2人の間は
私たちの文化は、あの酩酊大臣のような軽薄さばかりでない。
日本文学のなかで、大江と村上はひときわ大きい指標となっている。
その村上春樹が先日イスラエルに出掛けて受賞をしたというニュースは、さまざまな層に衝撃を与えた。現地を見ないであれこれするのでなく、小説家というのは現場にあるべきというような主張を、村上はしたと思う。現場を見ることと、受賞することとは違うと思うが。どういう了見なのだろうか。
これに対して、パレスチナを支援する人たちから批判の声が上がっている。その批判は、まあ理解できるが、私としてはなぜ村上が、あえて火中の栗を拾う気になったのだろうか。そのことが気になる。
そして、今朝の「朝日新聞」の文化欄で、大江の「定義集」が収載されていた。これを読むと、大江は最近北京に行っていたことが分かる。そして、北京大学で講演したようだ。そこで話したことは、エドワード・サイードの最後の病床の言葉を紹介したとある。
《サイードがパレスチナ人の側にたってどのように予見したか、最後の病床にあって、虚妄の、希望的観測こそ受付なかったけれど、かれが「意志の行為としての楽観主義」と呼ぶものをいかに持ち続けたか。それについて私は話しました。》
大江の議論は少なくともパレスチナの立場に立ったものだ。
少なくとも、表面的には二人は今まったく正反対に位置する。でも、どうしてもそう私には思えないのだ。何か、村上春樹は心に期するものがあると思えてならない。買いかぶりか斟酌しすぎか。
少なくとも、ガザ地区では先日の襲撃で1300人が犠牲になっている。その命を引き換えにするようなことって、何なのだろう。
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