定年再出発  


懐かしい空
by yamato-y
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私たちの時代

私たちの時代

3・11の大津波の混乱で忘却していたテレビドキュメンタリーがある。

2010年12月の日曜日、昼下がりぼんやりテレビを見ていた。各局、ゴルフか競馬かの中継番組ばかりでつまらない。8CHに回すとドキュメンタリーをやっていた。
舞台は私にもゆかりのある石川県門前町。何を描こうとしているのだろうか、気になって画面の背景を探った。女子高校生のソフトボール部の話らしい。能登なまりが懐かしくそのうちソフトボールに懸命に打ち込む少女たちの姿に惹きつけられそのまま最後まで見続けることになる。どうやら番組の半ばから私は見たようだ。そこから1時間あまりで番組は終わった。

 構成が巧みで編集が上手いと、うなった。画面を確認していないので正確なことはいえないが、番組終盤のシーン切り替えしのカット。能登半島のがけ沿いの道を路線バスがゆっくり走っていく。そこにアメリカ音楽のスタンダードが流れる。ノーナレーション。
深ぶかと画像の風景を味わいながら、物語の女子高生たちのその後の運命を観客に予感させるような絶妙のツナギ。まるで劇映画を見るようなここちがした。

2007年に発生した能登地震で門前町は壊滅的被害を受け、住民はうちひしがれた。その心を奮い立たせたのが当時の門前高校のソフトボール部の活躍だった。県下でも有数の強豪ではあったが、なかなか全国大会には進出できなかった門前高校。強豪津幡高校がたちはだかっていたのだ。このライバル校との死闘が物語りの大筋。そこに向かって日夜努力する選手、マネージャー、監督の群像。このけなげな少女たちに高校廃校という厳しい現実がふりかかってくる。まるでフィクションを見てるかのように次々に事態が動く。

途中から見たせいか、番組の質の高さに高揚したものの数日たつと印象は薄くなっていた。やがて年が変わって2011年。3月にあの大震災が起こり、すっかりこの番組のことは忘れていた。
ただ、ときどきあの華麗なツナギカットをふっと思うことがあった。あの甘美なせつなさを自分でもやってみたいものだと、憧れる思いはあった。だが、番組のタイトルを知らないので番組の内容、形式、スタッフなどを調べようがなかった。

一昨日、放送センターの書店で立ち読みしていたときだ。オビに佐野真一さんの番組批評と書かれたエッセー集を手にとって、ぱらぱらと読んだ。そこに2010年12月の記録で、「私たちの時代」に感動したという記述が出ていた。一読。まさに、これが、私が感動したあの番組だった。佐野さんも絶賛していた。
となると、全部通して視聴したいという思いがつよくなった。
誰か、この番組を録画している人はいないかなあ。

 この話を同僚に話したら、Youtubeに映像があるかもしれないよと知恵をつけてくれた。
パソコンを開いてみると、たしかに「私たちの時代」の映像が2つに分けてあった。一部省略してあってオリジナルとまったく同一ではないと思われる。だが、ほぼ受ける感動は変わらないぐらいよく編集されている。それを見て、各選手の境遇や生い立ちを知り感動がさらに深まった。
まことによく出来たドキュメンタリーだと思うが、一方どうも居心地がよくない。あまりに劇的な展開であること、そういう場面をカメラがよく押さえていることだ。私の体験から言うと、そういう瞬間までカメラが内部に入って撮影するというのは難しいと思われる局面なども、しっかりこの製作者達は取っている。ふしぎだ。いや、上手いと褒め称えるべきか。

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by yamato-y | 2012-11-30 12:16 | Comments(1)

夜と霧

夜と霧

間接的だったが、『夜と霧』で知られるV・Eフランクルのドキュメンタリー制作に関わったことがある。そのときの番組タイトルは、「それでも人生にYESと言う」という言葉を含んでいたと記憶する。フランクルの信条を表す言葉だ。

