定年再出発  


懐かしい空
by yamato-y
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風の冷たい

ピースフル

 今年最後の土曜日は、超多忙な日となった。
 午後1時過ぎに家を出て、白金のM学院大学のキャンパスに向かう。毎週土曜日の4限目の演習を担当しているのだが、後期の14回目の授業をやっとの思いで仕上げることとなった。9月から1月まで、15回の授業を使って、5分ほどのミニドキュメンタリー番組を20人の学生とともに制作してきた。予定では昨日の14回目で、5本の作品が出来上がるはずだったが、そうは問屋がおろさない。辛うじて1つの班だけ仕上がったものの、残り4班は未完成。9月企画、10月取材、11月編集というスケジュールは11月で大きくくるった。編集に思わぬ時間がかかったのだ。かつ、パソコンの編集機能の操作が、私には説明しがたく、助っ人のO君に手伝ってもらうことも予定外だった。それでも、次回の15回目の授業で、なんとか残りの作品も仕上がる目処を立てて、今年の授業は終了した。
 すべて後片付けをして、キャンパスを出たのは、午後5時を回っていた。

 山手線で代々木まで出た。ここで目俳の忘年会が開かれていた。句会は午後3時から始まり、そのまま忘年会に移行していた。遅れて参加した私は、会員のみなさんと挨拶もそこそこに、焼き鳥と京野菜のおいしい料理に舌鼓をうった。この日の句会で、私の一句が好評だったと知らされ気分高揚。
北訛り不忍口の根深汁
省略の仕方がなかなかいいという評価だと聞かされた。
会は午後7時過ぎまで続いた。

 

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by yamato-y | 2014-12-28 08:57 | Comments(0)

2014イブ

2014イブ

 今宵、東京は比較的暖かいクリスマスイブとなった。6時から予定していた試写も、夕方5時から始めることができて、早々と帰宅することができた。
別に用事があったわけではない。なんとなくイブだから、今晩ぐらいかつての教会生活を思い出してみようと気持ちを正してみただけだ。

 40年前、金沢の教会に通っていた当時、一度だけ初雪に遭遇したことがあった。クリスマス礼拝が終わったあと、各信者の家を訪ねて、クリスマスを祝するキャロルが行われたものだが、その夜は雪が降って、金沢中がホワイトクリスマスになった。誰も踏んでいない真っ白の雪の原をキャロルの一行がとぼとぼと歩いていく様は、まことに幻想的で感動した。たしか、すべての信者の家を回り終えて、教会に戻ったのは午前3時を回っていたと記憶する。賛美歌「ああベツレヘム」のメロディがかすかに浮かび上がり、耳朶から離れない。

 あれから幾星霜。もうすっかり老年の域に達した私は、あの青春の時間を一粒一粒たどりながら、そのあまい思い出に浸ってやまない。なんと愚かなともう一人の私が愚痴をこぼそうが、半分の私はそこから離れようとしない。

 さらに遡ること20年。私が小学低学年のころ、敦賀のクリスマスでも大雪が降った。そして、若かった父と母にひかれて、クリスマスの集まりに出かけた。幼児であった私は、斜め上から吹き付ける粉雪に体を折りながら白銀町の新開地の雪道を歩いたことを思い出す。若かった父と母が私に向けてくれた情愛を、今あらためて思い知り、有り難いと感謝する。

 いつのまにか、66歳という大きな年齢になってしまった。

 ――私はどれほどの時間を生きることになるのだろうか。幾ほどのクリスマスの回数を重ねることになるだろうか。

母の最晩年の友人であった太田治子さんが、今年も命日に合わせて、シクラメンの鉢植えを送ってくださった。ピンクの美しい花びらが夜のベランダでひそかに息づいている。

 だんだん文章が散漫になっている。きちんと論理をそろえて書くことに飽きてキタ。ここに記していることを誰かに読まれて、誰かに評価されようとする功名心などとっくに消えた。誰も書かれたことを理解などする必要ない。むしろ私だけが分かる「伏せ字」で記述できればいいじゃないか。

