定年再出発  


懐かしい空
by yamato-y
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みちのくの空の下で②

南三陸町

 陸前高田は三陸のリアス海岸のなかでも稀な広い平坦地がある。気仙沼方向から街へ入って行くとすぐに「奇跡の一本松」が目に入る。
街全体を眺めようとすると造作ない。遥かかなたまで一望できる。何もない。ただ白茶けたがれきの原が延々とつづく。おそらく事故後に作られたと思われる取り付け道路が、がれきの原のど真ん中を貫く。スピードをあげて道の奥まで進む。1本松エリアにまばらな人影が見えるだけで、あとは見事にノッペラボーだ。子供の姿はもちろん年寄りすらいない。とにかく人はいない。街にはおそらくかつて賑わいを見せたであろう繁華なエリアもあるが、すべて崩れて、夏の暑い日差しを浴びて白く光るのみ。はじめて恐怖が身内から湧いて来る。

 結局、高田ではどこへも寄らず車から廃墟を目撃するのみ。街を出て、再び南下した。この日の宿のある南三陸町をめざした。陸前高田は岩手県、気仙沼、南三陸町は宮城県となる。2時間ほど山沿いの自動車道を走った。
 南三陸町。2005年に志津川町と歌津町の合併によって町は生まれた。町内には気仙沼線の駅が5つほどあるそうだが、私らは歌津地区にまず入った。ここも見事に町が壊れていた。山陰にある歌津駅も線路がもぎとられ、駅舎も半壊。その下方に広がる町はまだ壊れた家々が重なって放置されている。ある住宅の鉄筋の杭が残る場所に子供のおもちゃのようなものが数点置かれてあった。そのそばに金の腕時計がこれまた供養のようにして供えられてある。高価なものと思われるが、誰もとっていかない。それらの「遺品」が夏の夕方の陽を浴びてころがっている。ただそれだけのことだが、胸うちを鷲掴みされた気がする。

 その夜、三陸町の山間にある泊崎荘に宿泊した。泊まり客はほとんど復旧工事の関係者。和室の家族用の部屋で寝たが、夜中に目が覚めた。
窓を開けて、昼間歩いた歌津のほうを見やる。黒い影しかないが、何か訴えてくるようなものを感じた。眼下の海の潮騒がいちだんと大きくなった。

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by yamato-y | 2012-08-30 09:49 | Comments(1)

みちのくの空の下で①

気仙沼市

2泊3日で、東北の被災地を巡察してきた。実質にはまる2日で気仙沼から陸前高田、南下して陸前高田、南三陸町、石巻、松島、仙台というルートを駆け抜けた。
地震発生から1年半経過して、どういう風景になっているのか、人々の暮らしはどうなっ
ているのか、仕事が一段落したのをシオに岩手、宮城の2つの県域を歩いてみることにした。

1日目、仙台まで新幹線で行き、仙台の空港レンタカー案内所で大阪伊丹空港から飛んできたS先生と合流した。ひとまず東北自動車道をとおって一ノ関まで出向く。
2日目、この一ノ関の駅で、後発参加のY君と合流して、彼の運転で、三陸海岸部の中心地気仙沼をめざした。山間地とはいえ、道路はよく整備されている。田んぼには稔りをむかえた稲が微風に静かに揺れている。

最初に訪れた気仙沼は思ったより明るい雰囲気があった。月曜日で車や人が動いていたこともあるのだろう。町のあちこちには倒壊寸前の家や空地が目につくのだが、フシギと暗さがない。廃墟のなかにも小さな活気がどことなくみなぎっているように感じられた。当方の勝手な思い込みだろうか。

気仙沼は入江が深く、海のそばまで山が迫る良港。沿岸部の平地は凄まじい力が走りぬけたあとがあちこちにあったが、周辺の山や丘には建物はそれなりに無事で残っている。そのことも、町にざわめきを残させている理由のひとつかもしれない。