フランクルはウィーンに生まれたユダヤ人医師。ナチスドイツがオーストリアを併合したとき、フランクル一家はそれまで住んでいた場所を追われ、さらには強制収容所に送られた。老いた父母はまもなく死に、妻とは別々の場所に収容された。
奇跡的にフランクルは生還できた。40歳のときである。だが妻は収容所が解放されるまで生きていたと思われるが、その直後に衰弱死している。その苦境のなかで書かれた体験記「一心理学者の強制収容所体験」が世界的ベストセラー『夜と霧〜ドイツ強制収容所の体験記録』である。

こんな悲惨な人生にあっても、フランクルの思想の根幹にあるのは、「人間の身体や心は病気になることがあるが、精神は病むことがない」。
フランクルの提唱したロゴ・セラピーゼミナールの受講生、北條さんは宮城の小学校の教頭だ。津波の直後の4月1日に、東松島小学校に赴任する。そこで見たものは――。
「子供たちは受け入れ難い経験をしている。だからダメなんじゃなくて、子供たちと、それでも人生にイエスと言えるように歩んで行きたい」

 この日本語タイトル「夜と霧」は、当時話題になっていたアラン・レネの映画「夜と霧」からヒントを得てつけられた。
長く夜と霧の意味を知らなかった。せいぜい、あのドイツの暗い時代を指すのが「夜」、アウシュビッツの毒ガスのイメージが「霧」ではないかと勝手に想像していた。
河原理子の『フランクル「夜と霧」への旅』を読んで、はじめてその意味がわかった。「夜と霧」とはドイツ語の慣用句で、「夜と霧に隠れて、夜陰に乗じて」という意味なのだ。ナチスドイツが反抗する人間たちをこっそり拉致して抹殺する作戦を立てた。その作戦名が「夜と霧」だった。
トリビアの泉ではないが、「へえ」を3回ぐらい連発したくなる。

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by yamato-y | 2012-11-29 09:01 | Comments(0)

渡った人は帰らない

渡った人は帰らない

来る12月15日の土曜日。午後6時からポロン亭ラストライブ+同窓会が開かれる。
30年にわたってコーイチがプロデュースしてきたポロン亭ライブもこれをもって最終回となる。そこで、ポロン亭の古い常連たちが久しぶりに会って同窓会でもやろうかと考えたことからこの企画が生まれた。ポロン亭ラストライブ+同窓会の総合プロデュースは私が担当する。

ポロン亭が荻窪天沼に誕生したのが昭和47年、ここでのライブコンサートが開かれるようになったのが49年のころ(思えば、遠くへ来たものだ)。そのときの店主だったミヨさんは10年前にすい臓がんで昇天。今は2代目のヨーコさんが店をきりもりしている。この間、コーイチは100回を越える数のコンサートを主催した。トップバッターはナミさんこと南正人。かくして、今回のラストコンサートの主役も南正人。

昭和50年、若者はギターを手に街角でライブハウスで歌った(シャウトしたといったほうが正確かもしれない)。歌は抒情よりもメッセージを優先した。あのころ、若者は重い蓋が頭の上にいつもあるような気がしていた。いらいらした。南正人や浅川マキの歌に、思いを託したり、ともにシャウトして内部のエネルギーを大放出したりした。

不思議な橋がこの町にある。渡った人は帰らないと、浅川マキは名作「赤い橋」で歌った。この石川出身の稀有な歌姫の歌声はじんじん私の胸にしみた。ナミさんは浅川ともセッションした。そのそばにギターの名手萩原信義がいた。萩原の腕前は当時のミュージシャンの間では語り草になるほど秀逸な技量の持ち主である。ナミさんとこのノブさん(萩原信義)のコンビがひさかたぶりにポロン亭で復活する。

