定年再出発  


懐かしい空
by yamato-y
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2012年の終わりに

2012年の終わりに(2013年に向けて)

 今日から1月3日まで大磯の家にこもる。ネットのラインが入っていないから、ブログも当分アップできない。事実上、本日が2012年の最後の記事になるので、今年の総括をメモしておこう。

1月穂高まで行く。登るではない、行ったのだ。
3月ジャクソン・ポロックのアートドキュメント制作。スカイツリー周辺のロケ。砂町、深川、舎人、千住など東東京の深部へ。いわゆる下町の賑わい活気に魅せられた。
4月から7月まで、毎月京都の大学へ通う。
5月イギリス、ターナーのアートドキュメント制作。名古屋御園座で海老蔵歌舞伎を見る。
6月イギリス、ミレイのアートドキュメント制作。
6月から7月にかけて、松竹のプロデューサーたちと数回会見して、新しい基軸の番組が出来ないか相談する。
8月、S先生たちと東北被災地へ。
9月「吉田隆子を知っていますか」制作。
夏から秋にかけて、森嶋Pやジョーンズさんと福島を主題にした作品の企画を練る。
9月30日、南座で海老蔵歌舞伎見る。
10月、来年度(2013年4月から)の担当が決まり、その打ち合わせが続く。
11月、銀座で京都の同窓会
11月、玉三郎「日本橋」を見る。
12月、門前仲町へ通いつめる。
12月15日、ポロン亭ラストライブ。

 制作した番組の本数が大幅に減った。脳出血で倒れた1995年以降で実作がもっとも少なかった年になったようだ。
 2012年、64歳の年はほどほど仕事をしながら、病気のことばかり気遣っていた。リビングウィルを早く仕上げておかねばなるまい。夜半に嵐の吹くものかは、である。
 春に、私を可愛がってくれた先輩澤田さんが20年闘病の末亡くなった。その訃報を伝えに府中まで出かけ、10年ぶりに森先輩と会った。去る人来る人である。
 評論家のFさんと出会い、海老蔵、歌舞伎、鏡花に関心をもつようになった。新しい分野への挑戦ではないか。

 年が明けて、1月19日で私は65歳となり、現在の身分もすっかりなくなり、1事業者として番組つくりに精を出すことになる。新年度の「課外授業」を1年通してお手伝いするつもり。
 一方、8年にわたって続けて来た京都の大学の講義も各月の授業はなくなり、9月の集中講義だけとなった。代わって、明治学院大学と武蔵大学で一こまずつ「メディア論」の授業を始める。そのためのノート作りに精を出そう。と同時に懸案の「戦争の記憶」の映像論を早く書き上げねばならない。自分を律するうえでも。

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by yamato-y | 2012-12-30 11:00 | Comments(3)

遷り行く主題

 遷り行く主題

 ときどき人脈が重なって、存在が見えてくる人がいるものだ。最近では、鮎川信夫という詩人をスガシカオと後藤正治というジャンルの違う人たちが敬愛していたなどということを知って、現代詩の広がりを見た。ついでに言えば、ねじめ正一が「荒地の恋」という小説で鮎川をとらえていたが、これはねじめ自身が詩人だから当然といえば当然。だが、死去して久しい鮎川があちこちで最近取り上げられるのはなぜか。気にはなる。

 さて、今朝中野孝次を読んでいて、古い友人として永川玲二の名前が出てきたので、どこかで最近見た名前だぞと気になった。そうだ。最近読んだ佐伯泰英のエッセー「惜櫟荘だより」で登場するスペインに長く住んだヒッピー学者だ。都立大の先生をしていた頃にベ平連の活動に関わって反戦逃亡米兵を長くかくまったことがあり、都立大に警察が導入されたことを抗議して大学をやめたという御仁。口八丁手八丁の人で傍若無人のふるまいが多く、スペインにいた堀田善衛夫妻からひんしゅくを買ったという話を、佐伯は書いていた。
そして、今朝中野孝次のエセーのなかに名前を見いだし、ネットで「永川玲二」と検索。話は逸れるが、こういう場合のネットは誠に便利だ。遠い縁でもたちどころに結んでくれる。 

