如是我聞
9月の放送に向けて、太宰治のことについての研究を始めた。
今年は太宰治の生誕100年にあたる。それを記念して、太宰の小説が3本も映画化されるそうだ。1本はまもなく公開となる。来月には太宰の忌日がやってくる。桜桃忌といわれるものだが、その頃には新聞や雑誌なども書き立ててブームが招来すると思われる。それは分かってはいるが、私のチームはそういう流れとは少し離れて、初秋の放送を目指して取材/撮影に入ることにしている。そのための準備を始めたのだ。
昨夜は太田治子さんと会って食事をした。私とディレクターの二人だけで太宰に関するたくさんの新しい話を聞かせてもらった。太宰に関して万巻の書があるが、それでも未見未聞のことがあるようだ。これからがおおいに楽しみである。
ところで、太田さんは今、朝日新聞出版の小冊子「一冊の本」に「明るい方へ」という連載を書いている。『斜陽』をめぐる顛末を、娘である太田さんが2009年に立ちながら、1947年の父と母のことをみつめて書いている。不思議な立ち位置である。こんな一節がある。
《「修治さあん」母は、そのように太宰の本名を呼んだのだろうか。それはよくわからなかった。しかし漠然と、そうではない気がするのである。「太宰さあん」そのように呼ぶのが、太田静子に似合っているという気がする。》
これは、太宰が太田静子から「斜陽日記」を受け取り伊豆の温泉に去った後、太田静子が伊豆の山のほうへ向かって彼の名前を呼んだという場面である。
この節を読みながらギクリとした。
―そうか。太田治子は、母が父をどう呼んだのか知らないのだ。さらに、父の声を聞いたことはないのだ。
太宰治の『如是我聞』という作品がある。かくの如く我は聞けりという、阿弥陀経の最初の一句をタイトルにしたエッセーだ。この言葉は、お釈迦様はこういったというような意味だと解する。釈迦と出会ったこともない後世の人が語る言葉となるわけだが、太田さんもまた如是我聞のポジションになる。その意味では、私たちと同じようなものであるが、一方の当事者である母太田静子の肉声を知っており、その肉声を通して太宰の人となり姿が太田さんのなかに伝えられている。つまり、太宰の言葉は太田治子のなかで肉体化する。その妙を、私たちは取材を通して知りたい。
『如是我聞』のなかで、太宰治はこんなことを記している。
「重ねて問う。世の中から、追い出されてもよし、いのちがけで事を行うは罪なりや。
私は、自分の利益のために書いているのではないのである。信ぜられないだろうな。
最後に問う。弱さ、苦悩は罪なりや。」
太宰治はいのちがけで「斜陽」を作りあげたのか。とすれば、彼がその実現に向けて起こした行動は罪であるとして問われるものではないと彼は抗弁するつもりだろうか。今、彼が生きていれば聞いてみたい。それは、むろん叶わないから、私たちはさまざまな取材を通して浮き彫りにする。そういう奥深い主題を、私たちチームはこれから3ヶ月ほど考えることになる。不安ではあるが、ワクワクもする。
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