これまでポロン亭に登場したアーチスト――高田渡、友部正人、よしだよしこ、ともかわかずき、西岡恭蔵、岡大介・・・と多彩な才能が並ぶ。だが、このなかの幾人かは赤い橋をわたって帰って来なかった。高田渡は北海道の巡業先で落命、西岡恭蔵は妻くろちゃんの死にたえかねてこの世とあの世の境をぽーんと超えた。二人とも50代の死だ。不思議なことにコーイチはこの人たちの最後の日々に、遭遇することになった。ムシのしらせか。こういう「伝統」を育んできたポロン亭ライブ。2012年暮れで店仕舞いとなる。悲しい締めくくりにしないためにも、そのあと開かれるポロン亭同窓会。地方へ帰っていった当時の若者が、今おっさんやおばさんになって天沼のポロン亭めざしてやってくるのだ。

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by yamato-y | 2012-11-28 14:24 | Comments(0)

鳥の声間近く

鳥の声間近く

朝もやのなかで目がさめた。前が空地になって林があるせいか小鳥がよく飛んでくる。寒さがましてくる今頃になると、その鳥の声が喧しい。どうも野鳥というものは夏より冬のほうが存在感が大きくなるようだ。

寝ざめの床で少年時代を思い出していた。
5月の日曜日の朝のことだった。
10時から始まる礼拝に間に合わせるよう、自転車で家を出た。スーパーマーケットの前の道をまっすぐ走って、市営住宅の角を曲がったところに教会があった。幼い頃は遠い距離に思えたが、自転車で7,8分ほどのところであった。正面玄関の前でゆっくり自転車を停めスタンドを起こして駐輪にした。会堂のなかからオルガンの前奏が流れていた。父は先に出かけていたから中にいるはず。玄関で式次第がタイプ印刷された週報を一枚受けとって礼拝堂に一礼して入った。
後方の座席に着いて目を閉じる。ゆったり時間が流れていた。
時折、玄関から涼やかな風が吹いてきて額をなでていく。薄目を開けると、父が前のほうにいかめしく座っているのが見えた。他の長老たちも席についていた。オルガンの音色がひときわ高まって、止んだ。
やがて牧師が登壇して日曜朝の礼拝が始まっていく。
高校2年の初夏のこと。今もあの朝の風を思い出すことがある。

感に堪えないのは、あの頃の父は今の私より20歳も年下であることだ。当時は、厳父である父を怖れ嫌っていた。ことあるごとに進学のことで言い争いをした。文系しか向かないと自分では思っていたが、父は理系の大学を目指せと口うるさかった。何かにつけ反抗したが、最後は「誰のおかげで学校へ行っている」の言葉でとどめをさされる。それが悔しくて仕方なかった。

敦賀駅の近くに家はあったので、機関車の操車場の大きな音も夜になると響いた。受験勉強をするふりをしていた。机に頬杖をついて、機関車の汽笛をぼんやり聞いていた。早く大人になって家を出たい、都会へ行ってあれこれ遊んでみたい、そればかり念じていた。
あれから、およそ50年。
今、その都会に住んでいながら満ち足りないものを感じて、あの頃に戻りたい思いがしきりなのはなぜだろうか。あの頃嫌っていた田んぼのあぜ道にももう一度歩いてみたいと願うのはどうしてだろうか。父のあの憎たらしい言葉をもう一度聞いてみたいと思うのは年のせいだろうか。


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by yamato-y | 2012-11-27 08:01 | Comments(0)

白い丹沢山系

白い丹沢山系

8時40分ごろから雨がぽつぽつ来た。3連休の間はいい天気が続いていたが、明け方冷え込んでいたらやっぱり雨になった。大磯の里山は冬仕度に入った。見事な金色の葉を残している銀杏も今週ちゅうには落葉することになるだろう。山道につわが黄色い花を咲かせて存在を誇示する。あざみは盛りが終わって、あの妖しい薄紫の花が次第に褪せていっている。
 9時過ぎ、平塚あたりで丹沢方向を眺めると雨雲に覆われて白いかたまりになっていた。白い風景ではない。丹沢は霧に隠れていて見えないが、何か白い塊としてそこにあるという視覚、というか感覚。