 先週、敬愛する松尾尊允先生が死去した。昨夜、地下鉄のなかで隣の人が広げた夕刊で、訃報を知った。京大名誉教授だった先生は、私の属する研究室の偉大な先輩でもあると同時に、日本近代史の偉大な研究者でもあった。晩年の先生にインタビューしたことがきっかけとなって、この5、6年は親しくお手紙をいただく間柄となっていただけに、先生の急死は大きな衝撃でもあった。

 忘却と記憶はコインの裏と表。何も怖れることはない。

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by yamato-y | 2014-12-25 00:45 | Comments(0)

目から水があふれてならぬ

目から水があふれてならぬ

編集作業たけなわの作品「伝える力は大切」(仮)の第1回めの試写を見た。
主人公は、あの通信販売でおなじみの高田明社長。独特の調子で、一瞬で人々の心を鷲づかみする当代を代表するプレゼンターだ。母校のある平戸を舞台に課外授業物語が進行した。

 高田さんは、6年生を相手に伝えることの大事さを親しく教える。若い頃カメラ屋業を営んでいたときの自分の体験を交えながら、やさしい言葉で授業を組み立てていく。その後、子どもたちにも実践してもらうために、全員でビデオレター作りに取り組むことになった。普段、なかなか本音をいえない人たちに向かって、子どもたちがビデオレターで呼びかけるという趣向だ。そのスピーチの原案を子どもがまず作文することから始まる。
 さあ書けといわれても、簡単には文章を書けず、困って高田先生に個別に相談に来る子もいる。高田さんは優しく応じる。そのマンツーマンの指導に、カメラが入った。

 あのテレビで大きな声をあげる高田さんと、子どもを前にした高田先生はまったく違う。もの静かでやさしいまなざし。6年生の子どもたちをまるで孫を見るようなといっても過言でない、慈愛に満ちた眼差しがあった。

 この面談で、子どもたちが自分の親しい肉親(おじいちゃん、おばあちゃん、妹、お父さんなど)に向かって何を語るか、どうやって語るかを高田先生と相談する。話を聞いた先生は一人ひとりの子どもに、懇切なアドバイス与えて行く。
登場する平戸の子どもたちは、信じられないぐらいピュアだ。いまどき、こんな子どもたちがいるのかと驚いた。番組で、きちんと紹介するから、ここではこれ以上詳しく言わない。1月23日の「課外授業・ようこそ先輩」をご覧いただきたい。

が、ひとつだけ、どうしても紹介をしておきたい場面がある。
 昨年、母を病気で亡くした女の子と高田先生のやりとりだ。その場面は胸をうつ。ワタシもこらえていたが、この場面のもつ情感が胸に響いて、目から熱い水が次々に溢れてくる。他のスタッフの手前、「醜態」をさらせないと堪えるのだが、熱い水はいっこうに止まない。まるで、木下恵介の「二十四の瞳」を見ているかのような感動を覚えた。
 平戸の純真な子どもたちがいいのはもちろんだが、このような真実の声を引き出した高田先生の人柄に感心した。すっかり、高田社長のファンになってしまった。
 でも、高田先生が人情家だということを言いたいわけではない。先生は授業をすすめるにあたって、子どもたちに平戸弁で語りかけ、子どもたちにも平戸弁で答えるよう要請するのだ。本当の声を引き出すためと先生は考えていた。やはり、高田さんはタダモノじゃないぞ。

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by yamato-y | 2014-12-18 17:34 | Comments(0)

寒冷前線が活発化した、冬のある日

楽しいランデブー

 昨日は、是枝裕和監督の課外授業のナレーション録りが赤坂であった。朝のうちは晴れていたが昼過ぎから豪雨となった。篠つく雨のなか、イマジカ赤坂のスタジオに駆け込んだのが午後1時。録音作業開始は午後2時。