 そして、今年死んだ丸谷才一の初期の代表作「笹まくら」のモデルが永川玲二であることを知った。米子出身の永川は陸軍幼年学校に入学したものの理不尽な制度にあわず脱走。軍学校を脱走すれば死刑ということで、彼は全国を渡り歩くことになる。この逃亡兵の体験をモデルにして心の傷を描いた小説が「笹まくら」という次第。
一度だけ丸谷の目黒の自宅でインタビューしたことがあるが、ウルサそうな親父であった。中野孝次も癇癪持ちでよく似た気質だと推測する。1960年代後半、国学院大学や東京都立大学の教員の人脈、丸谷、中野、永川、菅野昭正、清水徹、安東次男、飯島耕一などなど面倒くさそうな人たちがいたのだ。ちょっとのぞいてみたい気もする。
この人脈の精神的支柱として渡辺一夫がいたと中野孝次は記している。渡辺とは、あの大江健三郎が尊敬してやまない東大仏文の看板教授だ。

 話はもどるが、佐伯泰英という人が藤沢周平没後表れた気鋭の時代小説の書き手という評判が流れたのは4年ほど前になるか。この名前を見たとき、どこかで目にしたことがあると既視感をもった。
 スペイン内戦の研究書にときどき挙がってくる名前だった。といっても1937年当時の記録ではなく、現代スペインの歴史研究のなかに表れているのだが。たしか、闘牛のノンフィクションを著して、受賞した書き手だということを思い出した。
その人物が坂崎磐音シリーズの時代小説と結びつかない。長い間、同姓同名の別の人だと思っていた。ところが、ちかごろ、岩波書店から佐伯の『惜櫟荘だより』が出たときいて、その書を求めたところ、時代小説作家はかつてのスペイン在住のノンフィクション作家と同じ人物だと知ったのだ。この「惜櫟荘だより」を読むと、佐伯がまったく畑の違う2つの人生を歩いて来たことがわかった。

 私自身、40年のテレビ屋ぐらしでいくつかの主題を追ってきた。長崎と広島に転勤したこともあって被爆者問題をかなり長くやった。そのあと20世紀末から少年誌や漫画、SFなどのサブカルチャーに引かれ、2004年から韓流カルチャーを研究するのでなく実施する側にまわった。そして、この3年は文楽、清元、歌舞伎などの古典芸能の世界に耽溺することが多くなった。
 来る2013年の1月末で、放送局の現役からは降りるが、仕事は続けるつもり。そこで新たに展開するテーマはあるのだろうか。あるとすれば何をやることになるのだろうか。歳の終わりに意欲だけは表明しておこう。


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by yamato-y | 2012-12-29 12:21 | Comments(0)

連絡

連絡

ケイさんへ
パソコンが強くないので、どうやって返事をしていいか分からないので、一時的にこの欄に書き込んでおきます。
鮎川信夫に関する記事は、私自身もものの本から読む下したものですから、引用されることについても別に異存もなにもありません。
 
ただ、スガシカオさんが鮎川の影響を受けていることを知って、すこし感動しました。以前から、スガさんの歌に知的で言いようのないリリカルなものを感じていたのですが、その理由が少し分かった気がするのですが。
今週の週刊現代にだったと思うのですが、ノンフィクションライターの後藤正治さんも、鮎川の詩がもっとも気になると書いていました。

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by yamato-y | 2012-12-29 01:04 | Comments(1)

青春も終わりかなと呟いた

これで青春も終わりかなと呟いた

44歳のときの仲間N君と酒を飲んだ。20年前に机を並べて、仕事をした仲だ。綱島に住んでいるから東横線の盛り場ということで、中目黒の焼き鳥屋で落ち合った。当時の仲間の動静について一通り話したあと、最近の自分の活動について互いに披歴しあった。N君は2歳下だから62歳。現在放送文化研究所で嘱託を務めている。昔からギターで弾き語りをするのが好きな人だった。週のうち3日働いて、2日は日本PPMの会で活動しているという。日本PPMの会って何だ?。

