市民球場を忘れないために
「HOME~大学生がみつめた広島市民球場」という私家版の映像作品を今夜見た。
広島の大学生たちが制作した45分のドキュメントだ。2008年で幕を閉じた広島市民球場のいろいろな姿を記録しておこうと制作されたものだろう。民生用のカメラで撮影しているが、なかなかよく撮れていた。
物語は、球場の始まった歴史から閉幕まで、次に新しい球場の計画と動き、と2章から成っている。
後半の構成ががたがたと崩れていった。私なら、新しい話は全部捨てて、終わっていく球場の姿をじっくり記録するのになあと、いい素材だけに残念に思えた。この番組のメッセージは、最初に登場し最後に再び登場する、元球団職員の渡辺英之さんの声にすべて集約される。彼は球場が出来たときから場内アナウンスの担当として勤めた。現在はリタイアして、原爆の語り部として活動している。
使命が終わって廃止となった、本川沿いの広島市民球場。目の前に原爆ドームが建っている。渡辺さんは原爆を体験している。あの8・6の惨状を目の当たりにしている。その人が、市民球場が出来てそこに勤めたときの感慨を、最後のインタで述べていた。
「球場の前にあるドームと違って、この球場には平和がある。平和っていいものだなあと思いました」
この感慨が、広島市民球場というものがもつ特質をすべて物語っている。
この映像作品のなかで、心に響いたシーンがある。津田プレートの話だ。球場のブルペンの隅にカープの選手会の手によってはめ込まれた記念プレート。津田恒美を記憶しておくモニュメントだ。この落成のときのニュース映像がインサートされてあった。私は見たことがない映像だ。そこには津田の妻晃代さんと愛児大毅君が映っていた。寂しげな晃代さんの表情がまぶたに焼きついた。津田プレートに刻まれた文言「笑顔と闘志を忘れないために」
この作品を見ながら、1994年初夏を、私は思い出していた。津田の番組「もう一度、投げたかった」を制作していた、あの頃をだ。あの夏は暑かった。広島のべた凪は例年以上だった。だが、私は広島の町を走ってまわっていた。何も苦にはならなかった。津田の無念を思って胸を熱くし、なんとか彼の遺志を世に広めたいと切望していたから。
もう一度、投げたかったというタイトルは私が決めた。投げたかったという表現は何か変だという気がした。もう一度投げたいなら変ではないが、それであれば津田投手の思いが表れない。若干引っかかるが、どうしても、仮定法過去の投げたかったにしたいと思った。放送が出たとき、誰も異論を唱えなかったからほっとした。
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