定年再出発  


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by yamato-y
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小松左京を宇宙へ送り出す会

小松左京を宇宙へ送り出す会

 29日午後1時半から、ホテルニューオータニの鳳凰の間で、小松左京を宇宙へ送り出す会が盛大に行われた。大広間に参集したのは500人を下るまい。交友のあった編集者や作家たちだから年配の顔が大半であったが、若いSFファンもちらほらいた。会場には小松さんをしのぶ写真や著作が展示してある。中学時代の写真にはラグビーで神戸大会で優勝していた姿があった。京大文学部に進学して、あの高橋和己らと同人誌をやっていた頃の写真もある。

冒頭のあいさつは、漫画家の松本零士さん。続いて、臨終に立ち会った民族学者の石毛直道さんが、小松さんらしい死であったことを報告。感銘深いお話だった。そのあと、スクリーンに旧友の桂米朝師匠が登場。「もうすぐ行くから、そんなに待たすことになるまい」と暖かい弔辞を述べていた。全体に偲ぶ会独特の湿っぽさがまったくない、いい会だった。

 この会でお会いしたい人がいたのだが会場が広すぎて分からない。そこへ石川喬司さん。日本SF作家クラブの第1世代で、小松さんの盟友だが、まったく年齢を感じさせない。いつもの温順な姿に安堵した。星新一、小松左京が逝った今、日本SFの黎明期を語るのは石川さんと筒井康隆さんしかいないだろう。前から、先生の回顧録を記録したいと願っている。

松任谷由美さんの姿もあった。この席上にはどうして参加しているのですかと質問すると、昔映画の主題歌を担当したことがあってという返事。SFはお好きですかと振ると、「ええ、好きです」と楽しそうに答えた。誰も、彼女の存在に気づいていないようだ。単独の取材でユーミンの謦咳に接することが出来たのは幸運だった。

 小松さんを宇宙に送り出すイベントが、スクリーンのうえで始まった。映像で小松さんの魂を乗せたロケットが宇宙空間へ飛び出していく。いろいろな映像がコラージュされているのだが、冒頭の晩年の小松さんの映像はどこかで見たことがある。それもそのはず、私の作った「21世紀を夢見た日々~SF作家クラブ50年」のなかから引用と、テロップが出た。私にとっても思い出深い番組。結局、小松さんのテレビの取材はあの番組が最後となったことになる。車椅子暮らしになっていたが、明晰なSF文化論を展開した。往年のデブっちょがしぼんで哲学者のような風貌になっていた。親友の高橋和巳と並んでも遜色ないシリアスな面差しだったことが忘れられない。この番組は、ポップカルチャーを論じたETV特集の名作だと自画自賛。

 3時過ぎ、賑わう会場を後にした。

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by yamato-y | 2011-11-29 17:17 | Comments(0)

寒いといっても、この程度ぐらい

寒いといっても、この程度ぐらい

朝の瞑想の前、ベランダのガラス戸を開ける。冷気が入って来る。少し寒いが、それよりも爽やかさのほうが大きい。
小学校の頃、12月初旬ともなれば霜が降りていた。霜をぐちゃぐちゃつぶして登校したものだ。低学年のときはまだ足袋を履いていた。下駄と足袋で学校に通っていたのかな。記憶があいまいだ。
あの頃は寒かった。朝8時過ぎに教室に入ると、まっすぐストーブの前に走って行った。柵の前に椅子を並べてわいわいおしゃべりをしたものだ。担任が回って来て、「子供は風の子」と叫んで、校庭で走って来いと指示する。仕方なく、足袋を脱いで、冷たい廊下を走りぬけ、さらに冷たい大地に足裏を置いた。飛び上がりたいほど冷たい。
だが、それも5分も経てば、みな鬼ごっこで走り回っていた。

今はサッシの窓になっていてすきま風など吹かないが、あの頃は自宅も学校もどこでも隙間風が吹いた。これが寒さをいっそうつのらせたものだ。むろん、子供はお湯など使えない。朝の顔を洗うときの寒さ、冷たさは忘れられない。
前の晩にランドセルに入れる教科書などの道具合わせをしておけと親からいつも言われていても、いつも朝の慌ただしいなかでやった。
案の定、忘れ物はしょっちゅうだった。いつか、非番の父が私の忘れた教科書を届けにクラスまで来たとき、廊下に立たされている私を見て、何も声もかけず回れ右をして帰った。その夜、夕食のあいだ、ずっと小言というか苦言というか、説教をくらう羽目になった。

