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天然パーマ

 天然パーマに馬鹿はなし

天然パーマ、縮毛だった。でもそれほど酷いわけでもない。坊主頭の頃はそれなりに味があったと思う。

高校3年の受験期に髪を伸ばしはじめた。当時はやっていたのが整髪剤。バイタリスかMG5だった。一生懸命なでつけてアイビースタイルの髪型を試みたが、なかなかうまくいかない。原因を調べると、生来の縮毛がそれだと知った。直毛だと形がつくのだが、ちぢれっ毛は整髪した直後から型崩れしはじめるのだ。口惜しかったなあ。

 それでも髪がふさふさしていた頃はまだ何とかよかった。パーマだって当てたこともある。グループサウンズの出来損ないのような髪型で、マドラスチェックのシャツを着て、コットンパンツとスリッポンを履くのが、学生時代の私の定番だった。後年、村上春樹の肖像を見たとき、服の趣味が似ているなあと感じたが、彼が神戸出身と聞いて納得した。1970年代後半の神戸はまさにメンクラ(メンズクラブ)のスタイルが席巻していた。ちょうど私も御影に住んでいたので、その影響は多分に受けた。元町のメンズショップやガード下の輸入雑貨の店で、トラッドのアイテムを買いあさっていた。

 アイビースタイルのワードロープを一揃い購入したのは、30代最初の冬のボーナスのときだった。長年欲しかった黒のダッフルコートを買ったときだ。これでひとまずファッションへの願望は終息したと自分でも納得。

  仕事に就いて、ロケという現場をもって服装はカジュアルでネクタイなど殆どしない。それでも時代はまだ頑迷で、ある日オールドパーと書いたTシャツで出勤すると、部長からそんな洋酒屋の宣伝のような下着で会社に来るなと叱られた。台風の日だったので、バーミューダショーツにスニーカーというラフなスタイルが逆鱗に触れたようだ。後で、周りにいた友人たちからTP0をわきまえぬ愚か者と揶揄されたが。

 やがて40代になって「管理職」という者になって、スーツにネクタイというスタイルになった。一応組織の代表みたいな役回りがあったので、対外的に相手の信頼を得るということもあってスーツスタイルになった。この頃、バーニーズに繁く通うようになった。私のバブル時代だ。調子に乗って、アルマーニやドルチェ&ガッパ-ナなどにも手を出していく。先日、バーニーズのニューヨーク本店が閉じたというニュースを読んで、隔世の感。

 あれれ、こんなファッション談義を書くつもりはなかったが、つい昔を思い出して書きすべってしまった。

そうだ。私の髪の話だ。現役は散髪はオフィスのビルに入っている理髪店で切っていたが、58歳の第1次定年の頃から後頭部が薄くなりはじめた。そこで思い切って1000円カットに切り替えた。差額5000円は居酒屋代になっていく。ちょうどこの切り替え時期に、私は地元大磯で伝説の理髪師と出会う。彼はアイビー全盛の頃、いっせいに風靡した髪型クルーカットの創始者だったという。横須賀のGIから頼まれてカットして作ったのが始まりという。その人に切ってもらうことが2年ほどあったが、行くと蘊蓄が長く、面倒くさくなってやめた。カットする店がないので思案していたら、当時出来たばかりの1000円ショップ新宿店を見つけ出入りするようになった。今に至る。

さて、「天然パーマに馬鹿はなし」という語は義母が発したものだ。信州生まれのその人は不思議な言語感覚をもっていて、いろいろと人生蘊蓄言葉を発していた。あるとき私の縮毛を評して「天然パーマに馬鹿はなし」と宣うたのだ。

 これから試写で出社する。日曜日の午後6時から開始などという「働き方改革」に反するようなスケジュールで、編集がうまくいかないで焦っているなかで、こんなたわいもないことを書いた。


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# by yamato-y | 2019-07-28 16:15 | Comments(0)

