読後1時間
午後、ずっと『1Q84』を読んでいた。最後の青豆の“非業の死”のあたりでは、本を置くことあたわず、ふと気がついたら夏の日差しは翳り周囲は夕暮れの白い光線のなかにあった。ひぐらしも鳴いている。こんな没頭振りは久しぶりだ。
終わりのシーンがいい。すべてを(が、ではない)終わった後の、天吾が千倉から東京へ夕方の列車で帰っていきながら、これまでの物語を回想し新たな決意を独語する。映像でいえば、完璧のラストシーンだ。というぐらい、この小説は面白かった。けっして「文学」が衰弱しているとは思わせない力作だと思った。
一方、この作品は評価の分かれる作品だとも感じた。おそらく、文学関係者(つまり、国文とか英米文学のプロパーたち)には評判悪いだろうなあと推測する。月が二つ浮かんだり、「リトル・ピープル」というデモーニッシュな存在やタルコフスキーの映画さながらの「空気さなぎ」という超現実的な仕掛けが登場する本物語は、いわゆるリアリティとは別でサイエンスフィクションの一種と見なされかねない。つまり文学本流から見ると、異端、もっと言えば通俗文学でしかないという評価になりそうだ。
だが、私はそういう評価ではないと思う。加藤典洋が語るように、エンターテイメント満載の素晴らしい文学だと思う。
心に残った場面は、青豆がカルト集団「さきがけ」のリーダーと遭遇する場面だ。読むうちにオウムのサチュアンの内部に居るような実感をもった。この期におよんで、たしかに「救済」というものが、狂信集団というだけで排斥できない論理があることを思い知らされた。村上がオウム裁判を傍聴し、信者たちからの聞き取りをやった精華がしっかり出ている。
――なぜ、NHKの集金人なんだろう。
この呼び名はまるで取税人ザアカイのようなニュアンスを含む。悪い取立てを行う、ちびの嫌な男という意味で。私も関わる組織の人たちだから、そのニュアンスに対してとても抵抗を感じる。たしかに、彼らはきつい現場に置かれて苦労をしていた。正当な料金徴収を行わずに、子供をダシにして集金をする、という悪意は村上はどこから発想したのだろう。そんな話は聞いたことがないが、ある漫画家の父親が息子の漫画の原画をサービスと称して料金徴収の成績を上げているということは聞いたことがあるが。
おそらく、「証人の会」というカルト教団の信者として、親子で勧誘に回る青豆の姿の類似項として、この存在を村上は造形したのではないだろうか。
――カルトの教団の勧誘、そこに帯同する子供のことがいつも気になっていた。・・・、このへんのことは微妙だ。現実の新興宗教との接触点になってくる。
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