定年再出発  


懐かしい空
by yamato-y
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ブログは灯台

ブログは灯台

懐かしい人からコメントをいただいた。2009年に卒業した“教え子”のYさんからだ。
Yさんはメディアに関心をもつ熱心な学生で、前期の演習、集中講義の2つとも受講してくれた。テレビ局の就職を希望したこともあって上京して見学するお手伝いをしたこともあった。その思いに応えたいと、懸命に指導したが、残念ながら望みどおりの就職とはならなかった。今は、関西の銀行に勤めている。
 その銀行のある町で私は生まれた。琵琶湖のほとりに母の実家があった。その祖父母の家で誕生したこともあって、幼い頃は上平蔵町の電車端の家によく行ったものだ。今でも、浜大津のターミナルを通過するたびに懐かしさでいっぱいになる。

3年前、母がまだ息災だった頃、上平蔵町の家を見に行ったことがある。十年ほど前に人手にわたったこともあってご無沙汰していたのだが、京都の授業の帰りに寄って見た。家の造作は変わっていなかったが、玄関がサッシになったりガレージが建て増しされたりしていた。(おじいちゃんの家でなくなった)
寂しい思いで敦賀に行って母に報告したことがある。

そのとき、たった一つ明るいエピソード。Yさんがこの町で働いているのだということだった。知り合いが、教え子が、私の生まれた街で仕事をしていると想像することが小さな慰めとなった。あの県庁に近い銀行の本店で一生懸命働いているYさんの姿を想像すると嬉しくなる。思いがけずその人から、ブログへコメントをいただいた。

来年1月の完全定年を前に身辺を整理している。ところがなかなかふんぎれないものが2,3ある。一つはオフィスのパソコンの受信情報だ。現在、4000件ほど備蓄されている。仕事で出会っただけの人のものから音信が途絶えた人まで雑多だが、廃棄する気が起こらない。件の人たちとの残されたわずかな絆と思えてならない。だから後生大事に抱え込んでいる。
もう一つはブログ。2005年2月1日から始めたブログも今では3000を越える記事の数となった。「春のワルツ」の取材の頃はソウルへ出張しても、このブログに記事を入れようといろいろ算段するほど夢中になったのだが、ここ1年ほどは気持ちがなかなか奮い立たない。では閉鎖するかと問われれば、それは否。
こうして、不特定な読み手に向かってブログを開いているからこそ、Yさんのような懐かしい人からの連絡が入るのだ。
ブログは灯台のようなものだと思う。自分が書いた記事が灯りとなるなんておこがましいことを言うのではない。暗夜に、細々とした光であれ灯していれば、誰かがそれを見つけてくれる。そして、また再会することも夢ではなくなるのだから。

 さて、完全定年以後の備えも少しずつ始めようと思う。
手始めに、自分のネット上のアドレスを確立すること。これは昨夜自宅のパソコンに施した。SO-NETの住所だ。これから出会う人たちには、この新しいアドレスを案内することにしよう。
ちなみに、Yさんまたご連絡ください。

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by yamato-y | 2012-10-31 11:45 | Comments(2)

秋の夕暮れ

月夜

夕影濃くなる頃、山際がうつくしかった。高い空に茜が射して、空は古代青を深めていた。こんな静かな夕暮れをあと何回見ることができるだろう。
2年前の大地震以来、めっきり厭世観にとらわれるようになった。次々に起こってくる事件、事故、紛争のニュースはいいことが一つとしてない。半世紀前の帝国主義がよみがえったかのような国境紛争、企業経営者の遁走、官僚の無責任、そして政治の停滞、なにより右傾化の兆し。

暗い世相には暗い気候、節気しかないかと嘆いていたが、昨夕の月の出の頃は思いがけず美しい景に出会った。
日が沈んだあとも大空にいつまでも明かりが残り、地平線を覆う雲がシルエットとなる頃、大きな満月がぽっかり浮かんだ。その見事な丸さと黄金色にうっとりしてしまった。

