99歳の記憶と実感
昨日は、およそ4時間にわたって大伴昌司母堂アイさんの話を聞いた。アイさんは来年数えで100歳である。福島県の出身で、宇都宮の女学校を卒業後東京に出てきて通信社の女性記者として活動し、25歳で結婚して、大伴昌司を得た。結婚相手はアメリカ帰りの評論家四至本八郎である。彼は大阪泉州の出身で早稲田を卒業後アメリカに渡り、カリフォルニア大で学んだのち、サンフランシスコの日米タイムスの記者として筆を振るう。帰国後はアメリカでの知見を広く世間に伝え、「頭脳(ブレーン)トラスト」など戦前のベストセラーをものした。
アイさんの女性記者時代の数奇な人生は最近荒俣宏氏が聞き書きして、ある銀行のPR誌で紹介され話題になった。出口王仁三郎や林芙美子と直接言葉を交わした体験が実にみずみずしく表されていたのだ。
99歳の記憶はあまりに膨大だから、ここでは夫八郎にまつわる戦後史を少しだけ記す。サンフランシスコ講和条約の前の年のことだから1950年の出来事だ。
その年のクリスマスイブに夫の八郎は長野県選出の代議士植原悦二郎といっしょにアメリカに旅立った。日本の独立を求めてアメリカ国務省との交渉にあたるためだ。この機密命令は当時の首相吉田茂筋から来た。アイさんは詳細を聞かされていないが、うすうす感じた。植原は副総理格だった。ワシントン州立大学出身の植原とカリフォルニアでジャーナリストとして活躍した八郎の二人がその重大な任務を与えられたのだ。
当時、アメリカ占領軍はまだ進駐を続けたいと考えていた。というのは、本国に帰ってもたいしたことのない連中だが、占領国にいるかぎりにおいては好き放題なことができる「利権」を手放したくなかった。だが、この連中と関わっているかぎり、日本の発展は望めないと一日も早い独立を吉田茂は目指した。と、アイさんは解説してくれた。なかなか面白い話だが、どれほど実体があるだろうか。この辺はウラをとってみないといけないだろう。いずれにしても、占領からの脱出は日本人の悲願であったのだろう。
1950年のクリスマスは寒い日だった。羽田から飛び立つというノースウェストのプロペラ機はみすぼらしくこれで太平洋を飛べるのかとアイさんは思ったそうだ。航路はアリューシャン列島を飛び石のようにした。
このとき、八郎が支給されたのは一日25ドル。こんな金額ではワシントンでは安宿にしか泊まれず、アメリカの役人から見透かされる。所持金を個人的に工面すべきと、上原は株券を売った。八郎は貯金をおろしニコンのカメラを2台買った。これをアメリカで売却して得た300ドルをもとに500ドル所持した。これらはあくまでポケットマネーで、その後も日本国から何も支給されていない。アイさんはこう言った。「昔の政治家は国のためには自分の財産も投げ出すという気概がありましたよ」
こうしてワシントンに入った二人は次の年の3月まで、毎日国務省とやりあった。
帰りの飛行機は軍用機でグアム島に到着し、そこから日本へ帰還となった。
そして7月。吉田茂はサンフランシスコに出掛けて、講和条約に調印し、日本の占領が終わることとなる。
八郎はおしゃべりで、何でもアイさんに話す人だったが、このときのことはいっさい口を噤んだ。何があったか、誰と交渉したか、いっさい話をすることもなかった。こういう「覆面大使」の出来事があったと自慢することもないままこの世を去っている。
私は初めて聞く話だった。アイさんの証言がどこまで歴史の事実と合致するのか知らない。だが、その具体性にはひかれるものがある。少し、占領史でも紐解いてじっくり調べてみたい。一方、100歳の証言は今のうちにできるだけたくさん記録したいと考えた。