鬼軍曹
「釣りバカ日誌」の漫画家北見けんいちが、少年サンデー50年の思い出として書いている話から。 40年ほどまえ、北見が赤塚不二夫のアシスタントだった頃、赤塚のお使いでサンデー編集部に行くと大声でどなっている鬼軍曹と呼ばれる編集者がいた。それが、後に5代目サンデー編集長となる高柳さんだ。
若い頃はすごいハンサムだった高柳さんは現在70を過ぎた好々爺の風貌となった。昨日インタビューをした。とにかく記憶がいい人だ。おまけにいろいろな資料を保有している。例えば副編集長に命じられたときの辞令まできちんと残してある。だから、いろんな事件の日付などもきちんと確認がとれる。およそ3時間近く話を聞いたが、まったく時間が足らなかった。この証言は来年の特番にきちんと披露するつもりだが、一つだけ心に残ったエピソードを紹介しておく。
今では考えられないが、40年前は、土曜日は編集部を読者の少年たちに開放していた。半ドンで学校を終えたこどもたちが神保町の小学館に来て、記事を作っている編集者たちとあれこれ懇談することがあった。
鬼軍曹が二人の少年と話している当時の写真がある。少年たちは世田谷の北沢から来ていた。一人は自分で漫画を描いていると語った。軍曹が「どんなものを描いているの」と聞くと、「オバケ」。ちょうど冬で雪が降っていた。「オバケなんてものは夏のものだよ。冬なんて季節が合わないよ」と軍曹がたしなめると、「オジサン、古いよ。冬だから面白いのじゃない」と少年はきっぱり言った。この言葉が鬼軍曹の心に残った。
編集者会議で、軍曹はこの話を持ち出した。藤子不二雄の連載「海の王子」が終わったところだったので、彼らにオバケの話を描いてもらったどうだろうということになった。早速、担当者が藤子の元に行き話をすると、その企画ならやってもいいという返事があった。
数日後、藤子の元を訪れると、オバケの名前は「Q太郎」という。編集者たちはなんだか古臭いから変えてほしいと頼んだが、藤子はけっして変えようとしない。せめてQ太ぐらいにならないかと言ったがダメだった。こうして、短期の連載ということで「オバケのQ太郎」が始まった。
始まったものの、まったく読者の反応がなかった。人気がなかった。
「やっぱり冬のオバケはダメか」と鬼軍曹は考えた。当初の予定の6週が来たところで連載を打ち切ることにした。藤子不二雄にも「オバケのQ太郎」の打ち切りを伝え謝った。
ところが、休止した翌週から編集部に手紙や葉書が舞い込みはじめた。「なぜ、オバケのQ太郎をやめたのか」という抗議の声が次第に大きくなりはじめた。これはオカシイ。ひょっとすると子どもたちの心を「Q太郎」は掴んでいるのじゃないか。鬼軍曹は慌てて連載再開を編集長に進言した。
――その後の大成功はよく知られている。
鬼軍曹は熱血漢だった。受験戦争や偏差値でガンジガラメにされていく子どもたちに、遊ぶ時間や原っぱや友達のことを与えてやりたいと願って、少年週刊誌「少年サンデー」を作っていた。建前やきれいごとばかりのPTAや教育ママなんてくそ食らえと、編集部にあって檄を飛ばしていた。もちろん、ライバル「少年マガジン」にも負けるなと若い編集者たちを叱咤していた。その頃のエネルギーのようなものが、昨日のインタビューでも時折溢れ出ていた。
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