紅葉山、ツヴァイクの道をゆっくり登った。秋の草むらを踏み越えて、坂の中ほどまで行ったところで振り返ると、相模湾に穏やかな江ノ島が浮かんでいた。海の色もゆっくり蒼ざめていく。

家に帰りついて、風呂を立てた。暑すぎず寒すぎずほどよい気候で、湯船たっぷりのお湯を張った。肩までつかって鼻歌まじりで向山の頂を仰ぐ。空にぽつんと星がまたたく。あれは一番星か二番星か。

 その夜、「かぐや姫」から電話がかかってきた。思いがけないことであたふたした。缶ビールをラッパ飲みしていたこともあって、酔いがいささか回った。「あんたの動く所作が魅力的だよ」とおべんちゃらを言うと、「どこらへんが」と問われた。川島雄三の「洲崎パラダイス」に出てくる新珠美千代とそっくりだよと応える。柳腰と呼びたい細身がしなる様は絶品だ。あの映画を見ておいたほうがいいよと、酔余にまかせて大口をたたく。これ以上話していると馬脚が出そうで、丁重に電話を切った。いつか、この人のうまい芝居を見てみたいものだ。
 

夜更けて、「ファミリーヒストリー」を見た。俳優、浅野忠信の祖父の物語。ドキュメントの終盤に仕組まれたサプライズには感動した。たしかに、昨年放送されて、評判をとったということも分かる。


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by yamato-y | 2012-10-30 14:22 | Comments(0)

古本市

古本市

日曜日。 今にも雨が来そうな昼下がり神保町へ出かけた。第53回 東京名物神田古本まつりが昨日の土曜日から始まっていた。参加店:約100店舗、出品点数:のべ100万冊余という国内最大規模の古書市だ。
目黒から都営三田線一本で神保町に着く。地上にあがると、学士会館前となり、そこから神保町交差点までは指呼の間。めざして行くと、歩道には沢山の書籍ワゴンが出ている。
スズラン通りにはおよそ80ほどの出版社のブースが並んでいた。どうやら各社で売れ残った書籍を販売していると思われる。各社とも台所は相当厳しいのだろう。定価の半額、ときには15㌫で売りに出している。青弓社のブースで『戦死者のゆくえ〜語りと表象から』が破格の安値だったので購入。
どんより曇った空から今にも雨が落ちてきそう。早めに見て回らないとワゴンは撤収されるかもしれない。大急ぎで見て回り、購入したのは日本エディタースクール発行の「本の知識」。前から、本の作りについての説明を読みたいと願っていたが、本書はぴったりのブックレット。
ワゴン店で得るものはそれほどない。むしろ神保町から小川町にかけての店舗で祭り協賛で普段より10~15%ほど割り引いているなかに掘り出し物があるような気がした。

昭森社『詩集 悲歌』黒田三郎。新潮社『あぢさい供養頌〜わが泉鏡花』村松定孝。旺文社『高野聖・歌行燈』泉鏡花、河出書房新社『暗い流れ』和田芳恵。新潮社『ちはやふる奥の細道』小林信彦。青弓社『戦死者のゆくえ〜語りと表象から』川村邦光編著。筑摩書房『エリオット』深瀬基寛。

このなかで、最も高値は黒田三郎の『詩集 悲歌』。珍しい、この詩人晩年の小さな詩集で、薄い書籍にもかかわらず1千円した。それ以外は、300円からせいぜい500円まで。
この日使った額は3000円弱に満たない。
帰りの電車で、小林信彦の『ちはやふる奥の細道』をがつがつ読んだ。

夜9時からのNスペ「日本の家電の逆襲」。2夜連続のシリーズ。土曜日のほうが面白いと思った。

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by yamato-y | 2012-10-29 09:37 | Comments(0)

応答あり

ちょっとした喜び

昨夜は汐留のデンツーまで行って、知人と会い、来年から始める仕事の在りようや促進について相談した。
知人といっても息子ほど年が離れている。事実、知人を紹介したのは息子だから、年齢差は当然といえば当然。
――そして、相談事はうまくいった。私の迷っている番組群の編集方針の洗い直しにおおいに役立つことを彼は助言してくれた。そのとき面白い殺し文句を使った。「迷ったら、フロイトに戻れ」
 フランスの大家、ジャック・ラカンの言葉だそうだ。ネオ・フロイト派の総帥でもあったラカンなら、さもこんな言葉を吐くだろうなあと感心しながら、この格言いただきと内心ほくそ笑んだ。

