陽のあたる坂道
夜来の雨があがって暖かい朝となった。ツヴァイク道を降りる。さんさんと光が降ってくる。最初の坂道を左に曲がると階段が17段あって急降下する。その次の坂には正面から陽があたる。光の踊り場だ。イタリアの旅で覚えたように、光に対して両手のひらを向けて、いっぱい光の粒を吸収する。
今朝、久しぶりに渋澤龍彦を読んだ。三島由紀夫の思い出を書いた書だ。渋澤が三島と最後に会ったときの様子を記している。三島が死ぬ前年、昭和44年11月とある。渋澤は妻(これは矢川澄子のはず)とともに初めてのヨーロッパの旅に出掛けるということで、三島は羽田まで送りにきた。東大仏文でヨーロッパ文化に精通した渋澤が、この年までヨーロッパの土を踏んでいないことには一驚するが、それもまた渋澤の面目であろう。外遊したことなどない花田清輝が戦前の京都でギリシア語を教えますという看板を軒先にぶら下げていた逸話と類した話柄だ。
羽田の待合室に現れた三島は例によって真っ白な”制服”で、おおいに人目を引いたと渋 澤は満足そうに書いている。存外、三島は世話をやくのが好きで、海外渡航の手続きを懇切に夫妻に教えた。ほとんど外出をしない渋澤が、ヨーロッパくんだりまで出掛けるなどという”行幸”を面白がって、渋澤は「この旅の途中で、奇蹟的に死ぬことができたら」と三島に語っている。めったにない晴れがましい旅の途次で倒れることができたら、風狂このうえないと渋澤は軽口をたたいたのだ。これを聞いて、三島が満面の笑みをたたえたことは容易に想像できる。渋澤は翌年に起きる事件の性質を同様のものとしてみている。
渋澤夫妻は2ヶ月欧州各地を廻って帰国。明けて昭和45年は激動の年で、私にもその激動の余波は少なからず及んできた。1月19日に私は22歳の誕生日を金沢でむかえた。4月から放送局に勤めることが決まっており、4年間の学生生活の締めくくりとと卒論の後片付けに追われていた。3月31日、神田から会社の研修所がある世田谷にタクシーで向かう。その車内のラジオで、日航よど号が赤軍によってハイジャックされたことを聞く。「われわれは明日のジョーである」という犯行声明が耳朶に残った。春から大阪万博が始まると世は浮かれていた折だった。冷水を浴びさせられた気がした。それから半年後、私は大阪梅田のオフィスにいた。昼下がり、同僚と無駄口をきいていたとき、三島が市ケ谷の陸上自衛隊東部方面総監部に乱入したと一報が入った。前の席に座っていた、奈良宇陀出身の「皇道派シンパ」の先輩は真っ青な顔で立ち上がった。
あの波乱の昭和45年から39年経過した。私は今朝61歳となる。このブログは57歳の誕生日の翌日から始めたから、4年のブログ歴も重ねたことになる。
来られた記念に下のランキングをクリックして行ってくれませんか
人気blogランキング