仮設のマルシェ、紫南町商店街。この南町界隈にあった店舗50あまりがプレハブの店の軒を連ねている。なぜ紫という単語がついているのかというと、すぐ近くの山上に紫神社というのがあって、津波襲来のとき、おおぜいの人がそこまで走って避難して助かったということから紫の言葉を冠にしたそうだ。この話を、昼食をとったすし屋の花板さんから聞いた。その人が言うには前どおりの営業をするまでにあと3年はかかるだろうなあというため息。
 驚いたのは被災地見学者の団体がバスで続々訪れていることだ。百人二百人という団体が商店街へ来て消費している。少なくとも紫市場にはネガティブな気配は少なく、そこに住む人たちにも笑顔があった。だが、町を離れて山間部の仮設住宅に暮らす人たちの声を聞いたわけではないから、軽々の判断はできない。

気仙沼の海岸沿いを行くと、大きな貨物船がどかんとある。津波の威力を示すかのようにして幹線道路の脇に鎮座してある。船の真下にはまるで祭壇のように花束やお菓子の箱が積まれてある。悲しみはなく、フシギなユーモアさえ漂っている。
気仙沼の市街地をあちこち視察するとき、破壊の凄まじさにはショックを受けたものの人間の苦悩、悲哀というものが見当たらなかったし感じもしなかった。

ところが、北上して隣の陸前高田の荒涼たる風景を見たときは、声を失うことになったのだ・・・。

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by yamato-y | 2012-08-29 13:06 | Comments(0)

水位

批判的ナショナリズム

 昨年の3/11をのぞいて、日本および日本人は21世紀をなんとなく微温的に過ごして来たのではないだろうか。欧州経済危機や中東のビロード革命のことなど対岸の火事のようにして見てきたのではないだろうか。だが、このひと月ほどは東アジア情勢がかなり緊迫してきて、きな臭くなってきたように思われる。オリンピックで高揚した民族主義がナショナリズムをすこし後押ししているかぐらいに見ていたのだが、どうも看過できない水位にまで日中韓各国のナショナリズムが来ているようだ。

 日中の間に横たわる問題は脇に置いて、当面は日韓の関係に焦点が集まるだろう。今朝も総理大臣の所感が発表されるというニュースが駆け巡り、どんな見解を打ち出すのか関心を集めている。
 昨日の国会で質問に立った自民党の代議士の口ぶりはどこかで聞いたことがあるようだと思いめぐらしたら、戦前にしばしば使われたスローガン「暴支膺懲」のニュアンスだったのだ。暴戻な中国を懲らしめろといったぐらいの意味だろうか。むろん、戦後生まれの私とてその言葉をリアルタイムでは知ってはおらず、ものの本や歴史書で読んだぐらいだ。が、あの暗い谷間の時代のグロテスクな言葉が実感をともなって復活していることに危惧をもつ。

 歴史学の成果を身につけたい。「ヘテロトピア」ということを考究してきた歴史学者上村忠男の意見に耳を傾けたい。
あるひとつの文化の内部に見いだされる他のすべての実在する場所を表象すると同時に異義申し立てを行い、ときには転倒してしまう「異他なる反場所」を指す言葉「ヘテロトピア」。歴史の反場所に立って、歴史を見ることの大切さを上村は説いている。歴史の異他性、ヘテロロジーと上村は称している。

さしあたって、現在の日韓の問題であれば、どういう地がそのヘテロトピアにあたるのだろうか。
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by yamato-y | 2012-08-24 09:19 | Comments(0)

映像の”慣用句”

クリシェ

連続テレビ小説「梅ちゃん先生」を見ていて、映像の慣用句的使用が気になった。
昭和30年代のテレビ普及の時代相を描いた場面だ。近所の人たちがテレビを買い入れた食堂に集まって、その頃はやったプロレス中継に夢中になるという場面の設定、絵造り。まったく映画「3丁目の夕日」と同じであることに、自分自身もついやってしまう映像の「常套句」の危うさを思ったのだ。

 テレビが普及しはじめた頃のキラーコンテンツは力道山が活躍するプロレス中継で、街頭テレビにはおおぜいの人が押しかけ、食堂など公衆が集まる場所に設置されたテレビに人々は夢中になったという言説を映像化したものだ。
8年ほど前に力道山のドキュメントを作ったことがあって、そのときに私自身も街頭テレビの場面の絵造りを同様のものにした覚えがある。有楽町に設置された街頭テレビの当時の責任者までインタビューして、その言説の正当性を描きたてたものだが、今となって振り返ってみるとどこか嘘くさい。

