透明人間~ヘテロロジーを超えて
週末が来た。取材の仕方について少しだけ難しいことを考えてみる。
病院で思いついたのだが。
近代西洋から起こってきた科学とは、〈もの〉を〈私〉が観察し実験することで
発達してきた。観察し働きかける者と観察される者は別々だという考えだ。
これをヘテロロジーと言うそうだ。その典型は医学と歴史学。
たしかに、医者と患者は別もので、医者は患者に対して診察、診断して治療を施す。
医者から患者への一方通行の働きかけの関係であって、両者は別々の存在とみえる。
ところが実際はどうか。
今回入院して、手術を受けたときそうとは言えないという体験をし、別の考えが
ふつふつと私の中に起こった。
手術中、麻酔の効かない私の部位に医師のメスがあたると私はビクリと動く。
即座に医師は感応して「痛いですか」と尋ねる。
これは医師と私はべつべつの存在で、だから起こる現象だろうか。
そうではなく手術を進めていく中で医師の気持ちはすでに患者である私の中に少しずつ侵入していっているのではないだろうか。
医師は私の動きや反応で私の痛みを知ったというわけではなく、メスがその部位に触れた時点で、同時に医師も「痛い」と感じている、「痛いですか」と聞く前に医師も痛いと感じている・・・。
そうとしか思えない場面に何度もであった。
手術を続けていくなかで、〈私-医師〉という関係はじょじょに一体化していく。誇張して言えば、
「私が医師によって手術される」ということは「私が私の爪を切る」こととほぼ変わらないという状態になる。
だから医学がヘテロロジー(異他性)と決め付けることに私は疑問を持ったのだ。
番組を制作することも同じことがいえる。取材者と取材対象者はくっきり分かれているわけ
ではない。取材は深まれば深まるほど、両者の間の溝は消えていく。
どちらが取材者で、どちらが取材を受ける者なのか、区切りがぼやけてくるのだ。
このことを、取材者は現場では透明人間になることだと、私は考えている。
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治療で使っているマキロン