山アジサイの花
朝の雨は上がって、横須賀塩入に到着する頃にはすっかり晴れ上がった。駅前からバスに乗り坂本郵便局前という山の上の町まであがる。この街のさらに坂の上に静江さんは住んでいる。港町横須賀は至るところ坂の町だ。坂から見下ろすと、潜水艦が4隻ほど港に停留していた。潜水艦なんてしろものは普通の港にはない。やはり、ここは米軍第7艦隊の本拠地だということをあらためて思う。
86歳の静江さんは少し足が不自由だが、1人で元気に暮らしている。長年にわたり小学校の先生をしてきたというだけあって、頭脳明晰、記憶もほとんど衰えていない。今回はもう1人ディレクターといっしょの訪問である。
前にも記したが、静江さんはあの20年8月の広島原爆で恋人を奪われている。彼女自身は被爆していない。だが、心に被爆をしている。奪われた恋人のことを60年以上にわたり思い続けてきた。その静江さんの心の軌跡をたどるような番組を作りたいと、私は2度にわたり横須賀を訪れている。
小高い丘の中腹にある静江さんの家は、戦前からの士官の官舎のままの佇まいである。父上は軍人で、横須賀の海軍兵学校で短期現役の学生たちの指導にあたっていた。その教え子のひとりが、静江さんの恋人の豊田さんである。年は7つ離れていた。若い兵隊をよく家に呼んだ父は、休日など自宅で食事をふるまった。初めて、豊田さんが静江さんの家を訪れたとき静江さんは13歳、豊田さんは20歳だった。床柱にもたれてゆったりと話をしている豊田さんの姿をしっかり、静江さんは覚えている。その部屋は60年経っても同じである。
原爆が投下される3ヶ月前、静江さんは1人で豊田さんに会いに広島へ行った。二人の付き合いは長かったが、愛というものを本気で確認することになるのはそのときである。
広島に知人のいない静江さんは、3日3晩、豊田さんの下宿で話し合い、二人は結婚する決意を固める。それから、まもなく原爆が豊田さんを直撃するのだ。静江さんが豊田さんの死を知るのは1ヶ月以上経過してからのことだ。
それから、静江さんの苦しい心の旅が始まるのだ。戦争が終わり、やがて先生に復職する昭和24年まで、静江さんは毎日、泣いてくらした。トヨダ、ヒロシマ、という言葉を耳にするたび涙を流した。夜、床につくと、左の目から涙が鼻柱を越えて右目に入り、そこから頬を伝って枕を濡らす。「涙で枕を濡らすって、本当のことですね」と、86歳のその人は語る。
そういう話をおよそ3時間にわたって聞いた。
夕方、辞去するとき、静江さんが私たちを呼び止めて、珍しい花を見せてくれた。アジサイの一種だが、大きな花と小さな花が並存する山アジサイだ。梅雨が深まるにつれて、白い花弁は薄いピンクに変わるのですよと、嬉しそうに語ってくれた。
60年も思い続けるというのは、どういうことだろう。もっと、静江さんの心を知りたいと思った。
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