 土曜日の夜は銀座で京都の大学のミニクラス会が行われた。二十世紀学研究室のS先生が会議のため上京して来られたのを機会に在京の卒業生4人が集まることになった。そこへ非常勤講師の私も招かれた。4人全員私も教えたから、私にとっても懐かしい人たちだ。
ゲームメーカーに勤めるSさんは私が最初に教えた学生で、彼女の企画で映像制作をしたからよく覚えている。結婚したという。若妻の色気があふれていて、男まさりだった学生時代とおおいに変わっていたことには驚いた。IT企業に入ったT君は昔と変わらず、冷静にして穏やか。3年前に結婚したが子供はまだいないという。
残り二人は独身で、映像関係の仕事についた。仕事を覚えてきて楽しいと語っているのが印象に残った。いまどき、仕事に楽しみを覚えていることを広言することはめったにないから。

S先生は6時まで学士会館で会議があるということで、待ち合わせは6時45分に銀座4丁目の和光にした。週末で3連休の中日ということで銀座は華やいでいた。5時50分過ぎに大きな地震があった。銀座でも震度4ということで、私鉄の一部が運休。10分ほど遅刻するかもしれないという連絡がメンバー最年少のM君から入る。
宵の口の地震は人々を驚かせたがたいした被害もなく交通機関は順調に復旧。メンバーも6時50分には全員そろった。

久しぶりの再会を互いに喜びながら、4丁目交差点からぞろぞろと銀座5丁目まで移動。ビアホール「ライオン」の2階席に入った。ビールとソーセージで乾杯。そこから歓談が始まり、あっというまに8時半。1次会は終了。
S先生は下戸で大の甘党。そこで2次会は資生堂のフルーツパーラーとなった。銀座通りをはさんで向かいにある。
パーラーに行くと、支配人らしい男性が「営業は9時までですがよろしいですか」という。
30分あれば堪能できるだろうと、席につくことにした。
10分後、フルーツてんこ盛りのスィーツが次々に出てくる。「味がしっかりしている」というS先生の評価もあって、一同にこにこしながらあまいものに飛びつく。学生時代と変わらない一同の無邪気な表情にちょっと感動した。

パーラーを出たのが9時10分ごろだったろうか。11月23日、勤労感謝の日のおだやかな夜、6人は銀座をぶらぶらして有楽町の駅をめざした。肌寒い風がほてった顔をなでて気持ちいい。昔、百万遍の居酒屋でのコンパを終えて帰っていった光景を思い出した。

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by yamato-y | 2012-11-26 14:39 | Comments(0)

良い秋の日

穏やかな陽がさしている。さあ、帰りなむいざ、大磯へ
ゆっくり還ろう。
これから品川へ出て熱海行きに乗って、川崎、横浜、大船、藤沢、平塚そして大磯。
きっと湘南の海はまっさおに輝いているはず。
ツヴァイクの道もさぞかし紅葉が進んでいることだろう。

紅葉山の家にはネットの接続をつけていない。明日まで、このブログともおさらば。


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by yamato-y | 2012-11-25 12:20 | Comments(0)

中ちゃんの慟哭

「北の国から」を見て

「北の国から 2002遺言」前編を見た。このシリーズを断続的に見ているが、どうしても地井武男の泣くシーンが見たいとシリーズをはしょって最終章を先回りして見たのだ。この「2002遺言」が「北の国から」の最終作品といまのところなっている。

 五郎(田中邦衛)は富良野で螢と3歳の息子の快と共に暮らしていた。純と、蛍と結婚した正吉は草太から引き継いだ牧場を潰し、多額の借金を残して町を去っていた。純は今は羅臼で暮らし、正吉は行方は知れずになっていた。
蛍は正吉のことを思っているが、借金を返済するため懸命に働いているらしい正吉はなかなか姿を現さず、不安にかられている。純は北の果て羅臼で新しい恋を育みつつあった。

