A先生
藤子不二雄Aさんの取材に立ち会った。お会いして、早速昨夜の番組のお礼を申し上げると、いい番組に仕上げていただいてよかったよと声をかけられた。ETV特集の構成要素に、A先生の詳しい証言は大きな意味をもった。75歳という年齢を感じさせない記憶力である。
本日の収録は5月特番「ザ・ライバル」の取材だ。
考えてみれば、50年前にサンデー・マガジンが創刊されたのだが、創刊号に執筆した漫画家で存命なのは両誌とも、A先生しかいない。あのちばてつやさんも創刊から2年ほど経ってからの登場だ。手塚治虫、寺田ヒロオ、益子かつみ、横山隆一、らみんな鬼籍に入っている。その意味で、A先生は貴重な当事者にして証言者である。
少年サンデーの依頼を受けたときの話はよく知られているが、あらためて証言として聞いた。
藤子不二雄の二人は、手塚が出て行ったあとのトキワ荘に入居したことは知られている。当時、手塚のようなモダンな丸い線を描く漫画家は少なかったから、新人ではあったが藤子に依頼が殺到した。二人はいい気になってすべて受け、そのため身動きとれない状態に陥った。A誌を描けばB誌が遅れる。どこから手をつけていいか分からなくなり、二人は完全に描けなくなった。そして、正月休みを兼ねて田舎の富山に帰省した。講談社の「なかよし」からも別冊付録の64ページを依頼されていたが、筆が進まず遅れていた。愚図愚図していた。そこへ、「ゲンコウ オクルニオヨバズ マキノ」という電報が舞い込んだ。編集長からの注文取消しだ。二人はそう思わず、仕事が減ってよかったと喜んでいた。
そして、正月が明けて東京に戻り、手塚治虫を訪ねた。そこで藤子不二雄が原稿のアナを空けたと評判になっていることを知る。このダメージがどれほど大きいことになるか、若い二人にはまだ分からなかった。
それから3年ほど、講談社からの注文は止まり、他誌の仕事も減り藤子不二雄にとって苦しい時代が続くことになる。漫画の月刊誌の仕事はほとんどなく、小学館の学年誌に細々と描いていた。この頃、A先生は昼間から銭湯に行くと、見知らぬ爺さんから「いい若い者が昼間から風呂か」とどやされる。「今、受験中なもので」と苦しい言い訳をするようなことも起こる。このあたりは「漫画道」や「・・・愛を知りそめし頃」に描かれている。
そして、昭和34年の2月、藤子不二雄の部屋を小学館の編集者が訪れる。新しく始まる少年週刊誌に連載漫画を描いてほしいというのだ。月刊誌ですら多忙に負けたのに、週刊誌という4倍速に耐えられるだろうか、二人は悩んだ。その末にこのチャンスを活かそうという結論に達し、サンデーに承諾を告げる。その二日後に講談社の編集者が訪れ、前の失敗は時効にして、新しく始まる週刊誌「マガジン」への執筆をお願いしたいと依頼される。嬉しい申し出ではあるが、2誌も週刊誌を受け持つことは到底無理と、断った。
「もし、マガジンの側が先に来ていたら、どうしましたか」と尋ねると、
「受けたでしょう。でも、マキノさんのところでは一年で切られていたでしょうね。サンデーと違って、マガジンの編集者は漫画の内容や細部にかなり細かく注文してくるのですが、それにぼくらは耐えられなかったかもしれません。」と愉快そうにA先生は語る。
黎明期において、すでに少年マガジンと少年サンデーのカラーがくっきりと浮き彫りになり、その後の熱い戦いの礎を築いていくことになる。
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