夢のをわりの花りんご
ふるさとは夢のをわりの花リンゴ 二六斎
この句を詠んだ二六斎宗匠の元へ、西国に住む弟子から深夜電話が入った。酒席からの電話らしく、いささか彼の感情は過多となっていた。彼はこの句を読んで、幼い頃に亡くした母を思った。母につながる思い出が甦り、「この句には泣かされますよ」という言葉を電話口で繰り返した。その熱い思いに宗匠もついほろり。弟子と師匠の共泣き。
こんなケースもある。師匠は太宰治、弟子は野原一夫。昭和22年の出来事である。学生時代から太宰に傾倒していた野原は新潮社の編集者となって太宰の前にいた。乱れた生活がたたり、当時の太宰の体調は芳しくなかった。時に軽い喀血もあり精神も不安定であった。影のように山崎富栄が付き添い看護していたが、それでも危うかった。むしろ、富栄との抜き差しならぬ関係が太宰を追い詰めていたのかもしれない。
ある日、野原は思い切って太宰に哀願した。「先生、養生してください」太宰は野原の顔を無言で見た。「みんな、心配しているんです。だけど、先生に面と向かって言うのが、どうも、なんだか、・・・・」
野原の言い方が切羽詰っていたのだろう。いつもなら茶化す太宰が席を立って、廊下へ出て行った。そのとき、圧し殺したような太宰の泣き声を野原は聞いた。野原の目にも涙があった。この1年後に太宰は長雨で増水した玉川上水に富栄とともに身を投げる。
今年は美空ひばりの節目の年でもある。祥月命日にあたる6月には特番が相次いだ。20年前、彼女が“急死”したとき、「ひばりの時代~日本人は戦後こう生きた」という3夜連続の特番に私はディレクターとして参加した。私が担当したのは第一回「廃墟のなかの悲しき口笛」で、彼女のデビューした時代を描いた。この番組は、ひばりの歌を同時代として生きた民衆の記憶を引き出すという仕掛けをもっていた。彼女の歌にまつわる思い出をもった人々を取材することになり、私は弘前へ飛んだ。ひばりが映画女優として力量が認められた作品「リンゴ園の少女」にまつわるエピソードを掘り起こすためだ。この映画のロケは岩木山を望む弘前郊外のリンゴ園で行われた。今をときめくスターの到来とあって、この映画のロケにはおびただしい数の見物人が集まった。その思い出を、リンゴ園の園主須藤真利さんに語ってもらった。最後に、一番好きなひばりの歌を歌ってほしいと頼んだ。当然、「りんご追分」を歌うと私は期待した。
ところが、彼が歌った歌は、「津軽の故郷」であった。70歳を越えていたと思うが、彼は背筋をぴんと伸ばし、岩木山に向かって朗々と歌った。
♪りんごの ふるさとは
北国の果て
うらうらと 山肌に
抱かれて 夢を見た
あの頃の想い出 あゝ今いずこに
りんごの ふるさとは
北国の果て
花りんごの句を詠んだ二六斎宗匠も弘前出身で故郷は津軽。太宰も金木町という津軽。この句を味わいながら、太宰を思い、津軽を懐かしみ、ひばりの「夢のをわり」を惜しんだ、というわけ。
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