かしいでいる人
母が太宰治に関する日経新聞切り抜きを見せてくれた。太田治子さんが太宰の『斜陽』について語った記事だ。タイトルは「娘が読む太宰文学」(2009年3月12日)とある。なかなか読み応えのある記事だった。
太田さんは、太宰の作品の特徴はかしいでいる人を描くところにある、と見ている。エリートのように揺らぎのない人生でなく、屈託し行き悩むような人の生きかたをかしぐような人という意味で太田さんは考えていて、そういうかしぐように生きている人物を太宰はとりあげてきたと見ているのだ。
たしかに、「人間失格」のようにたえず生き方においておどおどして調子よく生きられないような人を太宰は好んで描いてきた。今風の言葉で言えば、「負け組」の人生だ。それをかしいでいる人とすくい取る。太田さんの言葉の選び方、太宰文学の急所の捉え方に感心する。
だが、太宰はそのかしぐ人を負け犬のようにしては描かない。そのかしいでいることを運命として受け入れるわけでなく、むしろ呪詛しそこからしたたかに反発する人物として描くのだ。
「札つきの不良だけが、私の味方なんです。札つきの不良。私は、その十字架にだけは、かかって死んでもいいと思っています。万人に非難せられても、それでも、私は言いかえしてやれるんです。お前たちは、札のついていないもっと危険な不良じゃないか、と。おわかりになりまして?」
このねじくれた感情。ここに万人は太宰文学に惹かれるのではと、太田さんは考えている。
話は変わるが、猪瀬直樹は『ピカレスク(悪漢小説)』において、太宰は悪人を演じてきたと喝破した。猪瀬独特の反語的な言い回しであるとしても太宰を悪人として捉えるのはやや浅いと思われる。太宰は悪人というより不良、札付きの不良というべきではないか。生まれついての悪人でなく、環境や時代により心ならずもかしいでいることを強要されて、挙句に不良になった人格と見るべきではないだろうか。
これから4ヶ月にわたり、太宰治について考えていく。主に『斜陽』をめぐっての太宰論になるだろう。その取材メモや文学の見方について、ここでも項目を立てて書いていく。
太田治子さんの「娘が読む太宰文学」については、まだ続けて書いていくつもりだ。
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