 約束の時間を5分過ぎたとき、ナレーターの樹木希林さんが姿を現した。高そうなミンクのコートを着ている。家が寒いので、室内着としてコートを着ているそうだ。炊事もそのコートを着たまま行うそうだ。やはり普通の人とはすこし違うかな。ネットの情報によれば、キリンさんは末期の全身ガンに侵されているというが、外観からもすこしも見えない。

 是枝監督の作品に出演してから、どうもその作風、人柄を気にいったらしく、今回の「課外授業」のナレーションも自らやりたいと声をあげてくれたようだ。
 すぐにリハーサルを兼ねてコメントの流し読みが始まったが、どうも声がやや小さくかつテンポも遅い。やはり70を過ぎて名優樹木希林も老いたかと思った。しかし、すぐそれは早計であったことを知る。台本の3分の2ほど過ぎると、番組の内容に惹かれたか、ぐいぐい朗読の勢いが増して来た。
 いったん、休憩でアナルームから出て来たとき、キリンさんの冗句に調子を合わせて軽口をたたいてみると、キリンさんは嬉しそうに応える。
 私はだんだん大胆になって、キリンさんのあれこれの注文に応える。スタッフのなかにも、キリンさんと仕事をシェアしている感覚がだんだん醸成されてきた。

 結果、ナレーション録りはうまくいった。午後4時半。作業はすべて終わった。雨は相変わらず土砂降りだ。キリンさんが私に向かって言った。
「あなたは、どこまで行くの」。
「え、渋谷の放送センターまで」「じゃあ、私の車で送ってあげる。私んちはすぐそばのNだから」
 そんなあつかましいことはできないから断りをいれると、キリンさんは「いいのよ、ついでだから気をつかわないで」と気安く声をかけてくれる。お言葉に甘えて、赤坂から渋谷神南までキリンさん御用達の車に同乗した。その間、先の衆院選挙や美智子妃殿下の噂で、私とキリンさんは話が盛り上がった。まったく偉ぶらないキリンさんの態度に、私のハートはすっかり参った。

 ああ、これが伝説のキリンさんか、いつか、50年前見た「時間ですよ」の、あのジュリーのセリフが耳朶に流れるエクスタシーを、私は感じていた。

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by yamato-y | 2014-12-17 21:51 | Comments(0)

いつの間にか20年

いつの間にか20年

 昨夕のことだ。東急本店通りのベローチェで、本体のMプロデューサーと来年度の打ち合わせをしていた。今担当している番組を大きく刷新させようと意見が一致し、そのための試案をいくつか検討していたのだ。売れっ子のMさんのスケジュールはいつもキツキツで時間がなかなかとれない。ということもあって外の喫茶店での打ち合わせとなった。案の定、打ち合わせ予定時間が過ぎた頃、次の打ち合わせ相手が、私たちの席にまで顔を見せた。早く終われよという合図だろう。Mさんは申し訳なさそうな表情で席を立とうとした。

 ところで、その打ち合わせのとなりに中年のカップルが座っていた。座を離れるとき、その女性のほうから、「もしかして、E社の方では」と声がかかった。振り向いて、「いいえ、私はYですが」と名乗ると、その女性の顔がパーッと輝いた。「ああ、そうでした。お久しぶりです。私、タマキの家内です」と答えた。
 長い間、顔を合わせなかったので気がつくのが遅れたが、たしかに20年前に机を並べた、亡くなったタマキさんの奥様だった。

 話はそれだけで、奥様には一言挨拶してベローチェを出たのだが、何か郷愁のようなものが胸に残った。

 22年前、私は同僚で同年のタマキ君を亡くした。その年の6月にいっしょに広島局に赴任。夏の特集番組をめざして、二人で企画を売り込むことに必死だった7月。彼は体調を崩し、単身赴任の広島を引き払って東京へもどった。しばらくすると、余命が半年もないという続報が入り、私は急遽病院に駆けつけた。ガタイのよかった彼は半分ほどの骨と皮だけになっていた。それから一月も経たないうちにタマキ君は逝った。