電気ごたつはまだなかった。やぐらこたつを使用していた。夕飯が終わると、火鉢の炭をこたつのやぐらに移し替えが行われた。宿題は寝床に入ったままやった。だから最後まで達成せず、途中で眠り込むこともたびたびだった。割り算の計算が苦手。特に「余り」を出す方法がなかなか理解できず、いつも後回しにした。その空白の割り算を残したまま登校する。学校までの寒い道のりのなかで、先生にまた叱られるのだと思うと憂鬱だった。かといって、ずる休みをして家にいることなんて考えられなかった。友だちと野球をしたり肉弾をしたり、水雷艦長をしたりすることがめっぽう楽しかった。


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by yamato-y | 2011-11-29 09:19 | Comments(0)

偉大な女優

偉大な女優

最近、高峰秀子とか池部良といった映画全盛期のスタアが書いた自伝をちょくちょく見かける。ここ1,2年のうちに物故したこともあって回想の手がかりとして重宝されているのかもしれないが、この二人の知性は端倪すべからざるものがあって、彼らの著作を読んで損をしたということはない。
数年前、この二人に密かに出演交渉したことがある。正式なルートではなかったが、回顧録を撮らせてほしいと依頼したのだが、お二人ともそのつもりはないと至極あっさり断られた。こちらもあっさり諦めたのは、まだ当分はいいだろう、そのうちに撮ればいいとあまく考えていたからだ。だが相次いで亡くなり、享年を調べて、しまったとホゾを噛んだ。高峰は86だったし、池部は90を超えていた。元気そうに見えても、何時逝っても不思議ではない黄金の年齢であったという当たり前のことに、“事後”気がついたのだ。(番組制作者は事前に予測を立てるのがプロ)

高峰が31歳のときに書いたエッセー『まいまいつぶろ』が、11月25日に復刻されて出た。ほやほやの本だ。のちに名エッセイストとして名高い高峰だが、若書きのこの文集はものの考え方、表現が幼い。意地悪くいえば、スタアとしての気取りがあって、彼女の俗物性が正直に反映されているから面白い。51歳のときに記した『わたしの渡世日記』ぐらいになると、古だぬきになった大女優の開き直った感懐がどかんとあるので圧倒されてしまうが、この『まいまいつぶろ』はちょっとセンチで自意識過剰な人気者がきどって語っているので、読者のほうはとっつきやすい。
『まいまいつぶろ』は高峰本のなかではやや評価は低いと見るが、なかで黒澤明との恋を告白した部分は見逃せない。
昭和16年というから太平洋戦争が勃発した年にクランクインした映画「馬」の撮影のなかで恋心は育まれた。東北の農村を舞台にした馬と少女の物語。3年かけて馬と少女の変化もとりこんだ劇映画が作られた。監督は山本嘉次郎。助監督に黒澤明がついた。実際の東北ロケにはほとんど黒澤が随行した。17歳の高峰は異性として初めて惚れた。
≪わたしはまだ少女だったけれど、黒澤さんにお嫁さんにもらってほしいとその時思っていた≫と、高峰は書いている。5歳のときから子役として大人にまじって働いてきたこまっちゃくれた少女が、はじめて胸に灯をともす出来事だった。彼女はホントノコトと記している。だが、この恋は破れる。
≪いろいろの理由で、結婚はだめになってしまったが、あの時ほど私の気持ちが若く純粋だった事はない。≫こんなに率直に書く高峰秀子がいたのだ。

この本の気にいらないのは、復刻編集をしたのが養女と称する女性編集者がちょろちょろ顔を出すことだ。あれほど禁欲的かつ自省的にディーセントに生きた高峰が、なぜこういう女性を晩年に養女として認めたのだろう。詳細は分からないが、関係性のなかで一点どうしても許せないのが、高峰のことを「かあちゃん」と呼ぶことだ。はたして、この甘ったれた表現を書物などで公開されるようなことを、高峰は望んだのだろうか。よしんば高峰が認めたとしても、個人レベルでのことであって、彼女の公の顔を示す著作に用いるものでないと、思う。

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by yamato-y | 2011-11-27 17:48 | Comments(0)

