百両旦那、千両天秤
琵琶湖は日本列島を北上しているそうだ。昔は奈良と滋賀の国境の山中にあったのが少しずつ移動して現在の地形に納まっているが、移動が止まったわけではなく、依然日本海に向かって動いていると地学では説明されている。琵琶湖から敦賀に抜けるルートは山が険しいが、近江と越前は遠い仲ではない。琵琶湖の湖北から始まる北国街道は古来人々が行き交った道で、古代から愛発(あらち)の関が設けられていたほどだ。当然、双方の風習が互いに伝播しあうのもゆえないことではない。
母は大津から嫁いできたから、双方にまたがる事柄をよく知っている。「百両旦那、千両天秤」という言葉があると教えてくれた。
母方の祖父は五箇荘の出身で近江商人発祥の地だ。ここの人たちは勤勉で、天秤棒をかついでせっせと行商に励んだといわれ、天秤というのは近江商人のシンボルとなっている。蓄財に秀でていて、千両も貯めこんでも天秤商いは続ける、だから近江から近代日本を代表する堤清次郎のような実業家や高島屋、大丸とか大百貨店が生まれたのだと、郷土史は誇らしげに伝える。
敦賀というのは、泉鏡花『高野聖』にも描かれるように、交通の要衝であったから宿場町として発達し港町として栄えた。当然、ここには花街があった。港近くの金ケ崎神宮の門前に紅灯が並んで、さながら不夜城であったという。遊郭は船乗りが丘にあがって遊ぶ悪場所であっただろうが、地元の町衆もかなり放蕩を尽くしたようだ。敦賀の金持ちはたった百両貯めただけですぐ旦那意識をもつようになる。そういって揶揄した軽口が「百両旦那」である。いかに、この町に遊び人が多かったのかが知れる。
ただし、この町での“旦那”というのは大店の主を指すよりも、妾をもつ男という意味のほうがつよいらしい。
私の友人フミオくんには父親がいなかった。貸間に住んでいたが、粋な香りが漂っていて生活感がない奇妙な家だということは、うすうす感じていた。いつ遊びに行ってもお母さんしかおらず、しかもきれいにお化粧しているから、不思議に思っていた。今、忽然と思い付いたのだが、あの家は置屋だったのだろうか――。
旦那は本宅では父だが、妾宅ではおじさんとなる。友人はその人のことをおじさんと呼んでいて、何でも買ってくれる人と自慢していた。たしかにフミオくんは顕微鏡も昆虫採集セットもソノシートももっていた。羨ましかった。
後年、映画「泥の河」を見て、あっと思った。廓(くるわ)舟に住むきっちゃんの家は貧しいのだが、お母さんはいつも着飾っている。お父さんはいない。そして、ときどき見知らぬおじさんさんが来ると、しばらく外で遊んできなさいとお小遣いをもらう場面だ。これと同じ光景を私は見たことがある。
たしか、そのときフミオくんは50円もらった――5年生の私らには大金だった。
彼は私にそのお金でアイスキャンデーと水泉まんじゅうをおごってくれようとした。「センカン(私のあだ名)、これをやるから6時までいっしょに遊ぼ」と私を誘った。嬉しかったが、5時までに家に戻らないと叱られると私は言うと、彼は「ちぇっ」とそっぽを向いた。フミオくんの横顔が寂しそうだった。
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