「もちろん、ピーター、ポール、アンドマリーの会ですよ。残念なことに今年マリーが死んじゃいましたがね」と残念そうに語るN君。つまり、PPMの歌をいまだ歌い続けて、年に数回300人規模のコンサートを開いているそうだ。そう聞いて、彼の顔を見ると、たしかに現役のころより明るい。退職してからのほうがどうやら人生が充実しているらしい。
こういう人生もあるのだと、半ば羨ましい思いで、N君の愉快な話を聞いて飲んだ酒は美味だった。

 私のこのブログをまとめて読んだ人の感想「見事に後ろ向き」と評価。N君の生き方とは正反対の評価をいただいた。今更だから抗弁もしないし、この路線を改めもしない。

寝しなに昭和32年出版の深瀬基寛のエッセーを読んだ。京大で、というより三高で英文学を教え、エリオットやオーデンの翻訳として知られた人物で、大江健三郎に大きな影響を与えたとして知られている。『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』の文言も深瀬からインスパイアされている。

深瀬のエッセー集のなかで、「ぢいさん・ばあさん」という作品に興味をもった。幸田露伴と娘の幸田文のことを書いている。父娘でありながら、以心伝心の連続で、喧嘩一歩手前でやりとりをする父子の仲だった、極限の関係を保ったふたり。その露伴の終焉を深瀬は、小林勇の記録から戯曲風に書きだして、その壮絶な死に方を見つめている。凄いせりふになっている。

A「おまへはいいかい」
B「はい、よろしうございます」
A「ぢやあ、おれはもう死んじやうよ。」
B「はい。」

 最初のAとは露伴のこと、おまへは覚悟はいいかいと娘に聞いている。
Bは文のことで、はいと答えている。けっしてうろたえていない。
深瀬はAのことを、まるで石鹸片手に銭湯へでも出かけるようにあの世へ引越しすると感心している。むむ、右に同じく、私も脱帽。とてもこんな境地には立てないだろう。せいぜいリビングウィルを鮮明にするのが関の山だ。仕事、活動を止めること、死ぬことをたえず口にしているくせに、いざ死に直面すると怖気づく。

まあ、私の後ろ向きの姿勢は、青春の終わりぐらいが関の山だ。
「大阪で生まれた女」のなかの好きなフレーズ「これで青春も終わりかなと呟いた」・・・

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by yamato-y | 2012-12-28 10:05 | Comments(5)

昔の恋

昔の恋

雪の季節になると、金沢のお茶の師匠だった清子さんを思い出す。商家に生まれ育った清子さんはおっとりした金沢弁で人の情けを巧みに表す才女でもあったが、そんなことは気振りにも見せない。
清子さんには二人の娘がいて、上の娘と私は同じ彦三の教会に通っていた縁で材木町の清子さんの家に出入りするようになった。その家は卯辰山の麓にあって、すぐ側に淺野川が流れていた。
学友の江口君と私は週に1度お茶の稽古の手ほどきを受けるようになった。清子さんは裏千家の茶道の師範で、花嫁修業の若い女性たちがおおぜい通っていた。金沢では茶道は教養のひとつでもあった。

