・・・離れるとき
新幹線の私の隣席に母、その向こうに三弟が座っていた。母を連れて新横浜に向かっていた。列車は岐阜羽島を通過した。
故郷の医院の医者は、母の胸の容態は専門医に調べてもらったほうがいいと診断をくだしたので、二人がかりによる東京への母の移送となった。発作が出なければたいしたことはないが、万が一のこともある。我々兄弟は緊張して旅をしているし、母は黙って目を閉じたままでいた。
週末に帰省して、二人の弟たちと今後について議論し思案しつづけた。これからの治療をどこにお願いするか、病院が決まらないなかで、議論は堂々めぐりを続けた。そして、主治医に紹介状を願ったところ、思いのほか早く受け入れ先の病院が選定できたので、バタバタと旅立つ準備をして、敦賀発の特急しらさぎに乗り、米原でひかりに乗り換えた。早歩きの出来ない母を気遣って、弟がサポートにまわり私が荷物の運搬係りと、役割を分担した。
名古屋を出たところで母は眠った。いや眠るのでなく目をつぶっているだけかもしれない。顔色が土色になっている母はじっと耐えている。これからの他国での養生を考えると言い知れない不安があるにちがいない。病気そのものへの恐怖もあるだろう。
敦賀駅のホームまで、次弟と叔父貴夫婦、そして木谷牧師が見送りに来てくれた。誰にも告げないで離れるつもりであったが、教会だけには連絡してという叔父貴夫婦の言葉に促されて母が連絡したところ、わざわざ牧師自らが見送っていただくことになったのだ。信仰の篤い母としては、喜びであり恐縮であったと思われる。列車のドアが閉まる瞬間、「きっと戻ってきてね」という叔母の声だけが響いた。
新幹線のグリーンにやっと位置を占めて一安心。少し母の様子が安定しているようなので母の短歌集の一覧を読んだ。そこにこんな歌があった。
1、連休も終わりて子等は帰りゆき夕餉さみしくひとり食みおり
2、雨風のはげしさ夜半目覚めゐて眠れぬままに亡き夫思ふ
何も語らなかったが、故郷の一軒家での一人暮らし、母はじっと一人に耐えて生きていたのだということをあらためて知る。そういうこともあるだろうなあと推測はしていても、こうして表白されたものを読むと辛い。
母の短歌は、日々の暮らしを詠んだものと、信仰を歌ったものと2種類ある。
信仰の歌一群のなかに、家族のことを含んでいる歌があった。
3、幼き吾子三人を連れて雪道をクリスマス礼拝へと行きし遠き日
私が小学2年生、次弟が幼稚園、三弟が1歳だった頃のクリスマスの日のことだ。夕方から降り始めた雪はすっかり積もっていた。教会で開かれる晩餐会に、父母、そして3人の子供は参加。雪道を私と次弟は手を結び合い、母は三弟を負ぶっていた。先頭を歩く父が道をつけていたはずだ。途中吹雪となった。体を傾けて雪道を突進し、やっとたどり着いた教会にはあかあかと灯がともっていた。石炭ストーブががんがん焚かれ、メリークリスマスの声を掛け合う信者たち、その家族たちの楽しい姿があった。貧しくも晴れがましい至福の時間だと感じた。その想いは、母にもあったのだと、この歌を読んで今になって知る。
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