 その物語の途中で純のかつての恋人シューの挿話がある。宮沢りえが演じるシューは過去に傷をもっていたが純と次第に愛し合うなかとなる。
シューは純だけでなく、父の五郎とも仲良くなり親交を深めた。その後、何か事件があって、純とシューの恋は破綻したらしい。そのパートを私はまだ見ていない。そこを跳ばして、最終章「2002遺言」を見ている。
 その別れたシューが純のいない五郎の家を訪ねて来た。五郎は歓迎する。その好意にこたえてシューは五郎のために風呂を立て、五郎は喜んで風呂に入る。薪を燃やしながら、シューは今度お嫁に行くことになったと告白。驚く五郎に、これを渡してと純にむけた手紙を託す。この間の宮沢りえが演じるシューのせつなさがいい。旅だっていく淡い悲しみが画面いっぱいに広がる。

 手紙を手にした五郎は風呂からあがって、戸外に出て来る。シューは別れの言葉も告げず、夕日の丘をくだっていく。その姿がシルエットとなり見送る五郎とカットバック。この場面を見ながらさまざまなことを思った。

 この後のシーンは羅臼での純の恋の話となって展開していく。そして、終わりの頃になって地井武男が演じる中ちゃんが妻の癌を知らされて慟哭する有名な場面にうつってくる。まさか、最後の最後にこの場面とは予想していなかったので、いささか不意をつかれた。前の宮沢りえ挿話に心奪われたままでこのシーンに来たからだ。
 でも、さすがに世上名高い感動的場面といわれるだけあって、地井の迫真の演技は胸にせまるものがあった。
 と、ここまで昨夜遅くまでかかって見た。祝日の今日、午後遅くから後編を見た。唐十郎が登場してドラマが変わったのかと思うほどラブコメディ調になった。これが最終章のバージョンになるのかといささか落胆気味でその後を見ると、中ちゃんの妻が癌で死んだときから俄然ドラマの運びがよくなる。そして、通夜の日、中やんが娘の新居となる家でひとり妻を偲んで泣くという場面。
巷間このときの地井武男は数日前に実際の妻の急死に遭遇しているから、このドラマの演技は真に迫っていると伝えられていた。たしかに、鼻水垂らして涙を溢れる姿は演技だけとは思えない。さめざめと男泣きする地井の姿に、今年71歳で早死にした彼の境涯が重なって、深い情感が巻き起こった。
そして、このドラマのエピローグ。富良野駅頭での五郎たちと蛍母子との別れの場面。ここで孫のカイが「もういいかい」というセリフを小さく叫ぶ。顔色が変わる五郎。ここの展開はさすが倉本聰だと感じ入った。
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by yamato-y | 2012-11-23 13:53 | Comments(0)

言い訳

引かれものの小唄


 原子力安全委員会委員長の班目春樹氏の言い訳集が新潮社から出た。「証言班目春樹」。
あのフクシマの悲劇が起きてからの10日間ほとんど眠る時間がなくふらふらだったと、献身的にこの事件に取り組んだことを吹聴することから始まる。

 この書で氏は弁明につとめる一方、この事件の大悪人としてふたりの人物をくりかえし挙げている。ひとりは総理大臣で最高責任者の菅直人、もうひとりは保安院の寺坂院長である。
とにかく首相の人徳のなさには呆れる。
《すぐに怒鳴りちらす。携帯電話だと、耳に当てて話すと鼓膜が破れるのではないかと思うくらいです。・・・怒鳴るだけでなく、人の話をちゃんときかない。話を遮り、思い込みで決めつける。震災発生後はいつもテンパっていました。精神状態ががちがちで、ほとんど余裕がない》
 これを書いているのが原子力安全委員会の責任者だから、どっちもどっちだと言いたくなるが、それにしても菅首相の資質はあまりにひどい。イラ菅というあだ名をかつて聞いたことがあるが、ここまで偏狭にしてゴーマンとは思わなかった。市民運動出身を売りにリベラルの星のようにして政界に登場したものの、権力を手にしたあとにはこのような本性を現すことになった。

