ラジオの巨匠
代々木の大学病院で精密検査を受けにいった。だんだん体のあちこちにボロが出て来ている。会社の診療所の紹介状をもって、朝8時半に受付に立った。それから4時間、検査を4つほど受ける。待ち時間の長いのには呆れた。老人たちは黙ってオトナシく待っている。この群れのなかに私もいるのだと、改めて、年齢を思う。
そのなかに、見知った顔があった。かつて、音声マンだった人だ。体が大きくハンサムだったから見栄えのいい人だった。髪の毛はかなり後退していたが、それ以外は昔と変わっていない。知人と話している声は、昔と変わらず大きくハスキーだ。泌尿器科の待ち合いコーナーだ。たっつあんも、こういう診察を受けに来るようになったのだと、ある感慨を抱いた。
30年前、私がまだ駆け出しのディレクター時代はラジオが局内でも力をもっていた。400台、500台のスタジオはみなラジオスタジオだった。407スタジオで毎週私は小さなディスクジョッキーの番組を収録していた。出演者一人、ディレクターとミキサーの3人だけという、いたって気楽な番組だった。このミキサー席に座るのは、たいてい年配の音声マンだった。ちょうどテレビのVTRの時代が始まっていたから、若い音声マンたちはみなそちらに向かっていた。というか、古い音声マンは新しい機器の進歩についていけず、昔のラジオスタジオで威張って仕事をするのが楽だったのだろう。
20代の私は、そういうベテランたちからラジオ番組の蘊蓄をよく聞かされた。そういう蘊蓄は同業の技術の若い人には言わずに、演出側の私に語る。
なぜ、私なんかに話すのかと聞くと、「どうせ、俺らのやり方なんかは古くさいと思われているからよ」と答えた。そのときは、そうなのだから仕方がないやと,私も思っていたが、今の年齢にたってみると、ベテランたちの憤懣もなんとなく分かる。しかも、彼らの培って蓄えていたラジオ番組の”知恵”はきわめて意味深いものがあったと、今になって思う。
ラジオで技術を磨いた人たちの末路は淋しいものがあった。私が30代になった頃からバブルが始まり、放送局もテレビ本格時代に入った。ラジオ屋さんはみな隅に置かれるか、忘れられていった。内にもった誇りなど、誰も見向きもしない。おおぜいいた音声マンもいつのまにか定年をむかえ、局から消えて行った。
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