ゆずの季節

ゆずの季節

ダイニングテーブルにゆずが2個ころがっていた。実家の裏庭を思い出した。立派なゆずの木があって、この季節になると枝もたわわに成ったものだ。父がなくなって、母だけでは処理しきれず、木になったまま木枯らしを受けている風景が2000年の頃から続いた。
たまに帰省すると、風呂はゆず湯だった。20個ほど湯に浮かぶ贅沢な湯だった。しわしわになったゆずを手にとって匂いをかぐ。こどもの頃を思い出したものだ。風呂からあがると、夕食は鍋。薬味にふんだんにゆずが使ってあった。

明け方に母の夢を見た。顔も姿も見えないのだが、母がせっせと働いている気分だけがあった。
17年前に死んだ父は遠い存在になったが、2年前の母はまだ生きている気がする。田舎に帰れば、「おかえり」といって家の奥から迎えに出てきそうな気がする。

父を失ってからの17年、母はどんな想いで暮らしていたのかと、最近詮索するようになった。生まれた近江の大津に帰りたかったのではないか。雪とみぞればかりの北陸の冬から離れたかったのではないか。幼なじみが待っている上平蔵町のあの路地に戻りたかったのではないか。

久しぶりに母の歌集を読む。
友と別れ暮れゆく比良の山脈を眺めつつ思ふ過ぎし五十年

湖西線で京都から敦賀に向かう時、比良山系が連なる堅田あたりで、初雪で冠雪した峰をながめることがある。峰のどこかに在る母の気配。

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by yamato-y | 2011-11-26 08:14 | Comments(1)

忘れられない

忘れられない

昭和49年のことだ。朝のテレビ小説で、「鳩子の海」というのがあった。
山口県の山陽道である女の子が保護されたことからドラマは始まる。その子が物語の主人公。特殊爆弾が広島に投下されて2,3日後のことだ。その娘は記憶を失くしていた。おそらく広島の犠牲者であったのだろうと推測されるが、記憶がないために何も分からない。その子が成長して、物語が始まっていく。
このテレビ小説は実際に広島を体験したものには漫然と見ることを許さなかった。

NHK広島放送局にひとりの老人が一枚の絵をもって訪ねてきた。このテレビ小説を見ていたら、あの日自分が体験したことが次々に浮かんできて、それを絵に表したのだといって、その絵を見せた。素人の描いたけっしてうまくない絵であったが、原爆の悲惨がそくそくと見る者に迫るような強い力がみなぎっていた・・・。
この1枚の絵から、「市民の手で原爆の絵を残そう」という運動が2年にわたって続くことになる。
そうやって集められた絵が2200枚。そのなかに、加藤義典さんの「助けてあげられなくて ごめんなさい」と添え書きされた絵がある。崩れた校舎の下敷きになって救援を求める傷ついた少年の絵だ。原爆に遭遇して、逃げて行く途中の段原小学校で目撃したことを描いている。こちらを少年がじっと見つめている。片目は傷ついてふさがっていて、開いている左目が凝視している。見つめられた加藤さんはその子を助けたくとも少年を閉じ込めている木材を動かすことができない。広島中を焼き尽くした火の手がすぐ近くにまで迫ってきた。加藤さんは、少年の手をぐっと握り締めた。加藤さんは心のなかでつぶやいた。「助けてあげられなくて ごめんなさい」。
それから30年経っても、加藤さんの心にこの光景が焼きついたままである。そして、助けられなかった自分を責めている。そういう感情を、サバイバーズ・ギルトということを最近知った。

サバイバーズ・ギルト(Survivor's guilt)は、戦争や災害、事故、事件、虐待などに遭いながら奇跡の生還を遂げた人が周りの人々が亡くなったのに自分が助かったことに対して、しばしば感じる罪悪感のこと。

 今、戦争の記憶ということで、「原爆の絵」を調べている。その過程でこの絵のことを知り、サバイバーズ・ギルトのことを考えてみた。


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by yamato-y | 2011-11-25 18:32 | Comments(0)

野次馬

昼休み

今朝のメニュー。柿とリンゴを1個ずつ、メインはきのこのおじや。早く食べたから昼になっておなかがいくらか空いた。ぶらりと東急本店に向かう。8階の食堂でなく、地下2階のデパチカへ行く。ここに新橋亭がカウンターを開いていて、麺のセットを売り出している。醤油ラーメンセットが気にいっている。840円、量が多くないので私向きだ。新橋亭の本店は新橋にある。昔、ここを撮影したことがある。
大伴昌司の終焉の地だったのだ。この店で開かれた探偵作家クラブの新年会のさなかにまだ若かった大伴が倒れた。身元がはっきりしないから愛宕署に持っていかれたというのは有名な話だ。その場所を現認したいと今から25年も前にロケを敢行した。畳の座敷だった。しかし、その当時の店も改装になって残っていない。
なんてことを回想しながら、新橋亭の醤油ラーメンをすすった。トッピングの蒸し鶏がうまい。細い麺、上品なスープが絶妙。昼飯はすっかり満足。

