自己回帰
近年、再帰的という概念がよく使われて、特に社会学的に考察されるケースをどういうことだろうと考えることが多かった。
だが、それとよく似た言葉だが、まったく違う「回帰」という言葉が昨夜来ずっと私をとらえていて離さない。
回帰ーー元へ戻ること。ぐるーっと動いて再び元の位置まで戻ってくること。
自分の人生にそれを見るのだ。敦賀で生まれ育って、金沢に出て、大阪ー東京—長崎—東京—広島—東京と転々とした。還暦となった。最後の東京へ戻ったのが1995年だから現在の位置には13年居ることになる。だから、ずっと東京にいた気分が最近多かったが、振り返れば人並みかそれ以上動いていた。ひょっとすると、今も移動中かもしれない。
そこで回帰ということが気になってくる。この場合の回帰は原点回帰ではない。つまり、敦賀に意味を見いだすのではない。自分がかってあった「場所」にもういちどこだわってみるということ。二つの町、金沢と長崎が浮かび上がってくる。
老人的な回顧といわれればそうかもしれないと答えよう。だが、過ぎ去りしことを再び呼び出すことは感傷だけとはかぎらない。なにか、そんなことを感じるのだ。
なぜ、金沢と長崎なのだろう。そこを知りたい。ただ直感で思うのは、その時代に抱いた希望とプライドを思い出したい。
井上靖の「流星」という詩を想起する。金沢の四高生だった井上が、ある冬の夜に内灘の砂丘に行って、マントにくるまって天を仰いでいる。夜空には満天の星。そこに、ひとつ流れ星。つつーっと流れた。
高等学校の学生の頃
日本海の砂丘でひとりマントに身を包み
仰向けに横たわって星の流れを見たことがある
11月の凍った星座から 一條の青光をひらめかし
忽焉とかき消えたその星の孤独な所行ほど
強く私の青春の魂を揺り動かしたものはなかった
今、引用して、自分が覚えていた詩と違っている。この流れていった星を、(私は)おのが額でいつかきっと受け止めるだろうと大志を抱いたと覚えていたが、そんな文言はない。
40年前、この詩を読んで、私はそう「誤解」して、今日まで来た。そういうことを考えてみたい。
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