茂吉の短歌

 茂吉の短歌

 明日というか今日、久しぶりにロケに立ち会う。今関わっている戦没したオリンピアンの企画で、かつて下町にあったプールで開かれた水泳記録会の名残を探すシーン。これを現地王子で遂行しようと週末から準備をしてきた。ここ2年、ジムでトレーニングしたせいか、体力はすこぶる良い。そこは心配していないが、記憶と判断がやや鈍くなっていると自覚する。リュックの中のどのポケットに鍵を収めたか、保険証はどこに入れたか、スイカは持っただろうか。その都度あたふたすることが多くなった。

 先週、リサーチで埼玉の鴻巣まで行った。番組のキイパーソンの遺族が住んでいる。孫というその家の主人は矍鑠として、私たちの要望に応えて、故人の残した記録や写真を見せてくれた。そのなかに祝福の言葉が書かれた額があった。筆者は斎藤茂吉。故人と東大医学部の同窓だったという。故人が大臣になったときのお祝いの扁額らしい。茂吉の懐かしい文字がちんまりと並んでいた。つゆじもという茂吉の長崎を詠んだ短歌を思い出した。

 家に帰って、長崎時代の茂吉の動静を久しぶりに探ってみると、次の歌と出会うことになる。

聖福寺の鐘の音ちかしかさなれる家の甍を越えつつ聞こゆ

ゆふぐれて浦上村をわが来ればかはず鳴くなり谷に満ちつつ

聖福寺、浦上、の名前は胸奥に焼き付いている。この歌を読み下したとき、何とも言えない思いが胸を駆け抜けた。この思いについては、いずれゆっくり考えて見つめるつもり。今夜は久しぶりのロケで高鳴る思いで眠りがたいこの時間に、眠れぬまま茂吉の短歌を甘噛みしていることだけ、久しぶりにブログに残しておこう。


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# by yamato-y | 2019-07-17 01:05 | Comments(0)

お初天神とまむし

まむしとお初天神

大阪に来ている。明日が本番だが、30日の本日は浜寺公園まで遠出した。ここに101年の伝統を持つ浜寺水練学校がある。シーズンオフで学校は閉じているが、どういう場所かということを知るために今朝一番に東京を発ってきた。

浜寺公園は堺市の海沿いの町、広大な敷地には立派な赤松林が整然とあった。手入れが行き届いていて、林間は清々しい。もともと海浜だったのだが、近代以降の埋め立てで周囲には巨大なコンビナートが出来て、浜辺はなくなり代わってプールが設置されることになる。水練学校はこれまでに37万の卒業生を育て、中にはオリンピックで活躍した選手も輩出したという名門クラブだ。

 昭和8年ごろ、ここの校長だったのが斎藤たか洋。彼は日本人として2度目に参加したオリンピックの水泳選手だった人物で、その後、ベルリンオリンピックでは男子競泳のコーチとして華々しい活躍を遂げた。後に、フィリピンで戦病死するが、彼の輝かしい業績とは裏腹に彼の人生がずっと謎となっている。一説によれば岸和田出身、ある人名録には千葉県出身、ある人によれば東京出身と諸説が入り乱れている。分かっているのは岸和田中学から立教大学に入学し、そのときにアムステルダムオリンピックの選手として6位入賞を果たし、大学を卒業して大阪毎日新聞の記者となったということだ。この人物の手がかりを少しでも掴もうと、ゆかりの浜寺水練学校へ飛んできたわけである。

 明日はミズノ本社の資料室に回る。ここに日本の近代スポーツの貴重な資料があるという。楽しみだ。

 という大阪立ち回りの事情で、夕方ミナミの難波まで帰ってきた。小腹も減ったので、心斎橋筋をひやかしていると、立ち飲みの店があった。ハイボール300円、アサリの吸い物が250円、焼きそば200円とまことにリーズナブルな値段。

