全身写真家、土門拳
「土門拳はぶきみである。土門拳のレンズは人や物を底まであばく。」
詩人高村光太郎の評である。1909年、土門は山形県酒田に生まれた。今年は100年目にあたる。彼が写真と出会うのは24歳というから遅い出発だ。それから70歳で倒れて意識不明となり80歳で死ぬことになるが、46年間一環して土門は写真一筋で生きた。全身写真家と呼ぶにふさわしい人生である。
土門は報道写真といわれるドキュメンタリーの分野で、さまざまな試みを行った。原爆から肖像、筑豊、古寺巡礼、文楽まで実に多様な題材をとりあげた。
生前、彼は写真評論家となった娘真魚に語った。「13万コマのネガが残ったが、発表されたのは一部だ。それ以外のものもすべて私の作品である。」恐るべき言葉である。1本も迷いも悔いもないと言っている。
昭和32年(1957)、彼は週刊誌の取材で広島へ向かった。原爆の日が近づく7月末のことである。当時、占領が終わったばかりで、広島の実相というのはほとんど知られていない。取材はABCCという放射線影響研究所を中心とするものであった。そこは、アメリカの放射線の影響を調査する機関で、被爆した人たちを治療する目的をもっていなかった。被爆者はモルモットのようなものであったが、その実体は被爆者には伏せられていた。まだ占領の影響が残っていた。土門はここでは心を動かされない。
そして、同行したライター草柳大蔵から知的障害児の施設「六方学園」の存在を聞いたときから、土門は始動する。そこには、原爆による胎内被爆児たちがいた。やがて、白血病で苦しむ被爆者たちの存在も知り、土門のレンズはそれを追っていく。
結局、土門はこの週刊誌の取材にとどまらず、その年の11月までに広島に5回ほど出向いて5800コマの写真を撮った。
そのときの取材記録として「広島ノート」3冊を、土門は書き残す。これを読むと、彼がいかにして「二人称カメラ」という手法を編み出したか、その生成の過程が分かる。
美しい少女のケロイドの植皮手術を、土門は「一人称」つまり患者自身の目となって、当初撮影しようとした。だが、それでは手術の邪魔をするばかりで、きちんとした表現にはならない。土門は悩んだ。挙句、「二人称の目」を獲得するのだ。手術を施して懸命に治そうとする医師や看護士の目となって、その現場を記録した。23枚の組写真として、写真集「ヒロシマ」の冒頭に配置された。
この写真集は、大江健三郎にも大きな衝撃を与えた。特に23枚の写真に。「私はこの少女の一連の写真に、戦後日本でもっとも明確にされた、人間世界の不条理と人間の虚しいが感動的な勇気の劇を見る」
この写真集の記憶を濃く残したまま、1963年夏、大江は広島に向かう。土門が記録した「広島ノート」は大江の「ヒロシマノート」へと受け継がれていくのだ。
昨日、土門拳の伝記を編集しているOさんと会った。彼は土門の最初の写真集について新しい事実を掘り起こしていた。そこに関わる重要な人物は、私にとっても忘れることのできない絵本作家であった、ということだけ書いておこう。ここから先は、まだ秘密事項に属しているので、いずれ、本格的な取材が始まったら報告したい。
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