がんばっているのだな
「団塊の世代を考える」というブログに興味深いことが書かれてあった。小森まなみというラジオのディスクジョッキーが十代、二十代のリスナーのかくれた支持を集めているという。そこでは、若者たちが熱く倫理を語っている。大人たちが憂う若者像ではない。「マスメディア」に取り上げられることは少ないが、隠れた人気を集めている。価値観が「島宇宙化」しているひとつの現象と、このブログの筆者は小森まなみ現象を高く評価している。
大人と若者のジェネレーションギャップというのは古今ずっとあったが、この現象はそういう見方では収まらないと見ている。大人と若者の間にギャップはなく、むしろその「倫理観」は大人たちの標榜する倫理観と重なっている。では、どうして世代間のすれちがいが問題になるのか。その理由は、若者が自分たちの言葉で「倫理観」を語る場がないこと。大人によって奪われていることに起因すると筆者は見ている。若者は語りたいのに、大人はそういう場を奪い、コントロールしていることが問題だというのだ。
そして、筆者は日経新聞に掲載されている養護教諭のコラムの例を引く。教室ではエゴむき出しで「順番」というものを守らないような生徒たちが、保健室では決められた「順番」を守って「保健のせんせい」に診てもらう。保健室でのふるまいと、教室でのふるまいの二面性を若者たちはもっている。そういうふうに見られるが、実はそうではないのじゃないかと筆者は考えている。
保健室という「場」は、学校の中で唯一、保健室をおとずれる子供たち自身が、自分たちでルールを決めて運用できる「場」である。そして、小森まなみの番組も、やはりリスナーである若者たち自身が作り上げていける「場」である。いずれにせよ、子供や若者たち自身がルールを決めて、おたがいに意見を交わしながら運用できる「場」さえあれば、そこではたいてい大人が期待するような「倫理」が優勢になるのだ。大人はもっと若者を信頼してもよい。というか、大人は若者たちが語る場を奪わないようにするべきだと、語る。
ただし、重要なポイントがある。それは養護教諭や小森まなみという媒介者の存在である。そこには必ずなんらかのまとめ役が必要だ、ということだ。
養護教諭や小森まなみは、まず、組織ではなく個人である。「限りなく透明に近い純粋な媒体」になっている。だからこそ、若者たちはその場でいきいき語るのだ。
以上のような論議が“団塊の世代”によって報告され評価されていた。これを読んで、私は我がことのように嬉しくなった。
実は、今から20年以上前に、私は小森さんとラジオのディスクジョッキー番組をやっていたことがあったのだ。「昼休みのおくりもの」というラジオ第2放送のささやかな番組だったが、当時の私の唯一のレギュラーだった。だから、大切にしていた。当時から、小森さんは短波放送で人気者だったが、私のマイナーな番組にも喜んで出演してくれた。およそ1年以上にわたって続いたが、番組枠そのものが打ち切りとなって、そのジョッキー番組も終わった。その最後の週に、彼女が流した曲のことが忘れられない。♪この町が好きだ 君がいるから、という歌詞だった。
と思ってウエブで調べたら、高石ともやの「街」という曲だった。どうやら、この街とは京都の町のことらしい。小森さんが長年にわたって行ってきた活動は、親世代の私たちにとってとても有難いものだった。追々、そのことについても書いていきたい。
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