 食い倒れの浪速だけあって味吉し、値段良し。空きっ腹だったせいか、かけつけで熱燗も。すぐに酩酊。ご機嫌で地下鉄千日前線、中央線と乗り継いで谷町4丁目へ向かった。ここには50年前に勤務した会社がある。建物はすっかり変わったが、場所は昔と変わらずJOBK、ジャパン大阪馬場(ばんば)町の角。唯一の昔の「部下」がまだいると知って襲撃した。酔余のまま歓談。15階の社員食堂から見晴るかすと遠くに生駒山系がなだらに連なっていた。手前には大阪城の場内が箱庭のように見てとれる。(太閤さんを下に見る)

 そして梅田に出て、飛び込みでホテルを探す。阪急東通りの隅っこにあるサラリーマン御用達のホテルで旅装を解く。ホテル名物の巨大浴場に飛び込んで、いい気持ちになり、部屋にもどって仮眠。

 午後9時に目覚める。また少し飲みたくなる。ということで曾根崎通りを逆走。お初天神に参った。この社の裏に昔から通ったサボイアがまだあると知っていたのだ。だが、どうも洋酒を飲む気になれず、向かいのうなぎ屋に入り込む。ここが正解。関西風のまむしのウナギのアテがめっぽう美味で、伏見の酒も灘の酒もなんでも合う。かくして轟沈。だが、本日の飲食代は合計しても3000円を超えていない。さすが大衆の町、大阪だ。

来月、京都の大学へ来た帰りにまた大阪へ寄ろうかなと悪企みを算段する退職自由人であった。


# by yamato-y | 2019-05-31 01:12 | Comments(0)

「戦争未亡人」その後

「戦争未亡人」その後

このブログも書き始めて15年経過した。初期に「戦争未亡人」という題で、私が初めて手がけたラジオドキュメンタリーの主人公のことを書いたことがある。清水鶴子さんという“老女”の身の上を追った記録である。34歳で、ディレクター人生のとば口で出会ったこの主題に私は熱くなった。戦争の悲惨ということを痛いほど感じていた。後に、私が広島長崎の被爆者への思いを強くする契機ともなったドキュメンタリーだ。

 1週間ほど前に、この鶴子さんの孫にあたる女性からコメントを頂いた。それによれば、鶴子さんの一人娘ユリコさんの娘さんで名前は記されていない。が、鶴子さんとそっくりで鶴子さんによく可愛がられたとある。鶴子さんは美人だったから、きっと孫も美女に違いない。何を思って、コメントをくれたのだろう。何か、鶴子さんのことを思い出す出来事でもあったのか。