 あの当時、テレビ現象の大きさでいえば、プロレスより西部劇だったのじゃなかっただろうか。テレビが始まってもコンテンツが不足していた日本にとってハリウッドの西部劇テレビドラマがもっとも効率がいいと多用されていた。「ボナンザ」「ララミー牧場」「ライフルマン」「ガンスモーク」「拳銃無宿」「ローハイド」、ざっと思い出すだけでも5つ6つ出て来る。ララミー牧場のロバート・フラーが来日したときのファンの大騒ぎなどは後のペ・ヨンジュン現象と匹敵するほどだったが、今や誰もそう言わない。

 高度成長時代の慣用句は新幹線開通と多摩団地の開発造成の映像がもっとも有名であろう。新幹線が線路を驀進する仰角ショット、多摩の造成地をヘリコプターから見下ろす俯瞰ショットはしょっちゅう使われる。
 さらに1970年という節目の時代は、大阪万博オープンの風景と日航機のっとりの離陸シーンだ。他人事として批判するわけにはいかない。この映像の慣用的、常套的使用は多忙であるとついついやってしまうのだ。
たえず意識を覚醒させておかなければ、オーディエンスはもちろん作り手もドグマに陥る。


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by yamato-y | 2012-08-21 07:40 | Comments(0)

夏の朝の海

最後の海

 日曜朝、6時に起きて大磯の浜に行った。タオルと水のペットボトルだけ携えて海水パンツのままの海行きである。
ツヴァイクの森には夏の朝の光が差し込みきらきらしていた。なんとなく森が荒れている気がするのは、イノシシ出没の張り紙のせいか。
春先からイノシシが出て草を刈ったり捕獲網をしかけたりしたので、森のあちこちが様変わりしている。
金子みすゞの詩がある。
  このみちのさきには、
  大きな海があろうよ。
  はす池のかえろよ、
  このみちをゆこうよ。

このみちは私の場合ツヴァイク道になるのか。かえろとはかえるのこと、念のため。

 家から浜まで徒歩15分。汗をかき小走りで海まで出るとすっかり体はウォーミングアップしている(まるで他人の身体を見るようだ)。6時半の浜辺にさすがに人は少ない。
朝の波に乗ろうとするサーファーたち10数名がいるだけで、海水浴場には人気なし。監視の見張り台の真下に荷物を置いて簡単な準備体操。
前の晩から海に入ることを決意していたので体には精気がみなぎっている。

 朝の光が海面に反射してまぶしい。大磯こゆるぎの浜は遠浅でなく膝下からすぐどぼんと落ちる。そこを越えると腰ほどの水量となるが波がうねってくる。周りに人がいても結構水難に出会いそうな海だ。慎重に体を沈めていった。水の冷たさが心地よい。平泳ぎで10メートルほど泳いでみた。腰が浮くと体がすっきりする。背筋がすっと伸びた気がするのだ。
 
 去年の海でもこれが最後だと思ったが今年までたどりつくことができた。来年もなんとかなるかなあと楽観しながら仰向けにぽかりと浮かんでみた。
夏の空と思っていたが、端のほうに秋のすじ雲がひっそりあった。もうすぐ二百十日がやって来る。
 滞水時間20分。さくっと海から上がり濡れたからだのまま家をめざす。
7時を回って、人々が家から出てきた。一日が始まるぞ。

岩波書店の小林勇翁は70近くまで鎌倉の海で泳いだと自慢していた。彼の場合は本格的な水泳だから敵いっこない。こちとらはぼちぼち行けるところまで挑むことにしよう。

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by yamato-y | 2012-08-20 10:07 | Comments(0)

仕事三昧

仕事三昧

大事な8月15日も仕事で終われた。9月2日の番組「吉田隆子を知ってますか」の録音が終日続いた。
朝11時からメインの語り、午後4時半から主人公の日記の朗読の収録。
朗読はあの奈良岡朋子さんにお願いした。奈良岡さんといえば劇団民芸の大幹部にして大ベテラン。映画「釣りバカ日誌」では鈴木社長の賢婦人として名演技を見せてくれている名優でもある。

