脳みそが雲丹のようで
10時過ぎに目が覚めた。昨日のスタジオ立ち会いの疲れがどっと出たようだ。
昨日、一昨日と寒い日が続いたが、どうやら今朝は暖かさがもどったようだ。まさに三寒四温だ。
昨夜から、ミシェル・フーコーの伝記を読み、その「えぐさ」のようなものに取り憑かれたか、妙な感覚が胃のあたりに漂っている。
エイズで死んだフーコーが、内なる暴力性と闘うなかで、そのセクシャリティを浮き彫りにしていくという話。簡単にいえば、ホモセクシャルとSMプレイのことだ。以前から、その噂は聞き知っていたが、それを具体的に記述するストラザーンの伝記はえぐい。
幼い頃、フーコーは金魚になる夢をよくみた。そのことをストラザーンは意味ありげにふれている。フロイド派にとって、これは重要なことだったっけ。金魚とは、いつも儚く死ぬものというイメージしか、私にはないが。
とまあ、咀嚼できないまま、フーコー伝を読み終える。なにせタイトルは「90分で分かる」だ、半日で読める。
トイレに入って、阿部宵人の『俳句』を読む。これが、分かりやすい入門書なので、つい30分も夢中になる。
俳句とはどんづまりの表現をめざすもので、冗漫な連想表現は排除されるべきと、著者はいう。
秋の月を思い眺めて思い千々
最悪の句だという。まず、俳句で月とは秋にきまっているから、秋は無駄。他の季節であれば夏の月というが、秋は蛇足。さらに眺めるも、月であれば眺めるも仰ぐも当たり前のこと。雨は降るものであり、風は吹くものであり、日や月は照ものであり輝いたり冴えたりするものだと、阿部は説く。だから、月とか風と指示すれば、その属性をはらんでいるから、そういうものを極力省けというのだ。
とにかく、この俳論は現代的な説明で分かりやすい。駄目な俳句を類型化している。
セロファン俳句、説明俳句、たがなし俳句、難読俳句、新造語俳句、骨董俳句、馬面俳句、めそめそ俳句、センチ語俳句、などなど。
一番気になったのは、センチ語俳句だ。感傷主義に流れるのは浅い孤独感で、流行歌によく出て来るような語彙、発想だとばっさり切り捨てている。ひとり、ほのか、ひそやか、よるべなし、そこはかとなく、などの言葉を用いないと、詠い上げた気にならないのだろうと、センチな作者を阿部は指弾する。その駄目な例。
春愁や激しきものを「秘めて」佇つ
こういう句こそ、初心者のやりかねないことだそうだ。耳が痛い。
でも、この句をカリフォルニアのバークレーで教えることになったフーコーの心境と思って読んだら、どうだろう。フランスで禁じられていた性が堂々と行われていたことを知ったフーコーが・・・、というおバカな解釈。こんなへりくつをいったら、阿部宵人にどやされるに違いない。
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