 このラジオ番組を制作しているとき鶴子さんは老女だと思っていたが、当時73歳。今の

私と2つしか違わないことを知って愕然となる。

取材しながら、なぜ、40年も前に死別した夫や息子のことをこれほどビビッドに語り嘆く

ことができるのか、不思議でならなかった。

通常、40年の歳月は「日にちぐすり」が効いて、すべて茫洋の彼方になるはず。だが鶴子

さんは愛児がまるで昨日亡くなったかのごとき悲哀を身に帯びていた。同時に、無謀な戦い

を強いた為政者権力者への批判は激烈であった。毎夏、全国紙の投書欄に鶴子さんの反戦記

が掲載された。鶴子さんの怒りと悲しみはけっして収まることがなかった。

今、この71歳の境遇に立ってみて鶴子さんの心境が少し分かるような気がする。

記憶に今昔の長短はないのだ。どれほど昔であろうと、かけがえのない思い出が甦るとき、その人の胸奥で

はまるで昨日のごとく仕種も匂いも表情も在るのだ。そればかりか、その時の自分の感情も

しっかりよみがえる 。私とて、最近、高校

生だった頃の悩みの素に明け方苛まれることがある。それはとても生々しいのだ。あのとき

俺はなぜあんなことを言ったのだろう。きっと嘘だとばれるに決まっているのに。でも、あ

のときはあれしか術がなかった。と自分に言い訳しながら、往事を偲び、かつ再体験そして

後悔を繰り返している。

 鶴子さんは若くして寡婦となったが、ユリコさんもけっして長くはない人生を送ったと

風の噂で聞いたことがある。鶴子さん似の孫の方は、おばあさん、おかあさんの分だけいっ

ぱい仕合わせになってほしいと心から願う。

 昨日、大雨の中、近くの自然教育園に行った。降り出した雨で園内には人影はなく、ケヤ

キやすだじいやえのきの巨木に降り注ぐ雨音がひときわ大きく響いた。傘を持たずに入園

したせいで、根方で幾度も雨宿りをした。灰色の雨雲の下で大揺れする葉群れをみながら、

「風の又三郎」を思い出した。

どっどど どどうど どどうど どどう、
どっどど どどうど どどうど どどう
青いくるみも吹きとばせ
すっぱいくゎりんもふきとばせ

死者が懐かしい。自然教育園の中央にあるひょうたん池に蝶々が飛んでいた。最初は1匹、

やがて追うように2匹、3匹。あれー、何だろう。蝶々のギリシャ語はプシケ―で魂とい

う意味も併せ持つと聞いたことがある。では眼前の3匹の蝶々はなんだろう。

25年前死んだ父、10年前に死んだ母、そして3年前早世した弟。なんだ、みんな一緒にい

るのか。


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# by yamato-y | 2019-05-29 17:12 | Comments(0)

4年無病

4年無病

ついに大風邪をひいた。先週末から体が冷えたのかなと感じることが増えていた。ジムに通うようになって病知らずの状態が4年続いていたのでタカを括っていたこともあろう。まだ大丈夫とあちこちを出歩いていた。国会図書館まで往復なんてことも数回やっていた。それが日曜日になって急に喉がいがらっぽくなり、体が重く感じられるようになった。めしもまずくなった。何を食っても味がしない。

 週が明けてもいっこうに上向かず、火曜日に竹先生の鍼を打ってもらった夜などは足取り重く新宿の町をふらふらと歩いた。止せばいいのに、熱燗を2本飲んでゲン直しとやったのがいけなかった。その夜、ついに一晩中ゲーゲー吐いたり頻発する咳にやられたりでグロッギー。パブロンを飲んで厚着をして、寝汗を幾度もかいた。ようやく風邪を引いたと実感し、おとなしく朝を迎えたが、それでも改善しない。

 昨日の木曜は3つほどアポがあったので、渋谷へ出て行く。とにかく美味いものを食べて活力をつけようと寿司清で握りランチを食す。だが味がしない。シャリの甘酸っぱい香りがない。マグロもイカも砂を噛むごとく。

最初のミーティングは司会なのでメンバーの言っていることをよく理解しなくてはならないのでだが耳が遠くなって、自分の声がワンワン響く。冒頭に風邪でよく聞こえないので申し訳ないと釈明しながら始めたがおぼつかない。聞き取りが半分出来ないままなんとか終了に持ち込んだが、そのあと、番組の構成打ち直しで3時間はかかりそうだと恐怖したが、メンバーの都合が悪いので日延べとなりほっとする。ふらつく足取りで目黒まで戻り、夕食もとりたくないままベッドに潜り込む。

 目が覚めると午後7時を回っていた。無性に果物が食べたいと思ったが、あいにくない。近所のアトレで買ってくるかと思うが出歩かないほうがいいと家人に止められる。家人もこの2週間風邪で倒れて八方塞がりとなった。

 思い直して熱い風呂に入って、辛いカレーを食べて、薬を飲んで、セーターまで着込んでベッドに入る。そのまま眠る。

 午後11時目を覚ます。汗をぐっしょり掻いていた。着替える。ぬれた体を乾いたタオルで拭くと気持ちがいい。すこし聴覚の不快がおさまってきたか。

 深夜1時までパソコンをいじり、そして寝た。

 明け方、午前5時、午前8時と目が覚め、下着をかえて現在に至る。鼻をかみ過ぎて左の小鼻が痛くなっていたが、やや噛む回数が減った。久しぶりに病気の不快を味わい自覚した。

