定年再出発 |
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心優しいチビ太P
「ぼくって、誰にでも頭下げられるんです」と平山亨Pは言ってにこっと笑う。その笑顔がいい。笑っていても目だけは笑っていないという人がいるが、彼は違う。笑う顔は本当に破顔だ。屈託がない。 腰が低いのは東映京都の太秦撮影所で育ったからだ。撮影所では助監督のまわりは偉い人ばかりだ。絶え間なく頭を下げ続けた。それは苦にならなかった。師事した監督は時代劇の名匠松田定次。映画全盛に夥しい数で映画を作った人だ。芸術をめざすより、人を喜ばせるエンターテイメントをめざした人だ。その精神はしっかり受けついだ平山P。やっと映画監督を務めるようになった昭和38年、日本映画は下降局面にあった。太秦撮影所も仕事が減り、活気を失っていた。 40年に、平山Pは配置転換となり東映本社のテレビ部プロデューサーとなる。監督とPでは仕事は天と地ほど違う。よく辞表を書かなかったものですねと訊くと、「妻と子を路頭に迷わすわけにはいかなかったからね」とあの笑顔をまた見せた。 漫画が好きだったからよく読んでいた。ちょっと注意したいのは、当時、東大を出たオッサンが漫画を本気で読むなどということは考えられない。それをやっていたというのが、平山Pの特異点。貸本漫画で水木しげるの世界を発見しはまっていた。そして、少年マガジンの内田勝編集長の知遇を得て、本格的に水木しげるにアプローチする。半年後には「悪魔くん」のテレビ映画の撮影が始めていた、というから意外に行動派でもある。当時、木曜日夜7時は10chのNETでは最高4パーセントしかとったことがない枠だ。そこへ製作費のかかる特撮ものではあったが、平山Pは「悪魔くん」で挑戦した。ここが、彼の隠された美質。直感で得たものを信じ、やると決めたらトコトン前進していく。けっして諦めない。この頑張り屋の側面はあまり他人には見せない。 放送が始まると、初回は8パーセント。まだ低いが、それでも過去最高だ。現金だがけっして裏切らない子どものファンがいることを、平山pは実感した。次第に視聴率が上がっていく。製作費はかさんで赤字だったが、確実に番組イメージは上昇していった。 「この番組を作って一番嬉しかったことはですね」と平山Pは意外なことを語った。映画が斜陽となって仕事が無くなってリストラ寸前だった撮影所の仲間たちが救われたことだという。平山Pはなにより友愛を大切にする人だったのだ。 やがて、46年から始めた「仮面ライダー」は大ヒットする。これは、大阪毎日放送MBSの枠をゲットして作った。裏番組は視聴率40パーセントの「巨泉のお笑い頭の体操」だったが、ここの牙城を揺るがすほどの連続ドラマとなる。この企画は、平山Pが石森章太郎と苦心の末に作り上げたもので、昨日の聞き取りでも、平山Pはかなり微に入り細に入りして語ってくれた。その話は後日に譲るとして、このドラマがヒットして盛大なパーティが開かれたときのエピソードを紹介したい。 大阪の名門ホテルでパーティが開かれ、MBSの社長も出席して祝辞をもらった。そこで、平山Pは大きく頭を下げてお礼を言ったのだが、そのスピーチに関して今でも後悔しているという。「あの時、社長もいたからせっかくのチャンスだったのに、私は大野剣友会に毎月100万でもいいから振り込んでやってくださいって言えなかったのですよ」 話はややこしいが、こうだ。仮面ライダーがヒットしてキャラクター使用料だけでも○億ほどMBSに副収入をもたらすことになった。その利益から、普段ギャラが数万しかもらえないショッカーを演ずるスタントマンたちに、手当てをしてやってほしいと、平山Pは訴えたかったのだ。ところが、華やかなステージで、平山Pは舞い上がり、その進言をする機会を失い、そうした自分をいまだに責めているのだ。これは口先だけで言っているわけではない。本当に口惜しそうになんども語る。まことに、仲間を大事にするプロデューサーだと、あらためて思った。 来られた記念に下のランキングをクリックして行ってくれませんか
by yamato-y
| 2009-02-02 00:37
| 少年誌の青春時代
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