山百合
横須賀にもどった静江さんは、やがて国民学校の先生となる。トヨダさんの事を忘れようと一心不乱に働いた。やがて、戦局は悪化。昭和20年に入り、父はレイテ沖海戦で戦死を遂げる。横須賀にも空襲が始まり、児童が疎開することになる。同じ神奈川の山間部、海老名である。そこへ小学生百数名を引き連れて数人の先生たちと学童疎開することになる。若い静江さんにも厳しい仕事となった。親を離れて心細く生きている子供を励まし、空腹に耐えさせることは大変なことであった。日々の労働に追われて、トヨダさんのことも忘れることも少しずつふえていた。
その日も、海老名のお寺の森を抜けながら、トヨダさんとのことはもう終わったのだと自分に言い聞かせていた。新緑が美しい日であった。
子供たちが待つ宿舎に戻り、部屋の片付けをしているとき、来客ですよと声がかかった。誰だろうと訝しんで縁側に出てみると、庭先にトヨダさんが立っていた。北海道の実家へ帰省し、広島へ帰る途中に立ち寄ったという。横須賀の実家にうかがったら、こちらに来ていると聞いてやってきましたと、トヨダさんは静江さんを見つめてはっきりと語った。静江さんは何が起こったか理解できない。つい先ほどまで、諦めようと自分に言い聞かせていたその人が、3年ぶりに、わざわざ疎開先まで訪ねて来てくれるとは。その日何を話したか、はっきりと覚えていない。
他の先生方や児童もいるということで、二人だけの話は長くはできなかった。帰っていくとき、静江さんは駅まで送った。その道すがらの風景はよく覚えている。
現在の静江さんは横須賀の山の上で一人暮らしている。趣味は余った布切れを使ってショッピングバッグを作ることだ。前に私が訪ねたときも一つバッグをもらった。今回も帰りがけに青い布地のバッグをプレゼントしてくれた。これは薄くて丈夫で、図書館に行くときに重宝する。そう告げると、静江さんは嬉しそうに笑った。静江さんの庭は6月にふさわしく紫陽花が咲き誇っているが、納屋の陰におおきな山百合が咲いていた。隠れて咲く百合の花は香しく美しかった。
疎開先にトヨダさんが訪ねてきたのが5月の末。父の死の悲しみもこらえてきた静江さんのなかで、弾けるものがあった。6月、静江さんは一人で広島のトヨダさんを訪ねて行く。戦争末期の混乱のなか、東海道、山陽道をぬけてはるばる広島まで行く。そして、3日間、二人は話あい、婚約をすることにした。広島文理大の恩師に媒酌を頼むことも決めた。そして、静江さんは帰った。最後に広島駅頭で、トヨダさんが「もう、手紙を書かないでね」と静かに言った。その意味は何なのだろうかと静江さんは考えた。でも、こらえきれずに手紙をそれから2度書いた。そして、2通めは8月に入ってから送った。その手紙が広島文理大に届いたのは8月24日。トヨダさんの手に渡らない。
その朝8月6日、講義の準備をするということで、朝早くから千田町の文理大の教室にトヨダさんはいた。爆心から1.5kmの位置にあった文理大学は原爆によって破壊され、内部は全焼した。丸い特徴的な頭が真っ黒になって焼けこげているのを、同郷の先輩が発見し、遺骨は故郷北海道に送られる。
この出来事を静江さんは知らない。広島に新型爆弾が投下されたと聞いても、独身のトヨダさんだから生きているだろうと楽観していた。その死を知るのは一月以上経ってからである。その日から、静江さんの心は凍った。
60年以上にわたって、静江さんの心にトヨダさんのことが封印されたままである。60年経っても癒えることのない心の傷とは何だろうということを、私は知りたいと思う。
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