ぼんやり霞んだままで
雨もよいの鬱陶しい天候のせいか、頭が重い。ぼーっとしている。
昨夜も「1Q84」を読み、エドワード・ヤンの映画を見た。そのときは面白がっているはずだが、そのときのみの気晴らし、慰め、なごみでしかない。しっかり生きているという実感が薄い。どうしたことだろう。
このブログを読んでいる方から、愛する伴侶を亡くしたというお知らせをいただいた。私の書いた「日にちぐすり」のことをしっかり記憶しておられた。こんなブログの記事風情が人生に何の役にもたたないと承知はしながら、人と人との交わりにある種の楔のような事柄を私がもし提出していたことになるなら、それは嬉しいことであるし、かつ重大な役割でもあると思う。そういう責任を自分に背負わせて、奮い立たせようと思うが、どうも体の奥底からの力が湧いてこない。
悩んだときの神谷恵美子。この週末はもみじ山にこもって『生きがいについて』と『心の旅』を読むことにする。
昨日、聞かされてずっと心に蟠(わだかま)っている話がある。
アジアのある国の話。少年刑務所というのがある。日本のそれは、18歳未満の少年たちが罪を犯したとして収容される施設を指すが、アジアのその国のそれは必ずしもそういうことで収容されているわけでもない。無実の幼いこどもたちがいるという。
その国では、犯罪を起こすと、一族のなかから身代わりで刑に服するものを差し出せばいいことになっている。そこで、一家の働き手などを避けて、比較的厄介者扱いされている子供が選ばれて出頭することが多い。彼は罪を犯していないにもかかわらず、親族の罪をひっかぶって拘禁されるのだ。奸智に長け、権力をもつ大人たちは一番弱い者をスケープゴートに仕立てる。指名された少年には不条理そのものだ。が抵抗することはできない。その出来事が少年の心をどれほど傷つけるか想像に難くない。
人間の邪悪ということを指し示すものはあまたあるだろうが、少女割礼と並んで少年罪人ほど罪深いものはないのではないか。
この話を知った以上、そこから目をそむけるお前は何だ、という声も、ぼんやりした頭のなかにうっすらと響いてくる。
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