帰りに2階の紳士服コーナーに立ち寄った。いい靴がほしい。できればブーツスタイル。
クラークスのブーツはちょっといいと思ったが、値段を見て諦める。
コールハーンの靴を探した。すると、ナイキのなかにあるではないか。どうやらコールハーンはナイキに買収されたようだ。だから、いまのコールハーンの製品はすべてエアー入り。底に空気が入っているから、長く履いていても疲れないと売り場の店員は説明している。だけどなあ。いくら楽ちんでも、伝統のあるコールハーンがそんな製品を作るのかと内心毒づく。
ドライヴィングシューズのスリップオンでいいのを見つけた。いかにもコールハーンらしいデザインだ。けど価格は3万8千円。セカンドシューズで3万越えは高すぎる。
 もういいやという気分になる。今はいているので、まだ当分もつ。この冬はミュウミュウの6年前から履いているスポーツシューズで我慢する。この靴は気にいっているから、2回皮がはがれたが、修繕して履きつづけている。
置いてあった「ブルータス」をぺらぺらめくったら、格好いい靴と時計がコーディネートしてあった。やはりいいものはいい値段がするなあと、ため息をつく。

帰ってきて、ネットをぱらぱらと見る。友人の「隙だらけ好きだらけ」を読んでいたら、へたくそな楽太郎(今の円楽)と書かれてあって腰をぬかした。ナガっちゃんはだんだん過激になるなあ。でも・・・・けっこうあたっているなあ。

そうかあ、やっぱ、楽太郎の落語はへたくそか。前から、大學の落ち研の上級生のような話しぶりだと感じていたが。いかにも落語巧者のような思わせぶりの発言をするが、すこしもいなせな感じがしないと思っていたが、そう感じるのは私だけじゃなかったんだ。隣の太平のほうが、よほど芸人らしいもんな。

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by yamato-y | 2011-11-24 15:57 | Comments(0)

バタバタと

バタバタと

22日の夜は勉強会のあと、知人のバーに8人の仲間といっしょに行った。
マスターのS君は去年までプロデューサーだったが、第1次定年を機に思い切ってバーのマスターに転身した。東急ハンズのそばのビルの4階。小洒落たいい店だ。ふだんはライブハウスや朗読会など、いろいろなイベントもやっているとか。その店で、勉強会の「打ち上げ」というか晩飯を食べに行った。みな昔からの仲間、かつては私の部下だったという“若い”制作者たち。今では、特集を担当するほどのベテランといっていいかもしれない。席を替えても、番組制作の工夫や苦労について意見交換が、深夜遅くまで続いた。やっぱり、番組のことを考えるのは楽しい。

23日の祝日。10時まで寝坊した。遅い朝飯を食べたあと、祐天寺まで自転車で出かけた。ある歌舞伎役者のマネージャーとの打ち合わせだ。目黒から祐天寺まで。権之助坂を下りて山手通を中目黒方向へ10分ほど走り、交差する駒沢通りを左折。小高い丘をのぼっていくと祐天寺の古い伽藍が見えてくる。そのそばのデニーズで落ち合って、およそ2時間ほど打ち合わせをした。マネージャーのKさんは実に聡明な方ですっかりファンになった。
午後3時。ぶらぶらと山手通を走り、目黒図書館のヤードに自転車を乗り入れる。休日でこどもたちがたくさん遊んでいた。しばし見物。サッカーの真似事をする者はいても野球らしい光景はない。野球、相撲は落ち目というのは本当かもしれない。ついでにテレビも斜陽。『テレビはあと7年』という本がベストセラーになっている。
やがて、風が出てきたので帰宅することにした。
午後7時。家人は留守。夕食の仕度はあったがあまり食欲がない。代わりに熱燗でもと、駅前の居酒屋へ行く。2合の日本酒とブリ大根。30分で終了。店を出ると、地面が濡れていた。時雨が来たらしい。酒で気が大きくなったから、隣のカラオケ店へ行く。1時間、一人カラオケ。由紀さおりの歌中心で全部で15曲歌って、すかっとした。渋谷毅作曲の「初恋の丘」は名作。「渡良瀬橋」と「池上線」を最後まで歌い通すことが出来たのは収穫。
午後9時。読書。岩波ブックレットの新作「ヒロシマと原発」を、ノートをとりながら読む。変な日本語表現がときどき出てくるのは、なぜだ。
午後10時。Nスペ「ユーロ危機」を見る。危機で金もうけするヘッジファンドがぬけぬけとインタビューに答えているのを見て、癪にさわる。
午後11時。『原発と原爆~「核」の戦後精神史』(川村湊)を読む。ゴジラを軸とする東宝の怪獣映画を通して、日本人の戦後精神史を考察する手法を川村はとっている。S先生やM君が今、研究会で発表中のそれとよく似ている。他人事ながら気になった。