個人的には、向田邦子ドラマの朗読版「かわうそ」での名朗読がとても気にいっている。

その奈良岡さんがなぜ今回の番組に出演していただいたかというと、それなりの理由がある。
実は、主人公の吉田隆子さんに奈良岡さんは出会っているのだ。

隆子さんは戦時中結核になり寝たきりとなった。苦しい4年間の闘病を送っている。ところが、敗戦となって日本が民主化されていく時代になると、その病が少しずつ癒えていった。昭和22年になると、戦前の作曲活動の水準まで健康が恢復した。

 隆子さんの伴侶である劇作家の久保栄は、後の劇団民芸の母体となる新協劇団の幹部として活躍しはじめていた。久保の代表作である「火山灰地」を民芸が公演することになる。その芝居に奈良岡さんは新人として出演していた。その縁もあって、奈良岡さんは民芸幹部の宇野重吉に連れられて久保の自由が丘の家を訪問している。そのとき、久保のパートナー吉田隆子の形影に奈良岡さんは触れた。その印象を番組のなかでも語っている。
 そういう縁もあって、奈良岡さんにお願いした隆子さんの戦時中日記の朗読である。このパートは長くはないが番組の根幹を担う。

戦時下、吉田隆子が闘病しながら、音楽への情熱をかきたてるという、番組の肝の部分を奈良岡さんの朗読で表現しようと企図したことは大成功であった。実に自然にして説得力のある読みを奈良岡さんは見せてくれた。番組をご覧いただきたい。

このナレーション、朗読の録音に8月15日はすべて費やされた。終わって、帰宅してニュースを見ると、竹島とセンカクの問題が大きく取り上げられているのを知った。


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by yamato-y | 2012-08-16 16:27 | Comments(0)

メールボックス

メールボックス

 現役終了まであと半年となった。
転勤の多い仕事だったから50歳までは4、5年ごとに職場を移っていたが、今の部署へ来てからは部内移動が一度あっただけで、15年ほど変わっていない。専用のめーるボックスもずっと同じものを使っている。

 50代の頃には、毎日ボックスには溢れんばかりの手紙や書類があったものだが、ここ数年はめっきり減った。変わらず届くのは映画の試写会の案内とプロダクションの番組案内ばかり。知人、友人の手紙や連絡はほとんどなくなった。友人の多くは65歳の年金生活者となり、仕事での連絡が必要でなくなったこともあるだろう。知人の多くは仕事を通じての関係だから、制作する番組の本数が減れば、いきおい連絡事項もなくなるのだろう。

 メールボックスの底に年賀はがきが数枚溜まっていた。そのうちにシステムノートの住所録に写し替えようと残しておいたものだ。送り主の名前を見ながら懐かしい思いにかられた。そろそろこういう遺物も整理しておかなくてはなるまい。

 今使っているシステムノートは表紙のところがすり切れて来た。広島時代から使っているからかれこれ18年になる。住所録の欄などは鉛筆書きしたものは字が消えかかっている。数年前に買い替えようと思ったが、買い替えの面倒なことや愛着があることもあって放置したら、とうとうオンボロノートになってしまった。
 コンテンツの日記は年々替えていて、歴代のものは別途保管してあるのだが、住所録やパソコンのパスワードを記したページなどは15年間そのままである。
 当時繁く会ったり連絡をとったりした人物の名前が住所録に消えずにある。たしか藤沢に住んでいて、当時の会長と縁戚関係だという触れ込みでいろいろ頼まれごとをしたものだ。だが件の会長が失脚したあとは会社に出入りすることもなくなり付き合いが絶えた。偉そうな物言いをする人だったがどこか憎めないものも持っていた。どうしているかなあ。

 整理といえば、一番大きなものは番組資料。大半は整理して必要最小限のカタチにしてファイルしてあるが、「冬のソナタ」に関するものだけは”生”のまま箱詰めにして地下の倉庫に保管してある。これの処分をそろそろ考えないといけないだろう。いわゆる冬ソナブームが起きる前のユン監督や役者たちの資料で、いつかまた使うこともあるのではと思って後生大事に保管しておいたのだが、私がいなくなれば価値も分からないままになろう。段ボール箱にして3つか4つあるはず。


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by yamato-y | 2012-08-15 07:43 | Comments(0)

