあるのだということを今回知った。それを知ったときは驚きであり喜びともなった。この出来事を早く母に伝えてやりたい。下町の人、ありがとうございます。よかったら渋谷神山町までご連絡ください。
元気だった頃に短歌について母に聞いたことがある。あんたはどんな歌が好きなのか。ちょっと思案してから母は言った。
「斎藤史さんのような短歌は立派だと思うけれど、私はやはり石川啄木のような分かりやすい短歌が好きだし、そういう歌を詠みたい」斎藤さんは現代を代表する歌人で、高い教育を受けた女性らしく人生の深淵を詠んだ歌が多い。2.26事件にも関わったことがあり高い調子の歌が特徴である。母はそういう短歌は尊敬するが好きではないということだった。
今、まとめて母の歌を読むと、たしかに調べがよく分かりやすい歌が多いことに気がつく。
前にも書いたが、ダンテの「神曲」には天国と地獄と煉獄が出て来る。地獄には大気がなく業火が燃え盛ったままだが、煉獄には大気があって雨が降り風が吹く。だから緑がある。
私たちが生きている此の世界にも大気がある。夏の暑い日差しがあって汗をだらだら流し、秋風が吹いてくしゃみをする。憎らしげに夾竹桃の赤い花が咲き誇る。こんな何気ないことでも、生きているということにつながっていく。
この数日、テレビを見ても映像がしっかり入ってこない。町を歩いていても、ときどき昔の思い出がフラッシュバックして顕われる。昨日もりんかい線に乗ってお台場のほうへ向かっているとき、揺れる電車のつり革越しに少年時代のラジオ体操の姿が浮かんだ。私ということではなく、こどもたちが体操をしている早朝という光景のようなものを見た、というか感じた。
残暑がきびしいせいもあるかもしれないが食欲がない。これといって食べたいものはない。昨夜は仕事仲間と久しぶりに焼き肉を食べるには食べたが、酒もそれほど呑まなかった。これから、ETV特集「太宰治」の最後の正念場にさしかかるのだが、いつものような闘志がわいてこない。来月の集中講義のためのノート作りも身がはいらない。奮い立たせなくてはと自分に言い聞かせているのだが、どこか他人事のように思えてしまう。
昨日の朝、藤沢駅で人身事故が発生し、電車のなかに50分閉じ込められた。走行時間も含むと2時間電車に乗っていた。冷房がきつかったので、途中から下腹がしくしくした。我慢していると冷たい汗が流れた。窓の外の線路脇の夏草が風に揺れていた。
このとき、妙にはっきりと、私は生きていると実感した。
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