 結婚が早かったのか、彼の遺児は高校生になっていたが一番物入りの時期をむかえていたこともあって、奥様は働きに出た。その職場が私のそばのオフィスだった。そこで奥様は定年まで勤続され、数年前引退された。おそらく、昔の仕事仲間と久しぶりに会うために会社近くの喫茶店に来たのだろう。

 ぼんやり1992年の空気を思い出していた。バブルは弾けて街の景気は悪かったが、新天地で自由に活動できると私は張り切っていた。タマキ君という盟友を失い、しばし呆然としたものの、その秋には仕事を軌道に載せていた。定年などというものは遥か先に観念でしかなく、病気に自分がかかるという想像力を働かすこともなく、ましてや両親も他界するとは思ってもみなかった。
 1993年、父が71歳で昇天した。父が死ぬ半年前から病に倒れてベッドに伏すことになったが、私は超多忙の日々でほとんど見舞うこともしないまま葬儀を迎える。(このことは傷になっているようで、私はいまだに父の亡くなった年のことは記憶がおぼろ)

 1995年。被爆から50年の年に、私は広島を離れ東京に戻る。赴任して2週間も経たないうちに、深夜脳出血を発症。3ヶ月にわたる闘病を余儀なくされる。半身に麻痺が残り、番組を制作することも不可になったと絶望したが、幸運なことに秋にニューヨークで私の作品が栄誉ある賞を受賞。それを契機に見る見る体は恢復し、それからまた元のモーレツプロデューサーに舞い戻る。
 20世紀末から新世紀初頭まで、八面六臂で疾走した。制作した番組本数はおそらく300を越すであろう。2004年の「冬のソナタ」のキャンペーンを張る仕事までが、私の第1現役時代。そこから10年間、私は第2の現役を送った。この間、無差別テロ、東北大震災にともなう福島第1原発事故など歴史的な事件が突発するも、なんとか2014年の年末まで走って来ることができた。

 ベローチェから戻って、新年特番のホームページ原稿を作成。終えたのが5時半、週末ということもあって、翌週のナレーションのコメントチェックの準備をしながら、これまでの番組資料や原稿などを整理廃棄した。66歳。店仕舞いの準備もそろそろ考えておかないといけないかな。

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by yamato-y | 2014-12-06 11:39 | Comments(0)

12月1日

聖12月1日

 30余年前の今日、明け方から大騒ぎをしていた。新婚2年目、武蔵小杉の世帯寮に暮らしていたときのことだ。子供が生まれかけていた。
午前5時。妻が破水した。お産の知識などまったくない私は慌てた。救急車でも呼ばないといけないのではと焦った。
 同じ寮のなかに、仲のよいH夫妻がいた。H夫人は3年前に子供を生んでいたので、出産についてはベテランだった。さっそく私はH夫人を呼びに行った。

 やって来るなり、H夫人はてきぱきと入院の支度にかかったり妻の状態をはかったりしていた。最後に、通りへ行ってタクシーを捉まえて来いと私に指示した。まもなくお産が始まるから、かねてから予約をしておいた聖マリアンヌ病院に入ったほうがいいというH夫人の見立てだった。

 数時間後、息子が無事生まれた。体重2600グラム、小ぶりの赤ん坊だった。30歳を越えていた私としては無事に生まれたことがなによりだった。誕生を見届けた後、出社。いったん仕事についたものの、早めの店じまいで、再び病院にもどった。

 昭和55年の12月1日は小寒かった。日陰に入ると体が震えた。東横線のホームに立つと木枯らしが吹いていた。聖マリアンヌ病院は武蔵小杉の東横口から出て徒歩で5分。勤め人や入院者にとっては便利な場所にあった。
 産婦人科は一階にあった。赤ん坊が収容されている部屋の硝子戸の前に立って、息子を探した。10人ほどの新生児のなかに、ひ弱そうな赤ん坊が部屋の中央にいた。しっかり握りしめた拳だけが頑固そうに思えた。どんな人生が待っているか分からないが、けっしてどんなことがあっても大らかでいろよと、親らしく願った。

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by yamato-y | 2014-12-01 23:10 | Comments(0)


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