 考えて見ると、4年間医者知らずというのはおそらく最長ではないか。それほど体調が良かったのだ。だが好事魔が多し。一瞬にして春風邪に突き崩されて、気息奄々となった。未だ残咳あり、週明けまで要警戒。

 老人になったら(今もそうなのだが、後期高齢者になったら)、こんなふうに耳は遠くなり目はかすみ味はなく、体が重いという苦難が待っているかと思うと、健康を保つことの重要さをしみじみ思う。頭では分かってていてもなってみないと実感出来ない自分の卑称さに自己倦厭。


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# by yamato-y | 2019-04-19 09:12 | Comments(0)

日吉の丘

日吉の丘

 2ヶ月ぶりに動画作りを教えているジャスミンのオフィスに行った。ジャスミンは知的障害を持った人たちの授産施設が本業で、他にグループホームをいくつか所有している。メンバーは養護学校を卒業したばかりの若い人から50代の女性までおよそ30人が横浜の日吉にあるオフィスで働いている。午前中は中華菓子を作り、昼からは三々五々お話をしたり楽器を演奏したり太極拳を演じたりしている。

 午前10時前に行くと、全員で太極拳の体操を始めていた。みんなすごく愛想がいい。私を見つけると寄ってきて「こんにちは」と声をかける。発語できない人も指で話しかけてくれる。指導をしている先生がいつもより多いのでそのことを言うと、今年ジャスミンに入社してきた新人の先生だった。責任者はクァンさん。日本の大学で学んだ中国の人である。在住して20年になるそうだが、日本語は未だ得意ではないらしい。でも一生懸命コミニュケーションを取ろうとする。何事にも一生懸命の人だ。

 去年の春から、このメンバーたちに映像の撮り方や編集の仕方を教えてきた。これまでに、横浜の障害者フェスティバルに出場した演劇や浅草の町の紹介リポートなどを作ってきて、最終目的であるパラスポーツに出場する仲間を描いたヒューマンドキュメント「市川君の3000メートル」に去年の秋から取り組んで来て、ようやく作品が完成し、その最終試写を本日メンバー全員といっしょに行った。

 市川君は話をすることは出来ないが、こちらの言っていることは分かる。ジャスミンのメンバーはいわゆる言葉を介さなくても市川君の気持ちは理解できるらしい。取材を終えて別れるときいつも「いちかわくん、ありがと」と繰り返すと、市川君は指を立てて“返事”をしている。

 撮影は3台もしくは4台のスマホのカメラ。編集はディレクターの金沢君が中心になって音楽を入れたりテロップを入れたりしてパソコンで作り上げた。これまで3回ほど試写をして、改善点を指摘してきたが、金沢君はその都度クリアしてきた。さて、今日で最終決着がつくか、半ば期待し半ば不安を持って試写に臨んだ。

 番組の尺(長さ)はおよそ20分。舞台は市川君の自宅と横浜日産フィールド小机。場面は自宅で練習前の支度をする市川君の様子。自宅から会場までの車移動。会場の日産フィールドでの準備体操から本番。なぜカメラが複数あるかというと、1400メートルを走る市川君を一人で追いつくことができないので、4人で分担してトラックの4分割を受け持って撮影したのだ。この中には選手の市川君と同じ早さで走りながら撮った沼さんのような豪の者もいた。

 さて、番組はどうなったかというと、物語が始まるや間然としたところがなく、するすると進み、最後に本番レースのラストの周回で市川君が苦しそうな表情を見せながら、それでも懸命に走り続ける姿をカメラはじっと見つめていた。見終わった後味が良かった。最後にずっと傍に居て見守っていたお母さんがインタビューで「練習はみんなと走るから大丈夫だけど、レースは一人で考えて走るのだよね。今日はよく出来たと思う」と答えていた。印象に残る言葉だった。

