晩夏、晩節、重晩節
石川淳『夷斎小識』を蒲田駅前の古書店で手にいれた。昭和46年の定価950円が3000円もした。石川淳の本は人気の割りに部数が少ないからなかなか手にはいらない。見たときに買っておかないと、つぎの機会はない。
石川が三好達治と晩年の付き合いが深かったことは、この本で知った。その達治についての文章のなかで石川は重晩節という珍しい文句を使用している。
《二十代のころどこかでこの文句を見かけたが、もとより気にとめるわけがなかった。さうだろう。若いものが晩節なんぞに義理はない。考へてみるのも無用であった。》
といって、若い頃は人生というものを一本の棒のようなものが貫くものだと思っていたと述懐する。一つながりで人生があると思っていた。ところが、若くなくなった頃にはそうではない、一本の棒では計れないのが人生だと思うようになった。つまり青年なら青年の棒、老年には老年の棒という、どこかに区切りがつくようなものではないかと、石川は考えるようになった。
その話の流れで、重晩節という言葉を持ち出していた。
石川が人生をそう見ていたということも面白いが、老年に至って晩節をさらに重晩節という細かい分化にまでするところに、老いの困惑をみる。
そういえば、今朝会った人物は「私のような後期高齢者は」とのたまっていた。暗に還暦を越えたおまえも高齢者だぞと言われた気がした。晩節の話もこの類のようなものかしらむ。五十歩百歩ということ、か。
立秋を過ぎたから、今夕の光を晩夏光と呼ぶのはおかしいかもしれないが、ミンミン蝉のしぐれのなかにひぐらしがひときわ響く風景は秋の始めというより夏の終りがふさわしい。
私としても、晩節に入ったとしても中年の棒の最後尾を歩いていると考えたい。
来られた記念に下のランキングをクリックして行ってくれませんか
人気blogランキング