少年誌の青春時代①
1959年(昭和34年)の春、私は小学6年生になろうとしていた。春休み、家族で奈良へ旅行した。若い父と母、それに私と4年だった弟と行った。京都から奈良線に乗り換えるとき駅の売店で新しく出た本を買ってほしいとせがんだ。長嶋茂雄の表紙が光って見えた。少年サンデーの創刊号だ。だから、あの旅行の日付は3月17日だとしっかり覚えている。このときマガジンも同時発売されたのだが、私は買っていない。サンデーのページを繰って寺田ヒロオの「スポーツマン金太郎」にすぐ魅了された。さらに、「海の王子」というSFものの美しい描線に心惹かれた。作者はそれまで名前を聞いたことがない藤子不二雄という人だった。この人物は2人の合体だということを知るのはずっと後のことだ。
こうして昭和34年3月に、少年サンデーと少年マガジンが同時に発売されて、日本のキッズカルチャーは大きく動き出していくことになる。両誌は文字通りライバル、竜虎の戦いがきって落とされたのだ。サンデーは小学館、マガジンは講談社。社の規模や体勢からいっても互角の戦い。
先週、サンデー創刊のときのT編集長にインタビューした。面白い話をいっぱい聞かせてもらった。これらは、来年の特集番組で披露していこうと思うが、一つ二つ、ちょっと内緒で話したい。というか、ものの本や出版社の社史には書かれてあるから秘密の話ではないのだが、実際に当事者の口から話を聞くとめっぽう面白い。
小学館は「1年生」とか「2年生」という学年誌をもっていたから、漫画家ともカット(挿絵、イラスト)を描いてもらうという付き合いがあった。学習雑誌ということで、絵がきれいですっきりしている作家が重宝された。T編集長は当時人気のあった馬場のぼると並んで寺田ヒロオがお気に入りだった。伸び伸びとして健康的な絵柄は学年誌にふさわしいものだと考えていた。T、馬場、寺田で酒をよく飲んでいた。
少年週刊誌の漫画にはまずぜったいに手塚治虫を外せないとT編集長は考えた。「少年」で連載する「鉄腕アトム」は人気実力ともに漫画の目玉だった。ただし、彼の全盛は過ぎていたと認識している。
手塚以外には寺田ヒロオを起用するつもりでいた。強烈なヒューマニストである寺田は少年誌には欠かせないパーソナリティだとT編集長は考えていた。ある日、酒を飲みながらT編集長は寺田に聞いた。「君のいるトキワ荘には、漫画家の”たまご”がいっぱいいるけど、誰がいけると思う?」寺田はすぐ答えた。「藤子不二雄」
翌日、T編集長は編集部員を一人連れてすぐトキワ荘を訪ね、藤子に面会した。実際に藤子Aと藤子Fの2人が現れたとき編集者は驚いた。原作を高垣眸にして作画を担当してほしいと伝えたところ、藤子は承諾してくれた。
少年マガジンはサンデーより半年遅れて企画が出発している。発売日までわずかしかないから編集者たちは奔走していた。だが、漫画に関しては少年クラブなど月刊誌で漫画家たちとは付き合いがあるので少し安心していた。
2月11日(水)小学館編集者がトキワ荘の藤子を訪ねて執筆を依頼してから2日後のことだ。2月13日(金、)講談社編集者石原氏(少年クラブ)が来て執筆依頼するも、藤子は週刊で2本を描くのは無理と断った。(トキワ荘青春日記、藤子不二雄Aの記述から)マガジン側にとってみれば、たった2日の遅れがダメージとなる。
サンデーVSマガジンの戦いの緒戦は、トキワ荘グループを最初に押さえたサンデーが有利に展開していくことになる。
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