奄美の友だち
1959年(昭和34年)3月に、「少年マガジン」が創刊される。同日創刊の「少年サンデー」の表紙は長嶋茂雄が飾ったが、マガジンは相撲の朝潮だった。前の年に巨人軍に入団した長嶋は新人王を獲得して人気者だった。大相撲も当時はそこそこ人気があった。59年の春場所は優勝こそ逸したが13勝2敗で1月場所の11勝4敗という成績は問題視されたが朝潮は横綱になった。ということで朝潮人気の絶頂だったと記憶する。朝潮は強いときは本当に強いのだが、持病の腰痛が出るところっと負ける。そこが悪いところでもありいいところでもあった。太い眉毛で胸毛もじゃもじゃの朝潮はいかにも南国奄美育ちの風貌だった。
子供らは若乃花派と朝潮派に分かれた。ぼくは朝潮派だった。奄美出身ということでひいきだったのだ。
小学2年のときに友だちになった林山一三くんは、奄美の出身で、お父さんはわが北陸の町で工務店を営んでいた。眉毛の濃いいっちゃんは穏やかな性格で、家が近所ということもあって、よく遊んだ。同じ奄美出身の太田くんという利発な子もいたが、同じクラスではなかったから交流はない。今考えてみると、太田くんちといっちゃんちは同じ一族で家業も同じだったのだ。太田くんはスポーツも勉強もよく出来たが、いっちゃんはたいしたことがないうえにオトナシいから目立たない。
学校の帰り道が同じなので、いっしょに帰った。帰ると、木の芽川の土手の竹やぶで「隠れ家」を作って遊んだ。
太田くん一家は3年のときに大阪へ引っ越して行った。いっちゃんの一家は残り、その後もいっちゃんはぼくと同じクラス仲間だった。
5年のときだったか、ちょうど今頃、ぼくといっちゃんは喧嘩をして仲違いした。オトナシいいっちゃんはけっこう頑固で、なかなか仲直りができなかった。
そして、3月。終業式のときに、彼が大阪へ移っていくと、担任が朝の会のときに告げた。初めて知ったぼくは驚いた。ちゃんと仲直りしないまま別れるのは嫌だなと、そのとき思った。
下校のとき、転校していくということで、他の友だちがいっちゃんの周りを取り巻いている。そのうちの何人かと連れ立っていっちゃんは帰っていく。ぼくも何かいいたいと思って、遠巻きでついていく。いっちゃんは、ぼくがいることを知っているのに、ぼくの顔をちゃんと見ない。少し悲しかった。
そういう形で分かれたから、いっちゃんの行く先もその後の消息も知らない。ときどき、奄美という字を見ると思い出す程度になったが、いっちゃんと口に出すと、あの終業式の風のつよい日を思い出す。
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