明け方、かなり大きな地震があった。

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by yamato-y | 2011-11-24 12:08 | Comments(0)

今夜、勉強会

今夜、勉強会

中堅の社員たちに今夜話をする。
この時期、来年度の企画が募集されている。来年の自分の仕事を確保する時期だ。
自分で立てた企画で勝負できれば冥利に尽きるが、それができなければあてがい扶持のつまらないネタで1年暮らすことになる。ディレクターというのも表現者のひとつだ。実存をかけて表現を生み出すことがなければ、こんなハードな仕事をやるのは採算があわない。まして、他人が立てた企画を作ることはできるかぎり避けたい。うちの社員たちも結構まなじりを決して企画つくりに追われている。
そんななかで、勉強会を仕掛けたのはワケがある。
最近、彼らが作った番組が心に沁みない。見終わったあとの余情などを感じる作品がない。どこにでもあるような誰でも作れるような凡庸な作品が多いということが気になって、そのことに警鐘を鳴らしたいと思って、勉強会を呼びかけた。

テレビの番組は華やかな話題になるものを作ることが第1と思われているようだが、現場ではそうではない。深い取材、堅牢な構成、正確にして滋味のある表現、これらが結集して出来上がる全体性。なにより、言いたいこと伝えたいことがくっきりと浮かび上がっていること。つまり作者のメッセージがあいまいでない。こういう番組が仕上がったとき、制作者は誇らしく思う。さらに他者によって評価を得たとき、自分本位の作品でなく世に広がっていく作品になりうる。

上述のような「作品」が中堅社員たちのなかから最近あまり生まれてこないのはなぜか。と問いかけてみようと、今夜の勉強会を思い立った。

そこへひとつの情報が舞い込んだ。知人からのテレビ取材を受けた体験記である。最近、ある出来事で知人は若いディレクターの取材を受けた。そのときの対応、態度、マナーのひどさにすっかりまいったという顛末が書かれてあった。まるで戦前の羽織ゴロだ。手紙を読んでいるうちにムカムカした。よほど、この当人を呼びつけて叱りとばしてやろうかと思ったがとどまった。このケースは極端だが、これに近いことを私の年少の仲間たちもやってはいないだろうか。そのことを今夜問いかけたい。実は、番組作りに肝要なことは高いモラルが求められるということ。

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by yamato-y | 2011-11-22 13:10 | Comments(0)

徳兵衛の悲哀

徳兵衛の悲哀


先日放送した杉本文楽「曾根崎心中」の作り直しを現在行っている。週末はその番組の試写で追われた。土曜日は3回、日曜日は2回、計5回繰り返して、昨夜7時ごろあがった。
前に発表したのはETV特集の枠で、杉本博司という現代美術家が人形浄瑠璃文楽に挑むという90分ドキュメンタリーの体裁をとった。とても評判が良かったので、文楽そのものをもっと外国人向けに紹介できないかという声があがってきて国際放送で、この杉本文楽を見せることになったのだ。放送は12月30日で50分の特集となる。番組の5分の4は文楽の舞台。残りの5分の1で杉本博司のことや文楽の仕組みなどを説明する。つまり10分ほどでこの話題の舞台を紹介するという荒業が求められている。担当の若いディレクターと2日にわたってその直し作業にあたったというわけだ。

「曾根崎心中」の全編を見た。プロローグの「観音廻り」だけは江戸時代の大阪の素養がないとなかなかついていけないが、本編そのものはとてもよくできたメロドラマであることに感じ入った。醤油屋の手代徳兵衛が友人の九平次に金を用立ててやったが、九平次はそんな事実はないと開き直り、おまけに徳兵衛を仲間と寄ってたかって制裁する。この不条理な発端が物語の駆動力になって、最後の心中まで疾走していく。その手際のうまいこと。とても300年前の出来事、芝居とは思えない。