桜姫東文章

多事多忙のなかの観劇

日曜日。新橋演舞場で八月花形歌舞伎を見た。「桜姫東文章」の通し狂言を堪能した。とにかく長い。
朝11時に開演して終わったのが午後3時過ぎ。途中、休憩を2,3回挟むとしても長い。
鬼才、鶴屋南北の世界をたっぷり味わった。

 夜の江ノ島、稚児ケ淵。清玄と稚児の白菊丸が心中を図ろうとしている。男同士の愛だが、死んで今度生まれ変われるなら女になってもう一度清玄と添いたいと白菊丸は一途に願う。二人はそれぞれ相手の名前を記した香箱の蓋と身を分け持って、海に飛び込もうとする。白菊丸は飛んだが、清玄は気後れしてしまう。

吉田家の桜姫が仏門に入りたいと申し出た。理由を話せといっても口をつぐみ、ただ剃髪して清玄和尚の弟子入りすることだけを望んでいる。心中から17年、清玄は修業して大阿闍梨になっている。
桜姫は生まれながらに開かぬ左手をもち、このようになったのも前世の宿業だと諦めている。おまけに父吉田少将が暗殺され、弟梅若も非業の死をとげた。家宝の都鳥の一巻も奪われた。いろいろなことが重なって、桜姫は尼になることを所望している。
そこで清玄が願いを聞いて十念を授けると、姫の左手が開く。なかから香箱の蓋が現れる。白菊丸が握って死んだあの蓋だ。吃驚仰天。姫の年齢を問えば17歳。清玄は桜姫が白菊丸の生まれ変わりだということを悟るのであった。
 吉田家の御家騒動に絡んで、さまざまな男女の愛欲が絡んで発展する物語。荒唐無稽、眉唾物、絵空事といったら身も蓋もない。このゴシックロマンこそ南北の骨頂なのだ。流石、「四谷怪談」の作者だ。

 昨夜8月13日の読売夕刊に劇評が出ていた。〈福助の桜姫が良い〉と褒め、海老蔵は濡れ場での男臭さが出て悪の色気が発散されていると評価している。そうかなあ。海老蔵はともかく福助には異論がある。口跡が悪く聞き取りにくい。後段で、女郎に零落した桜姫が、姫言葉と女郎言葉を交錯して話す面白さも福助の聞き取りにくい声で盛り上がらない。濡れ場のおつなセリフも切れ切れで味気ない。それに引き換え海老蔵の台詞回しははろばろとして心地よい。ただ福助の外観の美しさは流石ではあるのだが――。つまり、海老蔵と福助が並べばビジュアル的には絶景ではあるのだが・・・。

 三囲神社の夜の場面の肌寒さ、新清水の桜狩の絢爛、雷門の爽やかさ、とこの芝居の見所はあちこちにあって退屈しない。久しぶりのグランド歌舞伎にすっかり参った。

 本当はお目当ての海老蔵が主役を張る「伊達の十役」を見たかったのだが、今回は諸般の事情からパス。次のお楽しみにとっておくことにする。
ということで、ナレーション作りに追われる多忙のなかで、一日頭を空っぽにして楽しんだ歌舞伎。そこいらのハリウッド映画なんかじゃ絶対に味わえない芝居の醍醐味が満載であった。

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by yamato-y | 2012-08-14 16:34 | Comments(0)

戦争・音楽・女性

忍ぶ草〜ある音楽家

 今年も夏休みをとれないまま秋となりそうだ。去年の今頃は杉本文楽の撮影、編集で追われ、あまりの忙しさで秋口には胸部に帯状疱疹が出るありさまだった。

 昔から夏場は多忙ときまっているのも、長崎、広島の地で番組作りをやってきたせいだろう。世の中では、8月になると戦争だ原爆だと思い立つようにマスコミは騒ぐと揶揄して、「8月ジャーナリズム」とラベルを張るが、やっている身としてはこんな多忙なことを年中やっていたら身がもたないといいたい。
とにかく戦争、原爆関連のドキュメンタリーを1本制作するのにどれほどの労力がかかるか、なかなか分かってもらえない。
 愚痴を言うつもりはない。戦争・原爆関連の番組を作ることは誇りに思っている。
今年も、というか現役最後の夏もやはり戦争関連番組を作ることになった。