 さらに、この班目春樹委員長がもっとも悪罵を投げつけているのが、保安院のトップ寺坂信昭。
事故発生直後、菅氏が原発の構造について質問したとき、事務職で文系の寺坂氏は何も答えられなかった。そのとき首相は保安院院長を厳しく叱責した。そのため寺坂氏は帰宅し、その後いっさい出てこなくなったと班目氏は証言している。まるで、衆人のなかで光秀の愚鈍を叱責罵倒する信長の光景ではないか。たしかに信長である菅首相が悪い。悪いとは分かるが、この未曾有の危機に戦線から逃亡する光秀、寺坂保安院院長。
 
 そもそも保安院という組織は経済産業省に属している。寺坂氏ももとは経産省の事務官。原子力についてはずぶの素人。本来理系の人がついていなくてはならないポストにこういう人物がいたことが問題がある。こういう慣例、措置は民主党の前の政権の「功績」であろう。原子力行政のいびつさがこの一点で浮かび上がってくる。それにしても、被災して避難を余儀なくされた住民たちの苦難を思うと、これほどひどい統治機構がトップにいたことの無念さは「察してあまりある」。
班目氏ですらこの寺坂氏の所業に憤りを隠さない。「敵前逃亡した保安院院長」とわざわざ見出しを立てて書いている。
《寺坂さんのように、叱責されたから自らの職責を放棄して官邸から逃げ出してしまっては、話になりません。もっとも大切な瞬間に敵前逃亡したわけですから、決してゆるされざる行為だと思います。》
日本の原子力行政のトップがこんな泥仕合をやっていたとは。ため息が出てくる。

 しかし、これほどの危機を体験しながら懲りもせず、班目氏は後日大飯原発の再稼動にもゴーサインを出している。どうにもこの人の考えていることが理解できない。
圧力容器の圧が高まったときに外部に水蒸気を逃がす弁がベント弁だが、これを開けるときの心境をこう記している。「もちろん一定量の放射性物質が漏れ出すことになりますが、高温の水蒸気を排出することで、圧力ばかりか温度を下げることもできます」。
原子炉が壊れる前に、弁を開いて圧力を逃がすことができれば、多少放射性物質が外部に出たとて、最悪の事態を免れるというのだ。
一見もっともな意見に思える。だが、そもそもの根源を問えば、この原子炉という不完全な道具を見切り発車して使用していることから事件は始まっている。そこに思いをいたさず、かつ周辺の住民の健康も「多少」の犠牲はやもうえないとみなしている、この感覚。

 この書を著そうとした動機を斑目氏はこう吐露している。。
《私は、事故直後から首相官邸で、トップの院長が逃げ出した原子力安全・保安院の尻拭いをさせられつづけた。SPEEDIでは文科省に責任をなすりつけられた。責任感の欠如した政治家、官僚たちに囲まれ、ふんだりけったり、という状況でした。》
 原子力事故の当事者という意識はほとんどなく、巻き込まれた関係者という意識でしか、この人はなかったらしい。自分は「責任感の欠如した政治家、官僚たち」のなかには入っているとはまったく考えていない。

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by yamato-y | 2012-11-22 14:40 | Comments(0)

サラメシ

サラリーマンの昼飯、サラメシ

朝のコーヒーを飲みながら、その日の予定と段取りを一応考える。そこでいつも思案するのが昼食だ。

昔は、同僚と公園通りまで出てパルコかスペイン坂のレストランに入って、ランチを食べたものだ。
今ではとてもランチの分量が入らない。年齢のせいだけでなく、やはり三年前の胃癌の手術を終えたこともあって、サラメシが入らなくなった。だから、友人と連れ立ったり待ち合わせをしたりして出かけるランチはほとんどなくなった。

