春眠暁を覚える
忙しい日々が続くわりに、眠りが浅い。昔であれば、深夜作業が続くと朝は遅くまで寝ていた。熟睡したものだ。古語でいえば熟寝(うまい)か。夢をみることがあっても目は覚めず、8時頃まで寝ていた。61歳の現在は、早々と目が覚める。6時とか6時半、時には5時ということもある。眠りが浅くなっている。年をとると早起きになるよと、先輩が言っていたことを思い出した。
そんな自分を顧みて、年なのだと述懐する。肉体の衰えはいささか自覚しているにしろ、社会関係は以前と変わらないと自認(錯覚)しているから、自分の老人化の進み具合をよく把握していないのだなと、自分の不明に気づく。
目が早く覚めてもすることがない。本を読むのは朝から活字の小ささにいらだつし、パソコンを打つのもガタガタするから控える。所在なく布団にいて天井を眺めて、来し方のことを思い出して、小さな後悔を繰り返すということになる。あまり生産的とはいえない。
今朝も、鳥取城に登ったことを思い出していた。1993年のことだから、16年前になるか。出張で出かけたおり、時間があまったので古い城址を訪ねることにした。城といっても天守閣はないから、観光化されておらず、山道には地元の高校生しかいない。麓から本丸跡まで急な坂をぐねぐねと登った。天候が悪い日で、どんより曇った空から時々雨が落ちた。山陰特有の気候だったなと、今になって思う。
何もない天守閣跡に立って、町を見下ろしたことぐらいしか覚えていない。ただ、そのとき抱いていた感情は胸中に今もある。それをめぐって自分が何を考えていたかは知っている。そこまで思い巡らすと、次第に思うことが辛くなる。気分を転換する。
枕元の本を手にとる。フーコーの言説を解説した本だ。ぱらぱらとページをめくって、気になるフレーズを拾い読みする。
「狂人の肉体は解放され自由になった。だが、心のほうはどうか。相変わらず囚われ、とじこめられている」
今、フーコーの話をしているわけではない。が、偶然眺めたフーコーのこの言葉に触発され、再びわたしのなかで妄想が湧き起こる。
これまで、ちっぽけな社会関係を出来るだけ逸脱せず、羊のようにオトナシく生きて来た。周りは、好き勝手にやってきたくせにと見るかもしれないが、わたし自身は厄介虫は心の奥底に押し込んで来たつもりだ。
だけど、還暦を越え、最初の定年も過ぎて、眠りも浅くなれば、残された時間も少なくなってきたことぐらい分かる。その限られた時間を、汲々と生きるのもヤダなあとも思う。
でも、柵の外へ飛び出ることもおびえる。狂気をかかえることは恥辱(スキャンダル)であり犯罪へと貶められることになる。
春がたけてきた。今の多忙ももうすぐ終わる。終われば、何が待ち構えているのか。リーズンか。
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