 題して「吉田隆子を知っていますか〜戦争・音楽・女性〜」。本来8月中の放送予定であったが、沖縄関連番組が2本入ったので、9月に押し出された。
 9月2日、夜10時から Eテレ
 その作業がようやく終わりをむかえつつある。昨日、ナレーションのコメントが最後の「直し」で、一本の完成稿になった。本日、その原稿が語りである福井アナウンサーにわたり、明日ナレーション入れ本番となる。

 吉田隆子さんの存在を知ったのはまったくの偶然だった。4月頃に渋谷毅さんのコンサートへ出かけたとき、会場で渋谷さんの妹さんからいただいた展覧会の案内のなかに、数行戦前から戦後にかけて活躍した女性作曲家、指揮者の吉田隆子という名前を見つけたことから、番組作りが始まったのだ。今でも男性中心の音楽界、ましてや戦前は女性の活動する場がなかなかなかった。そこで隆子さんは自ら楽団「創生」を結成して4回にわたってコンサートを開いている。彼女は自らタクトを握って指揮をした。その出で立ちは断髪で黒のスーツにボウタイをした男装で、さっそうと壇上に現れたのだ。その写真が残っている。

 第4回の最後のコンサートではロシアの優れた作曲家ムソグルスキーの楽曲をいくつも紹介した。ムソグルスキーの音楽は民衆のくらしや心を描いたものが多く、隆子さんはそういう身近なもののなかの美というものを顕彰しようとした。1939年のことである。

 おりしも時代は戦争へ向かっていた。総力戦のための体勢固めで特高警察が暗躍。隆子さんは4度も警察に引っ張られ勾留される。最後の逮捕では5ヶ月も警察に留置され取り調べを受けた。元来、体の丈夫でない隆子さんはついに結核性の腹膜炎を起こし、自宅へ送り返される。以後、彼女は床につくことになった。

 半年後、真珠湾攻撃でアジア太平洋戦争が勃発。昭和20年8月の日本降伏までのおよそ4年間、隆子さんは病床にあって、苦しい闘病生活を送る。そういう状態にあっても、彼女の周りには特高の厳しい目が光っていた。その監視の目をかいくぐって書かれた隆子さんの日記があった。そこには音楽をやりたいという思いがせつせつと綴られていた。今回、その日記の感動的な文言を紹介したいと考えている。その日記の朗読は名優奈良岡朋子さん。実は、奈良岡さんは若い頃吉田さんと出会っているのだ。その不思議な縁も番組でごらんいただきたい。

 さらに、46歳の若さで死去する半年前に発表したヴァイオリンソナタ・二調が現役の素敵なヴァイオリニストによって再演される。東京交響楽団、ソロ・コンサートマスターの大谷康子さんだ。9月2日(日)、夜10時からの番組をごらんいただきたい。

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by yamato-y | 2012-08-14 10:19 | Comments(0)

記憶継承

記憶継承

 67年前に起きた広島原爆の惨劇。実際に体験している人たちの平均年齢が78歳を超えたという。あまりに高齢化した。現在生き残っている被爆者で体験を証言する人たちの大半は、あの当時就学以前の幼児だったのだ。

ニュースで二人の被爆者が紹介された。ひとりは、折鶴の禎子さんの兄佐々木雅弘さん(71)、もうひとりはベルリンの日本大使館で被爆の体験を語った映像作家の田辺正章さん(74)だ。
原爆が投下されたとき、佐々木さんは4歳、田辺さんは8歳。物心がつくかつかないかの年齢だ。これぐらいの世代が被爆体験を語ることができるだろうか。案の定、田辺さんのスピーチの大半は戦後の過酷で残酷な被爆者の暮らしを中心に語っていた(ようだ)。

実際に体験した人ですら、年少者の証言は危ういものになりがち。ましてや、戦後生まれでまったく体験していない者が「代理」として証言することもある、広島市の伝承者養成事業というのはどれほど意味があるものになるのだろうか。

この事業を批判して廃案にしたいわけではない。たしかに被爆1世が次々に世を去っていく今日、生々しい口述の被爆体験が消えていくことは重大な喪失であり、座して傍観することはできない。



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by yamato-y | 2012-08-07 12:09 | Comments(0)


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