 ところが昨日は朝食をとらずに出たせいか、12時を回ると急速におなかがすいた。打ち合わせが12時半まで続いたので、ランチに出る時刻が午後1時になった。いっしょに出かける人もいないので、ひとりで代々木八幡駅のほうへ向かった。

駅のすぐそばにある小料理店に入った。ここは夜が専門だが、ランチが豪勢なので人気がある。1時過ぎではランチは売り切れているのじゃないかと懸念したが、あいにくの朝からの雨で人の出が少なく煮魚ランチは残っていた。
カウンターに座って、1000円のランチを注文。横を見ると、報道局のXプロデューサーがむしゃむしゃとぶりの照り焼きを食べていた。「お久しぶり」と声をかけながら、料理が出てくるまで三分待つ。

 煮魚定食はあら煮、刺身のメインに豆腐のみそ汁、そして漬け物
あら煮の味付けは絶品で、銀シャリがどんどん進む。こんなことは久しぶり。ごはんが美味しいというのは健康な印。うきうきした。

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by yamato-y | 2012-11-20 09:49 | Comments(1)

紅葉山の櫨の木

ちょっと所用があって

夜来の雨があがってきれいな青空が見えている。
大磯紅葉山もそろそろ紅葉となる。裏山の野生の柿がすっかり色づいている。そのかたわらに大きな櫨(はぜ)の木があって、梢の先の葉っぱは真っ赤に染まっている。この木が櫨だということを近所のYさんから昨夜教えてもらった。
神奈川県の山間研究の研究所に勤めているYさんは自然科学者だから植生などにもつよい。そのYさんはかぶれ性で、ウルシ系にはすっかりやられてしまうというので、家のそばに自生しているその櫨の木を枯らそうとしたことがあったそうな。
古来から伝わる方法で、木の幹になにやら(詳しいことを聞いたのだが、さっぱり耳に入らなかった)を巻いて、木の汁をすっかり奪い取って、その憎っき櫨を退治しようともくろんだそうだが、あては外れて櫨はいっこうに弱らなかった。櫨の木というのはそこまでしぶといやつで、そのエキスのウルシはとても毒性が強い。かぶれやすい人はけっして葉っぱ一枚にも触れてはだめですよと、Yさんは忠告してくれた。私も少年時かぶれて大騒ぎになった経験をもつ。
今朝、その櫨を秋の光のなかでしげしげと眺めたのだが、そんな手ごわい木にはとてもみえない。穏やかな枝ぶりに落葉前の赤い葉がいっぱい茂ったその木は大家の殿様のような、おおどかな風情をかもしていた。

実は、本日午後1時から目白遊俳倶楽部の月例の句会が開かれる。ちょうどこの記述を書いている頃から始まっている。この日に例会があると知ったのは一昨日のこと、あいにく土曜から日曜にかけて大磯での予定を入れていたために欠席することになった。例会の連絡がなかなかないので最終週の日曜日ではないかと心づもりをしていたから、参加できないことはとても残念である。
戸板康二の句会のエッセーを読んだ。なかに東京やなぎ句会が出てくる。小沢昭一や加藤武、江國滋、永六輔らがメンバー。宗匠格は入船亭扇橋。文人のような落語家だったと戸板は評しているが、その御仁がひねったという句に心を奪われた。
ふるさとは風のなかなる寒椿
この景は冬の終わり、早春めいた頃であろう。たしかにふるさとは冷たい風のなかで見(まみ)えたい。その故郷にはもう父も母もいないと知ったうえでの風のなかで。
 扇橋の噺を聴いてみたいとしみじみ思った。

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by yamato-y | 2012-11-18 17:16 | Comments(0)


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