定年再出発  


懐かしい空
by yamato-y
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卒業旅行

卒業旅行

 この14日(月)から昨日の17日まで、京大のS先生やN講師といっしょに長崎へ調査に行った。
御存知のように長崎は私にとって3番目の転勤の地。30年前に残した思い出がいまも沢山残っている忘れ難い
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地でもある。だが今回の調査はそのこととは半分しか関係しない。メインの目的は長崎港から19キロ沖合にある無人島「軍艦島」の観光資源の活用についてである。3泊4日の男3人旅、めっぽう楽しく愉快なものであった。詳細は別稿にして、この回は旅程がどんなふうに展開したかを詳らかにする。
1日目 朝8時過ぎ家を出て羽田に向かう。12時20分長崎空港着。関西空港から先着していたS、N両氏と合流。長崎市内に出て新地でさっそく皿うどんを食す。昼過ぎ浦上中央に向かう。爆心地公園、平和公園、原爆資料館の陳列展示の仕方を注意深く観察するS先生。このコースからやや逸して平和町の浦上天主堂に行く。ここにはかつて私が「スクープ」した被爆のマリア像が安置されているはずで、それを見てもらいたいと誘ったのだ。後で分かるのだが、「被爆のマリア」は祭壇の中にあったのだが、われわれは見つけることができず、玄関前の柱に置かれたレプリカしか現認しなかった。夕食は思案橋の中華料理店ですます。

 2日目。ホテルを9時に出立。大浦常盤埠頭に集合する。朝早いのにおおぜいの若者たちが押し寄せていた。今「軍艦島ツアー」はブームだそうだ。150人乗りの遊覧船で港外の端島(これが軍艦島の本名)に向かう。天気晴朗、温暖で、まことに恵まれた気象条件となった。波がほとんどなくスムーズに40分ほどで現地着。まず島の周りを舟でぐるりと観察。軍艦島というネーミングがぴたりの”美しいシルエット”。そして11時半に島に上陸。3つの現場を中心に島の様子を見つめる。最盛期には5300人が住んだという世界一人口密度の高かった軍艦島。そこには独特の島の慣習があったことを、78歳のガイドが伝える。彼は実際にこの島に住んでいたことがあるのだ。霊安室はあるが墓場はない。子供らの遊び場はすべてアパートの屋上。犯罪はないが喧嘩は絶えない。酒を飲んで人にからんで、一晩留置される「牢屋」はあった。などなど。現在の私らが目にするのは廃墟の瓦礫だが、もの言わないそれらが、何か昔を自慢しているかのように見えてくるのがフシギだった。島の会社は1891年に操業を開始して1974年まで続けた。日本の近代化に貢献したということで、この島は「世界遺産」に登録されている。

 3日目。10時にホテルを出て、出島周辺の唐人屋敷、孔子廟、出島ワーフなどを見学。
 ちんちん電車の赤迫行きに乗って浦上地区の住吉に向かう。ここは34年前私が住んだ町でもある。なつかしい住吉市場を抜けて山の麓まで行くと、駐車場の一角に住吉トンネル工場の遺構がきちんと整備されてあった。私のいた頃には防空壕が放置されてあったのだが。三菱兵器工場が、この壕のなかで魚雷を製造していたのだ。だが8月9日の原爆が炸裂した後は、けが人の救護所と変わって行く。それほど期待しないでこの場所に来たが、思いがけず長崎市がここを記憶の場としてきちんとイメージを壊さず、丁寧に保存していることを知ってすこし感動した。
昼食は先生の希望もあって、住吉市場のうどん屋で「五島うどん」のたぬきを食す。そのあと、私の住んでいたアパートが今もあるか見に行く。―まったく昔と変わらない姿で立っていた。
 そして再び長崎旧市内の中心部に戻る。諏訪神社のとなりの立山の裾にあった「長崎防空本部」の地下壕を現認するためである。実はこの壕は戦後長く閉鎖され、市民の記憶からもまったく消失していたものだ。「長崎原爆戦災誌」を読むと、浦上に原爆が落ちたとき、知事は県庁の近くにあった防空本部の地下壕にあって、そこから救出の指示を出したと記録してある。この壕がどこにあったのか私は気になった。ほとんどの人は知らなかったが、戦前警察勤務をしていた数人がこの立山地下壕の存在を私に教えた。では、その建造物を検分しようと立ち上がったが、敗戦後占領軍が到来する前にすべての重要な防空壕はトビラが閉鎖されセメントで塗り固められたため、内部をうかがうことができなかった。
 そこで私は関係部局に交渉を重ねて、ついに開扉の許可を得た。所在を知ってから半年は経過していたと記憶するが。私は建設会社の作業員と同じ防護服を着て、酸素マスクを装着して、そのオープンの場に立ち会った。内部は長い間真空だとすると酸素欠乏の可能性が高いという懸念から完全防備で臨んだのだ。このときのことはその一月後の「土曜リポート」で私が報告することになるのだが・・・。
 こうして私にとって忘れられない施設「長崎防空本部」は30年経った今どのようになっているか、とても気になった。ところが現場へ行ってみて驚いた。すばらしく整備された「原爆遺跡」として市がきちんと管理をしていた。私はS先生とN講師にちょっと得意げにこの施設の顛末を語るのだが、今考えるとずいぶん大人げない所業だ。いささかハズい。

 その夜、長崎最後の夜だということ、私の退職による卒業旅行であるということを口実に、長崎郊外の海辺の店「二見」で打ち上げをした。その席には30年前に交流のあった人たちも加わって、話はおおいに盛り上がった。