 

 予想以上に仕上がっていたので、私はジャスミンを早めに出て、慶応日吉キャンパスに向かった。ここの学食で鰤の煮付け定食を食べたかったのだ。12時を過ぎると新入生がどっと入るから、なんとしてでも昼前にと。小ライス、マッシュポテト、味噌汁、そして鰤煮、締めて380円。ヤスイ。

 学食は好きだ。あの若者の雑然とした野放図な姿があちこちにある風景は気持ちが安らぐ。トランプをしている67人の男女がいた。何が楽しいのかケラケラ笑っている。ぼっちメシを食べているのはほとんど男子。ファッションで気づいたのだが、女子の多くがGジャンを羽織っていた。長めのスカートだったりパンツだったり。

 食べ終わって、キャンパスの一番高い丘の「展望台」に立つ。向かいに矢上キャンパスを遠望する。ここがお気に入りの場所で、ベンチに腰掛けてぼんやりするのが好きだ。

 たんぽぽをぽぽと吹かば恋成就 登羊亭


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# by yamato-y | 2019-04-15 18:22 | Comments(0)

花の影

花の影

 今朝も目黒スポーツセンターのジムに行き一汗流した。終わって出てくるのが10時過ぎ。

朝の冷気は収まり、春の陽気がそこここに漂う。

ジムの建物から出ると石畳のヤードで、その端に朝倉文夫の彫像「花の影」がある。若い女性が両手を大きく挙げて太陽の恵みを受けるヌードだ。3年間、ずっと見てきたが飽きない。朝倉のとてつもない造形力、描写力に毎度感嘆している。四季いつも素晴らしいが、とりわけこの時期は興趣が深い。

 この像から5段ほど下った園庭に大きなケヤキがあって、この彫像と同じ形で枝の腕を大空に向かって上げている。まるで両者は対のようだ。そのケヤキに青い新芽が吹き出し始めた。葉が茂ると枝振りが隠れて興趣が下がるのだが、この時期はまだ枝が美しく彫像との釣り合いがとれて見心地がよい。

 このケヤキの奥が目黒川で今桜が満開となって、おおぜいの人で賑わう。その通りから少し引き込んだ場所に「花の影」とケヤキはあるから人混みもなくひっそりと鎮まり、この風景を独り占めできる。

 それにしても、朝倉はこの女性ヌードに「花の影」と名付けたことに驚く。この作品はむろんオリジナルでなく原型はおそらくどこかの美術館でもあるに違いない。だが、コピーであれこの作品はここが一番。タイトル通りの造形となっている。

 字面だけ見ると、花の影というのはあまいが、作品を置いて見ると納得する。大岡昇平の「花影」も重なる。

 先日、朝倉の次女響子制作のブロンズ像をどこかで見かけて、なかなかの力量に感じ入ったが、場所がどこであったか思い出せなくてもどかしい。長女の朝倉摂は舞台造形家として知っていたが、次女は知らなかった。私が見たのは帽子をかぶった少女像。父ほどダイナミックさはなかったが、慎ましい風情が心にしみた。

 彫刻家というのは親子の血筋は濃いのだろうか。朝倉文夫―響子から連想したのだが、高村光雲―光太郎、舟越保武―桂。佐藤忠良は娘がたしか女優だったはず。

 美術の中で彫刻ほどあからさまなものはない。少しのずれ狂いがたちどころに作品の優劣を醸し出す。巨匠と言われる人の作品でも惨いものがいくつもある。いわんや美大生の作品はなかなか佳作に出会うことはない。おおよそ平和とか希望とか愛とか仁とか大仰な言葉の入った作品は碌なものがない。

 谷中にある朝倉彫塑館に行ってみようかな。


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# by yamato-y | 2019-04-04 11:49 | Comments(0)