かつてはその知人は私と同じ映像制作仲間だったが、転職して、今や「コンサルタント」もこなす有能な広告マン。

『テレビ制作入門』という私の昔書いた新書を、その知人は高く評価してくれて、折にふれてテレビ映像の話のなかで言及してくれる。今もテレビとの関係は深く、業界の近代化や発展におおいに力を奮っている。

その彼が今執筆しているという。書店に出るのは来春らしい。どんな本なのと聞くと、『テレビ制作入門』の応答のようなものですという答え。
複雑な心境だ。小生のテレビ論を評価してくれるのは嬉しいとしても、応答するほどの中身があったっけといささか戸惑う。謙遜するわけでなく素直に疑念が浮かんだ。が、すぐ打ち消した。せっかく新しい世代がそういってくれるなら、余計なことを考えまい。説教節は口に出すまい。

 知人が新しいテレビ映像論、文化論を打ち立ててくれるなら、こんな嬉しいことはない。
 知人の顔ははつらつとしている。自信に溢れている。今の仕事はジャストミートしたのだろう。

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by yamato-y | 2012-10-27 14:49 | Comments(2)

幸あれかし

幸あれかし

先日、耳の診療にかかったばかりで、昨日は抜歯を行った。
左下の奥歯である。今年初めに風邪をひいたとき、虫歯が浮いているような気がしていた。が、それ以上痛みをともなうものでなかったので放置した。
夏を越え、秋のたけなわとなり、寒さが肌に染むようになり、虫歯がぐらぐらしてきた。
ここ数年お世話になっている守屋歯科に行くと、「この歯は相当な段階に来ていますね、抜歯することになります」と重々しく通告された。
 重い気分を変えようと、私は軽口をたたいた。
「来年1月の定年までに片付けてくれませんか。新しい入れ歯は簡単で結構です。あと4,5年ぐらいで店仕舞いしたいので」
 「えっ、70歳ぐらいで店仕舞いするつもり」と守屋先生は素っ頓狂な声をあげた。
    *
オフィスに戻り、情報を検索していると、懐かしい名前が現れた。40年以上前、金沢時代に知り合った人の名前だ。ずっと忘れていたが、字を見て思い出した。その人は土木建築業に従事していた。穏やかな人でいつもにこにこしていた。事情があってその人とも会えない境遇になってしまったので、この四十年の動静は知らない。

その名前であらためて検索すると、思いがけず、たくさんの情報があった。どうやら、その人は勤務していた建築会社の代表になったようだ。
それだけなら嬉しいのだが、ネットの情報は辛いことを告げていた。彼が代表になっている会社が、数十億の負債をかかえて倒産したという。ここ数年続く不景気は地方の建設会社を直撃したらしい。名門の会社であったが、どうやら知人はその最後の社長を任せられて奮闘してきた果ての倒産だったようだ。
日付を見ると、3年前のことだ。衝撃的な事実を知らされて言葉を失った。気の優しい人だったから、資金繰りなどの荒い仕事はきつかっただろうな。数十人の従業員の生活を守るために必死で大手や中小のゼネコンを回って営業したのだろうなあ。口の重い人だったから苦労したにちがいない。その挙句に倒産か。

この後どうしただろうか。今はどうしているのだろうか。
第1線を退いたにしろ、なんとか社会とのつながりをもっていてほしい。できれば、穏やかな老境に入っていてほしい。幸あれかし。

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by yamato-y | 2012-10-25 12:32 | Comments(0)

サブカルチャーに燃えたあの頃

ここ数年の仕事の足跡

晩秋。さまざまなこと思い出す季節がやってきたのだ。そろそろ来年、来年度の仕事の仕方が決まる時期がせまってもいる。
来年は私の完全定年。サラリーをいただく人生もどんづまり、1月31日で終わるのだ。だからといって、ただの年金生活者にはなりたくない。今更新しい仕事もできないし、新しいスタイルにも容易になじめないし・・・。