 清子さんの伴侶は他所に住んでいて、その家には清子さんと二人の娘の、女だけの家だった。肉体労働を主とする男仕事が必要なときには、私のような暇をもてあましている学生に声がかかった。
ある雪の日、私はアルバイトとして清子さんの2階屋根の雪を下ろすこととなり2時間ほど汗みずくになって雪かきをした。昭和43年ごろのことだ。一息いれて、再び大屋根にあがって雪を下ろしはじめたとき、スコップに勢いがついてガラス窓を突き破ってしまった。大きな一枚板のガラスは木端微塵。雪おろしの駄賃の何倍もする大ガラスだったから、普段穏やかな清子さんもさすがにむっとした。焦った私は必死で割れたガラスの破片を拾いながらどうやってアナを防いだらいいか妙案も浮かばず、途方にくれた。
 清子さんはどこかへ電話をかけていた。やがて私の前に現れて、「うちに出入りしている大工さんに頼んだから心配せんでええよ」と静かに言った。いつ来ますかと聞くと、夕方になるだろうという。それまでの応急と考えて、新聞紙を数枚重ねて窓枠に張った。無粋で不格好だったがしようがない。そのうち大きな牡丹雪が降ってきた。清子さんに会わせる顔もなくぼんやりしていたが、屋根にいつまでも居座ることもできずやむなく階下に降りて、清子さんにお詫びした。「どもねえ、どもねえ」と清子さんはお茶をいれながら私のそれまでの苦労をねぎらってくれるのであった。

家に逃げ帰った私は、その週のお茶の稽古もさぼった。気がひけて、なかなか足が清子さんの家のほうへ向かなかった。
 2ヶ月ほど過ぎて、夜半に訪ねた。桜が終わりかけで花冷えの夜だった。火鉢に火が入っていた。久しぶりにおばさんの手料理と鶴来の酒をいただいて、私はすっかり出来上がっていた。火照った顔で清子さんと娘を相手に照れ隠しの冗談を連発していた。火鉢には金網が敷かれて、小糠ふぐが乗っていた。かぐわしい匂いが漂っていた。
 清子さんが思い出したように、あの雪の日のことを話し始めた。私はぎくっとした。
「あの日、ガラスの修理をやってくれたのは左官大工のSさんだったわね。あの人がね仕事をしながら歌をうたうのね」さも可笑しそうに語る。「同じ歌を何度も何度も歌うのよ」
 ♪千里離りょうと、心はひとつ
「昔流行った娘船頭唄。低い声で船頭可愛いやとそれはそれは愛しそうに歌うがや。心をこめて歌っていたんやな。つい私はあの人に聞いたのや、そんなに奥さんに会いたかったのって・・・」

「目にいっぱい涙ためてあのSさんは言うたもんや。わしゃあ、ほんまに会いたかったよ。日本へ飛んで帰りたかったって」
普段口の重いSさんが、出征した満州の国境での心境を清子さんに語った。厳寒の満州は歩哨として立っていてもすぐまつげが凍りつく。“どもならん”寒さだったと告げながら、Sさんは置いてきた奥さんのことが恋しくてたまらなかったと、清子さんに繰り返し語ったそうだ。
「わたしは、あのときのSさんの目が忘れられんわ」
感に堪えない顔で、清子さんは語った。「昔の恋はおとなしかったけど、胸のなかにはいっぱい火が燃えとったんやぞ」
清子さんはその後10年余り生きた。
その清子さん自身も実は熱い恋を生き抜いていたということを知ったのは、死後3年もたってからののことであった。「娘船頭歌」を小さな声でゆっくり歌うと、この出来事を聞かされた43年の金沢が浮かび上がってくる。

♪千里はなりょうと 思いは一つ
おなじ夜空の 同じ夜空の 月をみる

♪独りなりゃこそ 枕もぬれる
せめて見せたや せめて見せたや わが夢を



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by yamato-y | 2012-12-27 08:22 | Comments(2)

大往生

大往生

秋に放送されて、内外から暖かい評価を受けた、ETV特集「吉田隆子を知っていますか」が4月のアタマに再放送されるかもしれない。

本来は、去る12月初旬の日曜日に再放送される予定であったのだが、中村勘三郎の急死で、その時間帯が彼の追悼番組に変更され、そのためわが番組の出番をなくした。予期できない突発事であったとはいえ残念だった。なんとか、今年度内に再放送をと願っていたが、どうやら事務局の努力もあって、今年度のどん尻に配置してくれそうな気配が出てきた。