桜の、花の色

 蒼ざめた花の色

人生というものは一筋縄ではいかない。これも人生あれも人生、人生なんてこんなものさと悟ったようなことを言っても、いざ死という大波が来るとそんな人生訓なんて「屁のつっぱり」にもならない。

 自分の70年の短い時間をとっても、いろいろなことがあった。まったく予想すらしなかった一大事が発生し、死という言葉が一瞬過ぎったというようなことは少なくない。10指はあったであろう。こんな私の平凡な人生にしてそうだから、表舞台で活動をしている選ばれた人や重要な役職にいる人などは天国と地獄の間で木の葉のように翻弄されているという体験をたえず抱えこんでいるのだろう。

 昨日、戦前陸上競技で活躍した選手の遺族の方と会って、その選手の人生を取材した。その人は昭和6年から12年にかけて箱根駅伝で活躍した名選手だ。ちょうどベルリンオリンピックの頃で、この人も1500㍍の選手として国内予選に出場したが、惜しくも2位となり、オリンピックに出ていく機会はなかったが、箱根駅伝では2度もアンカーを務めている。

 大学を卒業後、満州の大連汽船に入社。羽振りのいい“国策会社”に勤めるため、彼は玄界灘を渡っていった。彼の住んだ大連は、中国大陸で事変が起きているとはいえまだ激しい戦火もこれといってなく、比較的平穏だった。そして結婚をして一児を得る。その息子さんと昨日会ったのだ。77歳となるその人は父とわずか1年ほどしかともに暮らした経験を持たない。昭和19年、現地で召集となった父とは別れ別れになる。だから父の記憶をほとんど持たない。

 母から聞かされたのは、父は身長が175㌢もあって、かもしかのような美しい脚を持っていたということ。神宮の競技場でおおぜいの声援を受けて、華麗に走っていたということ。

 父が出征したので、母子は日本へ一時里帰りする。そして半月後に満州に帰るのだが、汽船に乗船する段階で、子は小児ぜんそくの激しい発作に襲われ、大陸に戻ることを中止した。

 この中止は結果幸運となる。門司を出港した大陸とのその連絡船は対馬沖でアメリカの潜水艦によって爆沈させられた。昭和20年に入って日本近海はもはや危険な海となっていた。



 一方、父はソ連と満州の国境ハイラルの守備隊に転属となって着任。そして89日、突如ソ連軍は国境を越えて満州に侵攻してきた。気がつくと守備隊は全方位ソ連軍によって包囲された。もはや全滅しかない。この窮境を師団本部に伝えなくてはならないと部隊長は父に伝令を命ずる。814日のことである。深夜、父は二人の兵隊を連れて遙か200㌔離れた興安嶺の本部を目指して出て行った。父の消息はそこまでである。その後の父と兵隊の行方は分からない。戦死の公報もなければ遺骨もない。昭和37年まで「未復員」という状態が続いたと息子は語る。

 そして、翌815日、玉音放送が流れ、部隊は敗戦を知る。ソ連軍に降伏して武装が解除された。この部隊はシベリアに送られ、2年余りの抑留となった。

 2019329日。東京は花の季節をむかえた。おおぜいの人が花を求めて散策する。悪いことではないが、桜というのは瑞兆を指すだろうか。なんとなく死の匂いがしてならない。花びらは華やかなピンクではなく、寒さと悲しみに蒼ざめたほのかな桃色で、言祝ぐと言うより鎮魂を暗示しているとしか言いようがない。夕暮れの花冷えの大気の中で、満開の桜と向き合うとき、根方に死者がそっと立っている。そんな気がする。


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# by yamato-y | 2019-03-30 15:46 | Comments(0)