 4日目、最終日。午後3時の飛行機だということで、午前中ある人たちと会って対話することにした。長崎でもっとも有名なシスター姉妹である。現在は大学の総長である千鶴子先生と、学長の瑠美子先生。高齢のはずだがかくしゃくとして長崎ニューホテルのロビーに2人は姿を現した。10時半、約束の時間ぴったりだった。
 今年80の大台に乗ったという千鶴子先生は好奇心旺盛で、京都から来たS先生の研究テーマ「二十世紀学」のあれこれを次々に質問し、その答えにいちいち頷いておられた。2人のシスターの楽しげな表情に思わず、当方もなごんだ。
あっと言う間に12時半。名残惜しいがお別れして、大村の飛行場へと向かった。

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by yamato-y | 2017-02-18 16:25 | Comments(0)

人格者だった編集者

 マルさん

 夕方、東京新聞を読んでいた。3面の訃報記事で編集者の丸山昭さんの名前を見つけた。
番組で2度ほどお世話になっている人物だ。ひとつは赤塚不二夫の「全身漫画家」というETV特集、もうひとつはGTVの特集「ちばてつや、ありがとうトキワ荘のみんな」。
 ちばさんが事故で利き腕の右手に大きな怪我をおったとき、締切間際の原稿をかかえていて立ち往生した。そのとき漫画家たちの梁山泊だったトキワ荘に駆けこんで、助力を得たというエピソードを描いたのが「ありがとうトキワ荘のみんな」だった。このとき、ちばさんをトキワ荘に結び付けてくれたのが、当時少女雑誌「りぼん」の編集者だったマルさんこと丸山昭氏だった。この事件の顛末を丸山さんから語ってもらった。

 もうひとつの「全身漫画家」は赤塚の伝記で、彼のトキワ荘時代のエピソードを南長崎の跡地で語ってもらった。晩秋の寒い日だったが、マルさんは嫌な顔ひとつ見せず、赤塚の在りし日の思い出を楽しそうに語ってくれた。
後で、当時を知る漫画家たちに聞くと、人情熱いマルさんは誰からも信頼され慕われていたという。私が取材したときで70代後半だったから、かなりの高齢に達していたのだろう。訃報で享年を確認するのを失念していた。

たしか赤塚不二夫が高校生だった石ノ森章太郎と初めて手塚治虫を訪ねたときも、編集者として別室に控えていたマルさんが仲介の労を果たしてくれたと記憶するが。とにかくマルさんは世話好きで面倒見のいい編集者だった。さぞかし盛大な葬儀になるだろうと予測したが、訃音には親族だけの密葬とあって意外な気がした。

嗚呼、また昭和の漫画史を知る人材が消えた。彼らの声を残したいと20あまりの昭和漫画のドキュメントを制作してきたが、その意義をきちんと果たしただろうかと自戒の思いがこみあげる。皮切りとなる「大伴昌司の番組」が、後年奇禍と遭遇してから私のなかから情熱が失せたのも事実。だがマルさんのような情報通がいなくなったと聞けば、番組制作当時の取材ノートを引っ張り出して、記憶の断片をつなぎたくなるのも事実だ。

マルさんのご冥福を祈る。合掌。

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by yamato-y | 2017-02-08 21:50 | Comments(0)

忘れないうちに

出会ったこと

日曜日。広尾の山種美術館での「開館50周年特別展」がこの日で終わりと知って何がなんでも見ようと思った。この美術館の至宝がずらりと並べられていると聞いたから。
結果からいうと、村上華岳の「裸婦像」以外心に
響かなかった。竹内栖鳳や上村松園の絵はどうも今の私には馴染まない。華岳の作品は前から憧れていたもので、まさか今回出逢えると思っていなかったので感動もひとしおであった。

小雨が降っていたが、広尾から代官山まで歩き、ツタヤの映画コーナーを渉猟した。そこでビクトル・エリセの作品が気になった。彼の「 みつばちのささやき」もエル.スールも家にあるので久しぶりに見たいという気になった。
そして夜8時からミツバチを見た。
映像の深さを改めて思う。詳細はまた書くつもりだが、感動した2つの作品ー村上華岳とエリセのことをここにきざんでおきたい。

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by yamato-y | 2017-02-06 00:48 | Comments(0)

卒業後の初仕事を終えて

広島から帰って

2月2日の広島での講演は無事終えた。昨日帰路で凱晴の富士を見た。すっかり雪化粧した富士の峰は青空のなかにくっきりと建っていた。久しぶりに富士と向かい合う。大磯にいる頃はよく冬の富士を仰いだものだが、この2,3年はなかった。

帰りの新幹線では広島で得た思いを反芻していた。早逝したKさんのこと、庚午の消失した社宅のこと、広島市立大学の麗しいキャンパス、80分におよぶ津田投手へのオマージュ、紙屋町のふぐ屋、原爆資料館で感じたこと、太田川の豊かな水、そしていつもの旅より多かった忘れ物。

わずか4時間ほどの旅だが、品川に着いたときはほっこりしていた。夕方でまだ日はあったが居酒屋に寄る気も起らずまっすぐ目黒の家にもどった。焼酎のお湯割り一杯で疲れがどっと出たのか仮眠した。目が覚めると午後7時を回っていた。ああ少し老いたなと感じた。

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by yamato-y | 2017-02-04 08:11 | Comments(0)


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