参考までに前職の定年になったときからのことを少し振り返ってみることにした。

2005年1月19日の誕生日で57歳となりNHKを定年退職した。35年勤めた。前の年に、「冬のソナタ」をキャンペーンして応援する番組作りを任せられたので、当時猛烈に忙しかったから、定年という人生の節目をじっくり味わうような機会を失した。
「“冬のソナタ”へようこそ 」を作ったのが2004年3月27日。チェ・ジウさんが初来日して大騒ぎとなったときだ。このときから「冬のソナタ」関連番組を5本も制作することになる。それまで、大江さんのドキュメントや広島、長崎の原爆のことなど硬い番組が多かったのだが、冬ソナを契機に路線はマスカルチャー、ポップカルチャーへと大きく変わっていく。

2005年で定年したものの、関連会社でプロデューサーは続けたから、番組は作り続けることになった。
「スーダラ伝説 植木等・夢を食べつづけた男」は定年の年、2005年の11月1日放送となった。植木等さんの人生ドキュメントだ。つまり日本の戦後史でもある。このとき植木さんに可愛がっていただいたこともあって、亡くなったとき遺品のおすそ分けとしてストローハットをいただいた。実は、もう一つ植木さんの作品を作る予定をしていたのだ。植木さんの歌の力を引き出すような企画を練っていた。ご本人も乗り気で、健康も充実していると思われたのだが、突然病魔が牙をむき、植木さんは帰らぬ人となり、企画も幻となってしまった。

2006年初頭、北の地で「冬のソナタミュージカル」が開かれ、ユン監督を激励するため札幌飛んだ。雪祭りさなかの舞台であったが、会場にはファンの熱い思いが溢れていた。
同じく7月には、世田谷でウルトラマン展が開かれ、シンポジウムで伝説の編集長、内田勝さんとご一緒して対談する。「あしたのジョー」や「巨人の星」の時代を内田さんは熱心に語った。2年も経たないうちに、内田さんが物故するとはこのとき予想だにしていなかった。この夏には、急死した映画監督黒木和雄のフィルモグラフィーのようなETV特集「戦争へのまなざし」を制作した。久しぶりに硬い番組で、黒木監督の反戦論を説いた。ギャラクシー月間賞を受賞した。
2006年暮れから、文楽の闘う三味線、鶴澤清治さんに密着する。ここから、私の古典芸能3部作が始まることになるのだが、当初はまったく経験したことのない古典芸能の世界にとまどうばかりであった。

2007年から9年にかけて、なにより大きなことはサブカルチャーに力を注いだことだ。
まず、2007年3月24日にETV特集「あしたのジョーの、あの時代~団塊世代 “心”の軌跡」を制作し放送した。昭和23年生まれの自分にとっての意味を問うつもりで企画を立てた。少年、青年期に夢中になったマンガが甦った。
続いて、2007年10月21日には、日本SF作家クラブ50年を記念して、ETV特集「21世紀を夢見た日々 日本SFの50年」を放送した。車椅子ではあったが、小松左京さんがご存命であった。このときに収録したSF第1世代の巨匠たちの声は貴重な記録となったと自負している。この番組で、私は久しぶりにディレクターを担当した。

明けて、2008年。11月30日にはETV特集「新しい文化“フィギュア”の出現~プラモデルから美少女へ~」を放送した。前からリスペクトしていた伝説のボーメさんに密着した。フィギュアという文化には今も深い関心がある。もう一度、フィギュア文化の番組を制作して、世にこれがもつ美、奇怪さ、ファンタジーなどその魅力を喧伝したい。
2009年には少年週刊誌創刊50年を記念して、ETV特集「全身漫画家~真説・赤塚不二夫論~」が3月29日に放送された。これは、2009年5月5日に総合テレビで放送した、特集「ザ・ライバル~少年サンデー少年マガジン物語」の兄弟版にあたる。