さて、このドキュメントのなかで感動的な証言をしてくれた人物に、川尻錦子さんがいた。戦時下、治安維持法違反という廉で逮捕拘留されたときのことを証言してくれたのだ。当時、左傾の文化団体は治安当局から狙い撃ちされて捕縛された。錦子さんも兄とともに下町の警察署に連れていかれた。
そのとき錦子さんが見たもの――取調室全体に小林多喜二の拷問される様子の写真が張ってあったのだ。おそらく拘引された者を威嚇し、自白を促すための「装置」であっただろうと錦子さんは推測した。小林多喜二の死はこれまでさまざまな臆説が流れたが、いまだ闇のなかにあるといえるだろう。そういうなかで、知られていなかったこの事実を明快な言葉で表した錦子さんの証言は貴重なものであった。今年94歳になるのだが、記憶も意識もはっきりしていた。

ところが、10月ごろから寝たり起きたりのくらしとなっていた。やはり94歳という高齢は大きく圧し掛かっていたのであろう。うつらうつらする傾眠状態になっていった。
 錦子さんの夫は民衆史の研究家で画家の戸井昌造で10年前に死去している。息子は作家でドキュメンタリーも制作する戸井十月、私と同年のベビーブーマーだ。この戸井十月氏の家で錦子さんは最後をむかえることになった。
錦子さんの最期は息子の十月氏の腕のなかで眠るようにして逝ったそうだ。

長い歳月、民衆の平和と幸福のために戦い続けてきた川尻錦子さん。立派な人生だった。
「お疲れ様でした。有難うございました」と声をかけてあげたい。合掌。

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by yamato-y | 2012-12-26 13:37 | Comments(0)

登羊亭

登羊亭

 神楽坂の赤城教育会館で目白遊俳倶楽部の12月句会が開かれ参加した。長年、目白の教室で行われてきたのだが、会場が不如意となったため神楽坂に活動の軸が移っている。悪くはないが、地下鉄飯田橋から坂を登ってしか行けないのが難点。
その不便さもあってか、11月の句会は極少メンバーになり、幹部の猫翁さんが機関誌で警鐘を鳴らした。危機感がメンバーに伝わったとみえ、今回は十余名の参加となった。出句の数もおおはばに増え、当季雑詠は51。兼題は延べ71。
 心に残った句を記しておこう。句とはおもしろいもので、句会の熱気で瞬時に選んだ句と、事後にじっくり読んで味わう作品と異なるものがある。だから、句会で評価を得なかった句でも滋味深いものを後日発見することがあるのだ。

大根干す遠嶺の雪の色映し  夏海
ほれぼれと見とれていたり大根穴 水音
いづかたの猫の鈴の音の聖夜かな 二六斎
とんびだけ眸(ひとみ)に残る訣れかな   葱男
故郷も空青からむ欅枯る  ぐう

ぐうさんの句の意味が最初分からなかったので採らなかったのだが、宗匠の二六斎の解説で了知し、そのつもりで読むとだんだんよくなってきた。
 解説とは。欅(けやき)は美しい木にして葉がいっぱいに茂る木だ。ところが落葉となると一気に葉を落とす。裸木となった欅の空間の大きいこと。その大きい空間にのぞく青空。懐かしい故郷の青空をそこに見いだした。
 そのつもりで読むとたしかに情感のある句だ。「欅枯る」の読み取りが句理解の骨頂だった。

 葱男さんの句も今朝になって読むと心に沁みる。京都からの投句だから当人の弁は聞けないのだが、これも宗匠の解釈で了知。
 訣れは相当な深いわかれを指す言葉。そのわかれを経験したあとに見上げた空。そこに一羽の鳶が舞っていた。それしか目に写らない。・・・悲しみの深さがよく表れていると宗匠は読みこなした。さすが宗匠の理解は深い。

 私の俳号は登羊亭。18年前大磯に家を建てたときに大江さんに家の名前をつけていただいた。正式には「光丘登羊亭」という家の号だ。そこから一部をいただいて、俳号を登羊亭と称している。この登羊亭が久しぶりに座のみなさんから褒めていただく句を作った。
 横雲の端から凍る能登の空 登羊亭

