さくらのことなど
さくらというのはフシギな木である。
花は下を向いて咲く。だから花見にちょうどいいのだ。その花が咲くときは、葉っぱはない。花だけだから美しさもひととおりではない。しかも、花が散るときは花しかないから散る花びらがさらに強調される。風に吹かれて散るのもいいが、風もないのにしずこころなく散るのもさらにいい。はらはらと、ほろほろと、散っていく。散った花びらが地上で風に追いたてられて転がるさまも捨てがたい。海に散るさくらも川に散りこめていくさくらもいい。水面に花びらが固まって流れていくのを花筏ということを歳時記で知った。咲くときも散るときも桜の花は美しい。花が咲いているときには虫がつかない。花が終わったあとから、毛虫などがつくようになる。さくらの花の条件はすべて花のもとで宴が出来るようになっている。
長い冬を終えて、春がめぐってきたと同時にさくらは咲くから、それをむかえる人々にとっても愛着はひとしおとなるのだろう。
桜守によれば、さくらの木が四方に張り出した枝の先の所まで根っこを張っているという。すなわち、一本のさくらの帝国は、地上も地下も同じ広さをもっている。
さくらの花の一つ一つは白くみえるが、集まってかたまりで遠めで見れば、うす桃色のさくら色になる。
白いさくらもあるが、やはり味気ない。あおい花弁のさくらもあると聞いた。フゲンという品種らしい。
子どもの頃は植物などに関心が向かなかったが、それでもさくらは心に残っている。
今年もさくらの季節が終わっていく。行く春である。暮の春、暮春となる。ここから春は本格的に始まるのだが、さくらが散るということで何かが終わっていく寂しさを残していく。受験生の頃、一番嫌な言葉は「サクラチル」だった。メールもケータイもない時代、大学入試の合否は電報で届いた。サクラチルは敗残と結びつく。だから、長い間、桜が散ることを愛でる気持ちにはなかなかなれなかった。
山中でさくらを見つけると、とても豊かな気分になる。誰かに見せようとして咲くつもりもない桜でありながら、満開ともなれば豪奢に咲く。まして、落花の時期に行きあたればその幸運を喜ぶ。誰にも知られず、ひっそりと咲く山さくら。それが散っていく日。花は他の誰でもなく私のために散ってくれているのだと感謝の念にかられる。何時間も立ち尽くしていたい。
さくらんぼが成るさくらは、花の咲くさくらとは品種が違うが、ちょうど今ごろに実をつける。昨日、目白のお屋敷町で青い小さな実がいっぱいぶらさがっているのを見た。今年はさくらんぼの成り年だそうだ。
花に遭うことを願う人は多い。特に病を得ている人にとって、花に遭うということは切実にちがいない。来年もまた花に遭えたらと、思う。
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