この芝居を見て、当時の大阪っこたちは涙を流し、心中という最終行為に憧れ真似たという。おそらく封建の世を生きていくうえで遭遇する「辛さ」はけっして稀なことではなく、みな身につまされたのだろう。
「生玉の段」「天満屋の段」と芝居が進行していくにつれ、人形はまるで人格をもっているかのように見えてくる。これを操る吉田蓑助、桐竹勘十郎の姿がだんだん消えていくのだ。恐るべき芸の力。
たしかに普段の文楽の書き割りの華やかなスタティックな舞台と違って、神奈川芸術劇場の奥行きのある“暗い”舞台によって人形の凄味が一段と冴える。
この美しさを杉本は表したかったのだ。天満屋を脱走して、心中を果たす曾根崎の森をめざす徳兵衛とお初。その蒼ざめた美しさ・・・。本来、この芝居の主人公は遊女お初だろうが、私には蓑助の演じる徳兵衛の葛藤がひときわ光ってみえた。

さて、残念なことに、今制作している番組は日本国内では見ることができない。海外の日本施設や公館、ホテルなどでしか流れない。しかも英語訳の番組となる。外国の人たちはこの芝居をどんなふうに見てくれるだろうか。ちょっと楽しみだ。


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by yamato-y | 2011-11-21 08:34 | Comments(0)

人生の縁飾り

人生の縁飾り

だらだらと平坦が続くような人生でも、時には早瀬になることもある。くっきりと人生の変化を遂げるということが自覚できるような瞬間がある。
昭和57年の晩夏に長崎へ赴任したとき、そういう感慨をいだいた。子供が出来たばかりで、それまでの共働きをやめて、妻は子育てに専念する。私は初めての地方局の番組作りに参加する。そういう新しい生活が始まろうとするときだった。

転勤の打ち合わせをするために、単身で私は長崎へ先乗りした。羽田から飛行機で博多に入り、九州管内を統括するプロデューサーに挨拶をすませてから、汽車で長崎へ向かった。佐賀平野をぬけて有明海に出たとき、干潟ののんびりした風景を目にしてはるばる来たものだと感じ入った。おりしも夕暮れにさしかかっており列車の進行方向に赤い大きな夕日が落ちていく。目指す長崎は夕焼けのなかにあった。

浦上に着いたとき日はとっぷり暮れていた。徐行運転で浦上から長崎へ入って行く。両脇に小高い山がそそり立っていて、そこには宝石をばら撒いたような美しい家々の明かりが広がっていた。夢のような光景だった。
終点の長崎駅のコンコースは細長く、線路は海で行き止まりになっていた。最果ての駅だった。斉藤茂吉の都落ちの心境が少し分かったような気がした。ホームの外れに観光用のぺーろんが陳列してあった。まだ午後7時過ぎだというのに夜遅く感じられた。
駅前のホテルにチェックインして、タクシーで浜の町まで出て雲龍のギョーザを食べたことを覚えている。

翌朝、長崎局へ出社すると、目は少しも笑っていない中年のプロデューサーがにこやかに迎えてくれた。早速、最初の仕事を告げられた。前任者が残して行った企画で、九州管内放送の「蝶々さんの謎」。プッチーニのオペラ「蝶々夫人」はここ長崎が舞台で、この物語のモデルになった女性がいたという半ドキュメンタリーを制作しろという指示があった。市民オペラが秋に上演されるので、その製作風景を取り込んで、蝶々さんとはどういう人物であったかを浮き彫りにする番組を作れという。何が何やら分からないまま、資料をごそっと渡された。

それから2か月。長崎の土地勘もないまま、東山手や唐人町の界隈を必死で駆け回ってロケをすることになる。昨晩、放送された「蝶々夫人」の市川森一のドラマを見ながら、あの新米のディレクター時代を思い出していた。私が赴任した57年の長崎は、その7月に起きた大水害で大きな傷を負っていた。だが、そんな傷を町の人はおおらかに受け止めていた。私が知っている北陸の町とはまったく違う文化があった。
あの夕暮れの浦上の谷に入ったときから、人生が大きく変わっていくということを、しっかり私は感じていた。

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by yamato-y | 2011-11-20 07:40 | Comments(0)


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