 先日、全編を見て感動した「私たちの時代」からイメージをもらって作った。あのドキュメントの背景にあった能登門前の海と空。

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by yamato-y | 2012-12-24 10:40 | Comments(0)

長期目標

晴れることもある

寒さが少し緩んだようだ。朝日が厚い雲間からこぼれている。
年の瀬の3連休。ぽっかり空いた時間を過ごしている。あとひと月で65歳になる。現在の契約社員雇用も終わり、新年1月末からは一事業者として仕事をすることになる。国民年金の受給対象者になりこれまでの給与所得者という地位ではなくなる。いよいよ老年期が始まるのだ。その移行までのぽっかり空いた時間がいまの私に与えられている。

老年期の目標とは何であろう。仕事を達成することではない。家庭を守って子育てを実行するものでもない。新しい仕事の職種を確立するわけでもない。いったい生きていく目的を何に求めればいいか、裏返していえば死ぬまでの里程標をどんなふうに設定すればいいのだろうか。まだしっかり把握できていない。

当面の目標というか短期の里程(マイルストーン)というものはある。第1は、「課外授業・ようこそ先輩」の来年度新作の品質管理すること。第2は、京都の大学の9月集中講義の準備と実施。第3は、2013年度から始める在京の大学での週1の授業を通年遂行。と、2013年の期間は具体的な実施目標がある。
中期目標となると、映画のドキュメンタリーを手掛けてみること、商業演劇の作品プロデュースをすること、だろうか。前者については若干の心当たりがあるが、後者はまだ希望的観測の域を出ない。

さらに長期目標となるとほとんど見当がつかない。何になるだろうか。いまだ見えてこない。毎日毎日をしっかり生きて呆けないということであろうか。これでは消極的かつ「抽象的」すぎて生きる目標にはならない。もっと具体的な計画、イメージがほしい。

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by yamato-y | 2012-12-23 11:55 | Comments(1)

12月22日

梅若

能の「隅田川」に伝わる梅若伝説は、先年清元のドキュメンタリーを制作したときに知って、以来その哀切な物語にこころがずっと惹かれている。

晩春、隅田川の渡し舟の船着き場。ひとりの狂った女が来て渡し守に訴えた。
「都の北白川に住むものだが、可愛い一人息子を人商人(ひとあきひと)にさらわれてしまった。行方を聞けば東国へ下ったそうな。心乱れてその子を探しにはるばる隅田の川まで参ったのです」
話を聞いてほだされた渡し守は狂女を舟に乗せてやり対岸の下総の側へと向かう。向こうへ着くと、柳の根方におおぜいの人が集まっている。何かと狂女が問うと、「供養のために」と渡し守が答えた。去年、人さらいに連れられた少年がこのあたりで病になって倒れ、うち置かれたために横死した。その哀れなこどもの弔いのために村人たちが集まっているのだという。驚いた女は問うた。「その子供の年は?」渡しは「12歳」と答える。
「その子の名字は?」「吉田の某」「その子の名前は?」「梅若丸」
話を聞くうちに狂女ははらはらと涙を流す。「行方知れずになった我が子を探して、見知らぬ東国まで旅してきたのに。今はこの世におらず、この塚の下に眠る身となりはてたか」と、母である狂女は、ここに眠る霊こそ探しもとめた我が子であると嘆くのであった。
「げに、目の前の憂き世かな」と最後に地謡がうたう。

8年前から京都で教鞭をとっているのだが、大学のキャンパスがある地番は吉田本町。すぐ近くに北白川道が通っている。この梅若伝説の舞台と重なるのだ。そういう縁もあって、この物語はなんとなく近しいものに感じてきた。
 そればかりか、人さらいの逸話は亡き母の体験談と重なることもあって身につまされることが多かった。
昭和初年、小学校に上がる前だった母は夕方ひとりで遊んでいると、見知らぬおじさんが声をかけてきた。隣の町で祭りが開かれているから見に行こうかという。綿菓子を買ってあげるからという言葉につられて、母はその人と手をつないだ。真っ赤な夕日が大きく、その男の人はにこにこ笑っていた。
隣町に入ったところで、たまたま、顔見知りの近所のおばさんと会った。「みよちゃん、どこへ行くの」と聞かれたので、「このおじさんとお祭りに」と答えた。不審に思ったおばさんは母を陰に呼んで私と一緒に帰ろうと諭した。それを見ていた男の人はあわてて離れて行ったと、当時を思い起こしてさも怖そうに語ってくれたことがある。このエピソードは徘徊癖のある私を戒めるのに十分役にたった。

