白川道
京都大学の吉田キャンパスには、昔の白川道が貫通していた。みやこの中心から白川道を通って東山を越えていわゆる志賀越え道を抜けて、大津の坂本に出る。ここには明智光秀の城があり、そこで琵琶湖の舟運を使えば対岸の織田信長の居城のある安土まですぐだ。おそらく、このルートがいわゆる安土往還ではないだろうか。その一部分に京大構内を抜ける白川道があったのだ。辻邦生の『安土往還記』はここを舞台にしているのではないだろうか。
とすれば、と、昨日キャンパスのなかを散策しながら思いついたことがある。歴史ミステリーのような物語が、このキャンパスを舞台に出来ないだろうかと考えたのだ。
京都はさすがに古い。いたるところに歴史ゆかりの場所がある。過去だけではない。現代の物語もあちこちに埋め込まれている。今年の授業で、「吉田神社の謎」という企画が出てきた。大学の隣にある吉田神社は、あの兼好法師ゆかりの名高い神社だが、今、ベストセラー「鴨川ホルモー」のロケ場所として人気を集めている。そのロケにエキストラで参加した学生たちの証言を中心に、この神社にまつわるエピソードを10分ほどの番組にしようというのが、今年の映像メディア論Aの授業のひとつだ。こんなふうに、京都では話題に事欠かない。
さて、京大キャンパス内白川道のことだが、「本能寺の変」ミステリーをここで繰り広げたらどうかと思いついたのだ。主人公は、変の数日前に明智光秀と連歌をいとなんだ里村紹巴。
天正十年五月二十四日、というから旧暦ではあるが、ちょうど今頃の時期。愛宕山で光秀、紹巴らが連歌の会を催して、そのとき光秀が冒頭に詠んだ句が
ときは今天(あめ)が下しる五月哉 光秀
時は今まさに天皇が下り死する殺気という謎かけの句だと伝わる。つまり、信長によって朝廷は危ういところにあると警告をしたというのだ。このときに、光秀の決心がなされたいわれている。その場で紹巴はこんな句を続けている。
花落つる池の流れをせきとめて
危機をなんとか止めてください、あなたさまによって、というような意味だろう。この句会から旬日を経ない同年六月二日に本能寺の変が起きている。里村は事変の当事者に近い存在といって差し支えない。里村は、みやこから白川道を通って、たびたび明智光秀の坂本城を訪れていたのではないか。時には信長の光秀に対するひどい仕打ちなどに対する愚痴も聞かされたのではあるまいか。当時の連歌師というのはある種のちょう報員、官房長官のような存在だったと推測する。とすれば、坂本往復にこのキャンパスを貫通する白川道を利用したと考えても不都合ではあるまい。構内のどこかに里村紹巴の幻が見えても不思議ではないかと、また例によって私の妄想が湧いてきた。これを主題に歴史ミステリー、ドキュメンタリードラマを作ってみたくなったのである。
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