さて、私の近年のサブカルチャー番組を挙げてみたのだが、気がついてもらえただろうか。 
2007年3月24日、ETV特集「あしたのジョーの、あの時代~」
2007年10月21日、ETV特集「21世紀を夢見た日々 日本SFの50年」
2008年11月30日、ETV特集「新しい文化“フィギュア”の出現~」
2009年3月29日、ETV特集「全身漫画家~真説・赤塚不二夫論~」

すべてETV特集90分の大枠でビデオ構成しているということだ。本気で現代のサブカルチャーの本質に迫りたいと願ったのだ。ETV特集という生真面目な番組枠で、サブカルチャーがその題材として十分相応しいということを主張したかったのだ。私の心が若い人たちに通じただろうか。
 

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by yamato-y | 2012-10-24 16:32 | Comments(1)

左の耳

左耳

幼い頃に中耳炎を患ったことは、以前書いた。父と銭湯に行ったときにアタマを洗ってもらっているときに、不注意から耳に水が入り、それをこじらせたのだ。以来、小学校3年ほどまでの数年間、中耳炎の「耳垂れ」に悩まされた。体育や運動のときが一番困った。海で泳ぐことも1,2年禁止された。少年時代のもっとも不快で悲しい出来事のひとつだ。

完治して40歳までは何も起こらなかった。その頃、私の両耳の耳垢はぱさぱさ系だった。耳垢にはパサパサ系とねっとり系の2系統があると聞く。
もっとも多忙を極めた成増時代に風邪をひいたことから、中耳炎が再発した。42歳、1992年のことだ。それから成増耳鼻科に半年通う。毎朝、耳鼻科のまだ開いていない扉の前に行列に加わって並ぶことは苦痛というより、手数がかかって面倒くさいものであった。この頃の私はコロンブスアメリカ大陸到達500年の特番を担当していて、共同制作のスペイン側とうまく連絡がとれずイライラしていた。

その耳鼻科にはネブライザーといういささか時代遅れの治療器があった。鼻の両アナに二股のガラス管を差し込む(その姿はおぞましい。まるで手塚治虫のヒョウタンツギになった気分になる)。その管の先には気化した薬があって、それを吸い込むといういたってプリミティブな仕掛け。これを毎回10分ほど受けるのだが、薬の噴出に時間がかかって仕事に遅れないかとヤキモキしたものだ。この耳鼻科の院長は、当時60過ぎの老人(何てことだ。今の私はその老人よりも年長だ)で、最新の医学情報からはやや疎い感じがしたが、治療の方法は確実に治癒に向かうものを採用していたと、今になって思う。

あれから22年。先週、明け方に耳の奥で小さな川が流れた。眠っていたが、目が覚めた。一瞬にして中耳炎を発症したらしいと悟った。そして、週末に打ち合わせに臨んだときだ。突然、鼓膜の上にさらに膜が張られたように音が遮断された。左の耳しか聞こえない。おまけに自分の話す声が反響する。イラついたまま夜中となり、夜が明けて、すぐに近所の医院に行った。家から歩いて1分、近いのがいい。初診の受付をすませて、待合で待っていた。
しばらくして名前を呼ばれた。診察室に入っていくと、今はほとんど見かけないネブライザーが数機ある。珍しいこともあるものだと訝しみながら、院長を見て、思わず失笑しそうになった。何と、90歳にはなろうかという大高齢の耳鼻科医が例の額帯鏡を付けて直立している。「どうかしましたか」優しい声音でつぶやいた。

・・その医者は年はとっても名医だった。私の耳をのぞいて、前に何度か患っていますねと確かめると、綿棒をぐるぐると内耳に押し込んできた。チョー気持ちいい。

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by yamato-y | 2012-10-22 13:22 | Comments(0)

まったく出来ていない

まったく出来ていない

今度の日曜日、10月の句会が開かれる。だがまったく句が出来ていない。手持ちの句は5本ほどしかない。
機関誌が届いたのが今週月曜日のこと。だからてっきり句会は月末だと思い込んでいたので当てが外れた。兼題も秋の朝、顔、子である事を知ったのもわずか2日前である。あわてて句作しても付け焼き刃のものしかできるまい。おまけに今週は泌尿器、鍼灸、内科、歯科に通うことが多く、時間のやりくりがうまくいっていない。