呉の街

瀬戸内の海辺で

週末、尼崎、御影、広島、江田島へ取材に行った。久しぶりのロケにアテンドした。

ある戦没オリンピアンの人生を追う取材だった。その人は74年前の317日に激戦地硫黄島で戦死した水泳の銀メダリスト。その遺族親族の証言を得ながら、彼の、鮮やかに輝きそして一瞬にして消えた流星のような短い人生を浮き彫りにした。詳細は今週日曜日の朝7時半から8時までの中のどこかの時間帯で放送されるので、それを見てほしい。

 久しぶりに瀬戸内の海を見た。江田島市大柿地区、昔は能美島と言われた地がその選手の故郷だ。そこまで行くのは昔は連絡船を使ったが、今では広島から陸路で呉まで出て早瀬大橋を渡って行くコース。日曜の朝だったから渋滞することもなく広島から1時間半ほどで現地入り出来た。


途中、呉の街を通過するとき、25年前の出来事を思い出した。その頃、広島局に私は勤務していた。単身で赴任したが、2年目に息子が中学、娘が小学校へ入学する時期を見計らって呼び寄せた。ちょうど今時分だ。桜の花が開き始めたばかりだった。東京の学校から突然親の転勤で広島の庚午中学へ連れて来られた息子は大変だったはずだ。働き盛りだった私はそのことに気づいていなかった。

 広島の中学では制服があった。青いブレザーだったと記憶する。ネクタイも締めていたのではなかったか。妹が「サラリーマンみたい」と冷やかしていた。小柄だったのでまだ小学生のようだった。大丈夫かなあ、地元の子供らとうまくやっていけるかなあと少し心配にはなった。

 我慢強い息子は愚痴も何も言わず、広島弁の飛び交うクラスの最初の授業にも積極的に飛び込んでいった。健気に立ち向かう息子の姿に、親として有り難いと感じるものがあった。

 身長はそれほどないのにクラブ活動はバスケットボール部を選んだ。シカゴブルズのマイケル・ジョーダンが全盛期で、息子は憧れていたのだ。だが庚午中学のバスケット部は県内でも有数の強豪校だった。部員も3桁に近いほどいたと思う。1年生でもかなりうまい選手がいると息子は晩ご飯のときに話していた。レギュラーなどは至難で、補欠のその他大勢組かと思ったが口には出してはいけないだろうと、自制した。普段ならきっと軽口をたたいて冷やかしたのだが、そのときはしてはいない。

 結局、その学校には1年しかいず、息子は2年生になったとき、大磯の中学校へ転校することになる。短い庚午中学生活だったが、バスケットの対外試合で呉へ行ったことがあると家人から聞いた。親と離れて旅行する機会などなかったから、そういう行動もできるようになったかと少し嬉しかった。でも小柄なブレザーの少年が呉の港町に降り立ったときどんな気持ちでいたのだろう。ロケ車に揺られながら、遠い日のことに思いを馳せた。

 大磯へ移って2年も経たないうちに息子は急激に身長が伸びた。バスケットボールをやっていたおかげかな。今では1歳の男の子の父だ。


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# by yamato-y | 2019-03-18 23:57 | Comments(0)

冬の終わりに

冬の星座を愛おしみ

 音楽の教科書で6年生のときに覚えた曲「冬の星座」。

♪木枯らしとだえて さゆる空より

 地上に降りしく くすしき光よ

 ものみなねむれる しじまの中に

 きらめき揺れつつ 星座はめぐる

アメリカのヘイスが作曲したとネットには書かれてある。初めて知った。てっきりヨーロッパの曲だと思っていた。覚えた年の冬は寒く、庭のニセアカシアの裸木にかかる三日月が心に残った。

 さて、先日国会図書館から三田を経て高輪、白金、目黒と歩いて帰った夕方のこと。日は少し残っていたが夜空がダークブルーに染まって広がっていた。白金の傍を歩いているとき、高台にケヤキの美しいシルエットが見えて、思わずカメラを向けた。その写真を添付しておこう。


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# by yamato-y | 2019-03-11 22:08 | Comments(0)


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