海を前にした河のながれのように
この一週間、密かに村上春樹の『アンダーグラウンド』を読んでいた。あることから、この『アンダーグラウンド』のあとがきのことを知り、自分のドキュメンタリー論を補強するつもりで読み始めたのだが、村上の“影”という考え方にぐいぐい惹かれて、本編を読み続けることになった。
そして、読了した頃に、大磯の家で私の書棚にはない文庫本『1973年のピンボール』をみつけて手にとった。おそらく息子が買ったのだろう。私は、村上春樹を長く読んでいない。最近になってどっと読むようになったから、私が買ったはずではない。息子はどういうつもりで入手したのだろうか。娘はずっと吉本ばななと池沢夏樹に引かれていたから、この書物を手にするようなことはないだろうとあたりをつけている。
この『1973年のピンボール』は、私のことではないかと思った。主人公の“ぼく”は1969年春に20歳だったとある。私は21歳だったが、もう一人の主人公“鼠”は1970年に大学を辞めている状況にあって、私はその1970年に卒業している、つまり大学をやめている。おまけに私は1948年鼠年生まれだ。主人公の“ぼく”と“鼠”のわずかな隙間に、私は滑り落ちた気がした。
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この長編の冒頭に登場する直子のエピソードが、終わりまでずっと気になった。語り手は、この直子の話に決着をつけないまま物語を終えているから、私は宙吊りにされた気分で読了となった。が、けっして不快ではない。むしろ、おためごかしの辻褄合わせのようなストーリーはいらないし、やめてほしい。
それにしても、この直子が死んだという一節に私は心臓をぐいと掴まれた気分になった。
《でも忘れることなんてできなかった。直子を愛していたことも。そして彼女がもう死んでしまったことも。結局のところ何ひとつ終わっていなかったからだ。》
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同じ頃、私もまた喪失の体験をしていた。長く忘れることができなかった。大学闘争の苦い体験を引きずりながら、プライベートな喪失感にも苦しんでいた。当時、私は神戸の東灘に住んでいた。6畳一間の下駄履きアパートの2階に逼塞していた。神戸は村上春樹の故郷でもある。鼠の舞台もそこに思えてならない。その神戸は、私にとって忘れられない思い出がいっぱいつまった場所であった。
未明に夢をみた。三宮のセンター街を突き抜けて、赤ひょうたんというよく行ったサラダの店が現れた。その店のことではない。そこを左に曲がったところにあったブティックだ。「芸夢」という名前だったことを、夢のなかで思い出したのだ。そこで、私が語った言葉を不意に思い出した。5月の若葉風のなかに私は立っていた。その夢の細い路地をずっと抜けていくと、内灘の砂丘につながっていく。
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ひとつの季節が死んだことを、鼠は次のように合理化する。
「海を前にした河のながれのように鼠は無力であり、孤独であった。」
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YOUTUBEをときどきのぞく。懐かしい歌がいろいろ出てくる。「遠くで汽笛をききながら」という曲に出会った。その歌の映像はスチール構成だった。どこか郊外都市の風景が次々と出てくる。
そこに、内灘のある場面が、“夢のように”現れた。――
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(どんな池にも必ず魚はいるさ)
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