そのくせ俳句の書ばかり読んでいる。宇多喜代子の『名句十二か月』と水原秋桜子の『例解・俳句〜作法辞典』の2冊。そこに掲げられている名句を読んで、うまい表現だなあ、せめて一生にひとつぐらいこのレベルの句が出来たらなあとヨダレを垂らしている。そんな時間があるなら句作しろよと叱咤する声も聞こえて来るが、なかなか実作へと向かわない。

長い句作の間には幾度か倦怠期が来ると、秋桜子は記している。3つのレベルがあるという。1は他人が詠む句が立派にみえて自分のはつまらないと思う時期、2は自分の句も詠めないし他人の句を見ても関心が湧かない、締め切りが来てあわてて句作する時期、3つめは雑誌の投句まで休んでしまう時期とあって、3つめがもっともひどい倦怠期と秋桜子は断罪している。
あちゃー。3つのレベルすべてがあてはまるではないか。

ではどうすれば倦怠期を脱することができるか。秋桜子はそこにまで目を配って『例解・俳句〜作法辞典』を書き上げている。この御仁、単なる野球好きの産婦人科医ではない。
 倦怠脱出の方法として、吟行に同行したり、「できるだけ読書をしたり、展覧会に行ったり、観劇をしたり、映画を見たり、つまり芸術的のものに接する機会を多くして、回復を待つこと」としている。この忠告であれば、ほぼ実践しているのだが、私の場合、本職の繁忙があって実作になかなか結びつかないのではないだろうか。

ところで、俳句の勉強家はどれぐらいのペースで句作するのだろうか。一月に100本ほどかと予想していたらまったく違っていた。
秋桜子はこう宣う。「日課として30句は欠かさない、時には50句をつづけることもある」。一月つづけると千何百という数になるというのだ。今の私の句作の態度とはまさに雲泥の差、径庭である。

波郷の次の句。
冬の夜の皿もならさず兄妹
質素な冬の夜の食事どき。電灯の暗さや食卓の小ささなどが、「皿もならさず」に凝縮されてあると秋桜子は評価する。秋桜子の見事な解釈、読み取り。まさに句作は実作ばかりでなく採択、鑑賞することもあるのだ。そう思うと気が楽になって、今度の句会は出席して採句するだけにしておこうかなと、甘い気持ちも湧いて来る。

こんな切羽詰まった状態のくせに、昨夜は日本映画2本だてに雨中行った。「モテキ」と「テルマエ・ロマエ」の今年話題になった日本映画だ。おおいに期待したのだがまったく当てが外れた。両者とも作品の出だしはなかなか力があるのだが、中程から終盤にかけて構成ががたがたと崩れていく。特に「ローマ」のご都合主義にはがっかりした。チネチッタまで行って、千人近いエキストラを使って、絵作りに凝っているのは分かるが、シナリオがゆるい。この2作ともコミックスをベースにしている。その手法が悪いとはいわないが、もっと映画本位のシナリオで映画作りが出来ないものだろうか。小津はシナリオ作家と共同で、一句一言ずつ書き足しながら絵の構想もねっていったのではないだろうか。などとノー天気に映画ジャンルを批評しながら、自分の作句は目処がたたないという現状。

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by yamato-y | 2012-10-18 08:03 | Comments(0)

元気に死ぬこと

元気に死ぬこと

佐野洋子の最後のエッセー集『死ぬ気まんまん』を読んで、あの[豪傑」でも死ぬ間際の苦痛からは逃れることができなかったのだなと知って、彼女の最期を思って同情を禁じえない。
あるとき、佐野さんは自宅で寝ていて、言い知れない痛みというか苦悩というか、サムシングな鋭いものが出現して、半日洋子さんを苦しめる。その出来事をかなり微細に描写している。この苦痛のなかにあって、悪さの動きをしっかり見据えてもいるのだ。さすが洋子さん。恐がりだとか小心とか、謙遜してこれまでも記しているが、5回ほど、生佐野洋子と対面した経験からいうと、けっしてそんなものなど持ち合わせていたとは思えないから、この病中の痛み直視の振る舞いは、おおいにわかる。

