定年再出発 |
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戦死させられた女たち
横須賀まで取材に行った。昨年末から気になっていた人に会いに行った。「ヒロシマ・ナガサキを考える」という季刊誌を発行している詩人のIさん、から聞かされた話がきっかけだ。 詩集「原爆のその日から」の作者、澄江さん、86歳。この人の話を聞きたくて、品川から京急に乗って50分、横須賀、塩入に行った。三浦半島独特の段丘がいくつも重なる軍港の町。澄江さんの父上も海軍の軍人だったということで、この町の小高い丘の上に住んだ。 父上は海軍軍人で兵学校の教官を務めていた。だから澄江さんは江田島で生まれている。その父が横須賀に勤務していた頃、旭川師範学校の生徒で短期現役を志願してきた人が教え子としていた。酒を飲まない父だが、若い人が好きで、よく教え子らを週末ともなれば我が家に呼んでご馳走した。当時、澄江さんは13歳。その人廣治さんは7つ離れた21歳。床柱にもたれてにこにこ笑う姿がいいなあと思う程度であった。 兵役を終えた後、廣治さんは広島師範学校に入り、出身地である北海道に帰省するときはいつも横須賀に寄っていくのだった。澄江さんも女学校へ通う18歳、次第に意識していった。やがて、父の転勤で澄江さん一家は江田島に行くことになった。廣治さんが通う広島師範の目と鼻の先である。 転任して、家財道具も開けないうちに廣治さんは江田島の宿舎にやってきた。てんてこ舞いで夕方のすき焼きを作ったことを、澄江さんは覚えている。その後、優秀な廣治さんは広島文理大学へ進学。前途を嘱望された。しかし、彼には北海道に親が決めた許嫁(いいなずけ)がいたのだ。むろん、そのことを澄江さんは知らない。やがて、彼も大学を卒業となった昭和16年。澄江さんの父は、廣治さんに娘をもらってくれないかと切り出した。だが、廣治さんは苦渋に満ちた顔で、「自分には義理立てしなくてはならない存在がいる」といって断る。そのこともあって、二人は3年間、断交した。 昭和19年9月、繰り上げ卒業した廣治さんは母校の学校で教鞭をとる。10月、澄江さんの父はレイテ沖海戦で戦死。澄江さんの一家は横須賀に引き上げ、澄江さんは国民学校の教師となった。 昭和20年、戦局はいよいよ危うく、澄江さんは児童を連れて、海老名の常泉院に疎開する。6月、そこへ、廣治さんが現れた。やがて死ぬことになるかもしれない、その前にあなたの顔が見たいとやってきたという。諦めようと自分に言い聞かせていた澄江さんにとって、そのときの思いはいかばかりか。澄江さんの炎は燃え上がった。 ――そして、7月26日。澄江さんは入手困難な切符を手にして、広島へ向かった。3日間、二人は話し合った。廣治さんの側に困難があろうとも、二人はいっしょになりたいという考えで一致。廣治さんの恩師を訪ねて、仲人を依頼するのであった。二人が広島駅で別れたのが7月30日。それから1週間後のことだ。 広島に原爆が落ちたのは。8月6日の朝、廣治さんは勤務する学校の宿直の部屋にいた。凄まじい爆風はガラス窓を吹き飛ばした。幾千というガラス片が廣治さんの体に突き刺さり、ほぼ即死。やがて、校舎に火が回り、廣治さんは業火に焼き尽くされる。 広島に新型爆弾が落ちたと聞いても、澄江さんは独身の廣治さんは大丈夫だろうと楽観していた。9月に入ってからである、悲報を受けたのは。仲人を予定していた恩師からの手紙が横須賀の自宅のポストにぽとんと落ちた。「その音は、今でも覚えています。何ともいえない悲しい音でした」私に話す澄江さんの顔が極度に強張っていた。 それからの4年間は、廣治さんという字を見ても、形見の久留米絣を見ても、心が千々に乱れ、何度となく自分を見失いそうになった。澄江さんは言う。 「男たちは戦死して哀れでしたが、私たち女は男たちを失った日から、戦死させられたのです」 来られた記念に下のランキングをクリックして行ってくれませんか
by yamato-y
| 2009-01-13 22:01
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