気怠さのなかで
昨夜は深酒をした。痛飲のあげく泥酔か。朝からひどく気持ちが悪い。
めじろの句会に出たあとの、2次会に足を向けたのがたたった。というか、そのあとの3次会が余分だった。何かツマラナイことで席上行き違いが生まれた。大きな声をあげて議論してしまった。
一人は途中で行方知れず。カバンだけ座席に残していなくなったのだ。心配する羽目にもおちいった。今朝、当人から電話があって、どうやら山手線でぐるぐる回っていたそうだ。残された二人も白けた気分で、深夜目白駅頭で別れる。ギロチン、ギロチン。
今朝も早めに目が覚め、少しも成長していない自分に嫌悪する。還暦を越えて、宗教論争なんかでかっかとすることに嫌気がさしている。
むろん、素面で、きちんとした論争なら、まだ若い人にも負けないでやっていくつもりだが、酒席での論争はつまらない。何の意味もない。そういう場に遭遇する自分の不徳を思い知るばかりだ。ギロチン、ギロチン。
昨日までのハルキ、斜陽、冬ソナへの若々しい関心はすっかり失せた。枕元の書籍をとっても読む意欲が湧いて来ない。テレビをつけてもつまらない床屋政談のごとき番組ばかり。食欲も、こう暑いと湧いてこない。とにかく、このところ快調だった私の精神衛生はいっきに落ち込んでいる。
つい暗い話に向いて行く。
ドイツ文学の研究者からハルキの文学は紛い物だと指摘された。「海辺のカフカ」なんて作品は思わせぶりで何も語っていない、彼は現代文学理論のおいしいところをうまくつまみ食いして仕上げている。でなかったら、ベストセラーなんてことにはなりませんよという。
彼の文学の実体があまりにスカなので、松浦寿輝も苛立ったのでしょうと、その御仁は語る。その口ぶりに、私らのような文学の専門家から見ると、ハルキの文学性なんてものは虚妄ですよと言わんばかり。残念ながら、私は言葉につまり、言い返すこともできなかった。
ただ、本当にそうなのかという疑念は残る。例えば、「路地」。このメタファーのごとき存在は、大きな音は立てないがずっしりと私の琴線に触れたと思うのだ。
いずれにしろ、ドイツ文学のあの研究者から見るとベストセラーになるような作品は文学ではないということ。太宰の『斜陽』にしても、大岡昇平の『武蔵野夫人』も、谷崎の『マキオカシスターズ』つまり『細雪』も、オースティンの『高慢と偏見』も文学という名に値しないものとなる。
では文学って何だ。そんなご大層なものか。一部のインテリゲンチャが秘教的にとりあつかうものか。
当然、ケータイ小説やライトノベルは文学であるはずもないとするであろう。この文学プロパーたちがほざいている”文学理論”とやらをぶっ壊してみたいと、今朝の荒々しい私は考える。
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