余命もきまっていて、入るホスピスも決めていて、死ぬ気まんまんの洋子さんですら、最後の段階でモルヒネなどで紛らしてもらうほどの痛みがあると知ると、死ぬのが恐い。死ぬまでが恐い。

3年前、母が死んだときのことを思う。死ぬ1週間前あたりから、母の人格が変化した。普段の穏やかで話し好きの人柄から荒々しい苛立った振る舞いをするようになった。「わたし、死ぬのかな。まだ、嫌や」という悲しい抗いの言葉を呟くのが精一杯になっても、呟き続けた。死にひるんだかのように見えた母が、時折、それまでの恐怖の表情が失せて、神の恩寵を感謝する言葉を発した。「こうして、最後の時間が与えられたのも、神様のお恵みなんやろ。何か意味があって、こうして試練が与えられたと思います。それを忘れて、死にたくないと叫ぶ私はなんと信仰の薄いものかと反省します」
といって、母はベッドに正座して、祈りの姿勢をとるのであった。

 本日は秋晴れだ。日がさんさんと降り注いでいる。もくせいがかすかに匂っている。こんな秋の日に、実家の縁側で洗濯物を干す母と会話を交わしていた5年前のことが思い出される。

『死ぬ気まんまん』には、築地神経科クリニックの平井辰夫理事長との佐野さん対談が収録されている。その中で佐野さんは「本当に元気で死にたいんですよ」と語っているのが印象的だった。
そこで、大江光さんの逸話を思い起こした。大江健三郎著『いかに木を殺すか』のなかに描かれている場面。四国の村へ遊びに行った光さんが、帰りがけに祖母に語った言葉、「元気を出して、しっかり死んでください」語られた情況は、佐野さんと光さんの境遇の差だけ違うのだが、ふたつの言葉に宿っている「ゆるやかに輝く希望」がまぶしい。

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by yamato-y | 2012-10-15 11:48 | Comments(0)

2050年

2050年

山手線の中吊り広告に、「2050年の日本は人口が3千万減少」とあった。
2050年とは、私が102歳。とても生きてはいまい。だから関係ない話さと打ち捨てたいが、ちょっと気になる。こどもらがちょうど老年をむかえる時期なのだ。

団塊が65の関門を越えて、ついに日本は高齢化社会に突入した。急速に社会は少子高齢化していくだろう。分厚くなった老人層は、これまでの老人像とは違う種族が登場してくるにちがいない。きっとミック・ジャガーのような尖がった老人が増えるにきまっている。
いつまでも現役と勘違いしたままの、厄介な老人もまた出現する。いつまでたっても、1980年代の成功体験が忘れられず、「俺の若い頃は・・・」とすぐ自慢話を始める奴だ。
 そして老人となれば当然ボケと病気がどさっと襲ってきて、介護や看護の対象とならざるをえない人たちがかなりの数で発生してくる。発生だなんて、ハエやゴキブリのような表現だが、おそらく他世代から見れば、老人団塊世代はそういう災厄に見えるのではないだろうか。そういう病の苦しみから解放してくれるような新薬が、その頃は誕生しているだろうか。ヤマナカ博士に聞いてみたい。

 元の話にもどれば、2050年には3千万人口が減少しているというのは、団塊が消えたということではないか。2030年でも2040年でもなく、2050年に至って、やっと団塊のうるさい奴らがいなくなったという本音が聞こえてくる。
 しかし、しぶといなあ。あと38年も団塊世代は生き抜いて、その影響を残そうとしているなんて。

 この隊列に入るのは御免蒙りたい。
 
 老兵は死なず消え去るのみ。後世は後生に任すべし。
あのナカソネ元首相の老醜を、われら団塊はけっしてくりかえしてはならぬ、おのおの方。

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by yamato-y | 2012-10-11 12:13 | Comments(0)


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