12月22日は母の命日。3年前の今日、母は83歳で死んだ。近江で生まれて、若狭に嫁ぎ、クリスチャンとなって3人の男の子を育てた。クリスマス間近に昇天したことは、今から思うとよかった。母の信仰が天に通じたような気がする。

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by yamato-y | 2012-12-22 13:28 | Comments(0)

時間意識寸感

時間意識寸感

時間なんて、単なる社会的シバリぐらいにしか考えていなかった。
ところが心が壊れると、時間意識を失調するそうだ。計見一雄という精神科医が著した『現代精神医学批判』で知った。言い分はこうだ。
《おおざっぱにまとめると、鬱病者の時間は遅くなり、スキゾフレニアの時間は止まってしまいます。》《鬱病者の思考も遅くなり、スキゾフレニアの時間には間隙ができる。その間隙が極大に達すると「現在」がなくなってしまいます。》
 鬱病の人は時間意識が遅くなり、スキゾフレニアの人は時間という意識そのものがなくなってしまうというのだ。スキゾフレニアとはいわゆる分裂症のことを指す。

 鬱病者はものごとをなかなか決められにくくなっていく。
 昼めしに行く?行かない?。ラーメンにする?寿司にする?。近場にする?遠出する?。などというようなことがなかなか決められにくくなっていくのが 鬱病者の特徴だそうだ。だんだん思考速度が落ちていく。むろん、こんな些末なことの不決定が問題になるのじゃないが。

スキゾフレニアの時間意識の例が出ていないから、ちょっと想像してみる。他日、アポイントをとったという時間をともなう意識を失っているため、今日相手が目の前に現われたことが理解できないというような状況かしらむ。単なる物忘れでなく、時間意識がないために、社会関係を軸とした時間が寸断されていく。そういう症状が発現するのだろうか。

時間は現在形だけがあるのでなく、そこに過去も未来も堆積しているのだということをフランクルから教えられたと計見さんは書いている。過去がなくなって絶望だという嘆きは無用だ、過去は依然として現在の自分の奥底に溜まっていると解説している。
 目の前にあるひなげしは過去のアグネスチャンの名曲の歌詞と未来の漱石の虞美人草のイメージが重なって存在している。夏目漱石の『虞美人草』を私はまだ読んでいないので未来として扱った、念のため。
とこんなふうに時間意識を私は理解したが、どうだろう。あまりに単純かな。

 鬱病になると、なる前の自分となった自分を比較して、過去の栄光や楽しさなどはもどってこないと嘆くことが多くなる。
 鬱病者には時間はすべて過去に帰結する。こういう傾向はこのブログを始めたときから私にも備わっている。昔はよかった、あの頃はこうだったと、過ぎ去ったことばかり懐かしんでいる。だが病的な段階ではノスタルジアですまない。過ぎた日々から来る憤懣、怨恨、後悔などの苛烈なエネルギーに振り回されることになる。挙句、体のあちこちに不調が出てくる。情けない自分になりさがっているのを顧みて、なんとか直そうと努力すればするほど深みにはまっていく。

 これ以上は素人談義で踏み込むのはやめておこう。

ただ、著者は現在と夢中になって取り組んでいるときが一番幸福な状態だという。小椋佳の名文句を引用している。「疲れを知らないこどものように」

 現在というのはテレビにとっても非常に大きな存在である。大先輩のテレビ制作者が残した言葉がある。「お前はただの現在にすぎない」

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by yamato-y | 2012-12-21 13:20 | Comments(1)


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