忘れまい
8月9日、長崎原爆忌。64年前の今日、11時2分に浦上の中心部の上空500メートルでプルトニウム型原子爆弾、通称ファットマン(デブ)がアメリカ軍によって爆発させられた。原爆は投下された、という主語のない表現は好まない。罪を犯したのはアメリカであり、被害者は日本の長崎に住んでいた人たちである。被害者は日本人だけとはかぎらない。そうでないから「住んでいた人」とあえて記す。強制的もしくは植民地化されたためやむなく日本へ渡ってきた朝鮮半島や中国の人々、そして連合國側の捕虜、枢軸国側の教会関係者など、さまざまな国の人たちがこのデブの犠牲になったのだ。
広島の犠牲者でも中学生や女学生が多かったのは、戦争末期で大きな働き手となっていたことによる。建物疎開や勤労動員などに狩り出されていたことが大きな要因だが、長崎でも事情はよく似ている。浦上の爆心地周辺にはミツビシの兵器工場が密集していた。そこで働いていた大半は、10代の学生たちだった。谷村キミも兵器工場で働く県立高等女学校の報国隊員のひとりであった。
11時2分。一瞬の閃光、気がつけば工場は倒壊し、火の手があがっていた。キミは血だらけになりながら裏山に逃げる。そこから見た浦上の町は火の海となってあちこちから黒煙があがっていた。
傍らにうめき声をあげる女子がいた。だきおこすと、同級の米原光子だった。彼女は急性原爆障害を起していて瀕死だった。キミは彼女を抱きかかえながら浦上を逃げ惑う。長崎本線の線路まで出たとき、ひときわ高く警笛を鳴らす列車があった。救援列車である。二人はこの列車に必死で乗り込む。
列車は長崎を離れ、諫早、大村、へと避難していく。キミと米原は負傷したまま佐世保あたりまで連れて行かれ、廃墟となった長崎に戻るのは10日後のこととなる。その間、キミは負傷した級友の看病にあたった。
キミも米原も生きのびた。被爆当時は元気だったキミも、昭和23年あたりから病気がちになった。その頃、遠方にいた親友に向ってキミは原爆被災の状況をつづった手紙を書いた。分厚い手紙で、文学少女だったキミの筆致は鋭く、被爆直後の状況を活写して感銘深い。手紙を受け取ったのは壱岐に疎開していた村井スマ子である。しばらくしてキミは死んだ。24年のこと。
キミの手紙の存在を私が知ったのは昭和57年のことである。長崎県立高女の同窓会では、昭和24年原爆病で21歳で死亡した谷村キミ子さんの手紙「キミちゃんの手紙」をその数年前からまわし読みしているという話を掴んだのだ。私は読んで衝撃を受けた。番組にしようと企画を立てた。
ところが、この素材を掴んだものの、当時私は他の番組を抱えていたため、後輩のディレクターに制作を一任することになる。無事にドキュメンタリーとして作品化され放送された。58年8月4日放送、 九州スペシャル 「キミちゃんの手紙~ある被爆少女の遺稿~」という作品である。
しかし放送は出たものの、私はこの手紙のことが心から離れず、1年後、この記録を私はノベライズして、未来社から出版することになる。これが私の最初に書いた本となる。この作業を通して、長崎被爆の実相を総体として把握することになった。
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