定年再出発  


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by yamato-y
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わが心のスペイン

ある日系義勇兵の死

 王制が倒れて、スペインに共和政府が生まれたのは1936年2月のことだった。その年に日本では2・26事件が起きている。スペインでは選挙で人民戦線派が勝利したのだ。人民戦線派とは当時広がりを見せていたファッシズムに対抗するために反ファシズム勢力が結集して連合した勢力を指す。共産主義者、社会主義者、アナキストなどいろいろな党派の寄り合い所帯であった。それでも共和政府は農地改革や経済の社会主義化などをめざしていたため、王制派にとっては容認しがたい存在であった。

この共和政府が誕生して半年、軍事クーデターが起きた。将軍フランコがアフリカから反乱の狼煙をあげたのである。ヒトラーとムソリーニの枢軸国はフランコを支援する一方、紛争が自国に及ぶことを怖れた連合国たちは不干渉政策をとる。そのため共和国政府は国際的に“孤児”となり累卵の危機になる。

 ファシストの黒い手から共和国政府を守れという合言葉のもとに、世界62カ国から5万人もの若者や知識人が続々とスペインに駆けつける。作家のアーネスト・ヘミングウェイ(『誰がために鐘は鳴る』)やアンドレ・マルロー(『希望』)たちも参加した国際義勇兵だ。フランス1万、ドイツ5千、イタリア3350、アメリカ2800、イギリス2千、カナダ1000、ユーゴスラビア12000、ハンガリー1000、ほか53カ国から5000。世界の国々からスペインを救えと駆けつけた義勇兵たち。このなかにたった一人日系人がいた。ジャック白井である。そのことを石垣綾子から教えられ、私は衝撃で身震いした。

1979年に日系義勇兵の生涯を描いた『オリーブの墓標』と出会う前に、ぼくはジョージ・オーウェルの傑作『カタロニア讃歌』、エンツェンスベルガーの労作『スペインの短い夏』を読んでいて、アナキストの美しい生き方に共感していた。そのアナキストは人民戦線のなかにあってコミュニストと内ゲバを繰り返していた。
だから国際義勇兵はソ連を中心とするコミュニストの統制下にあると知って、私のなかで引っかかるものがあったことは事実だ。だが、他国の革命のために身を投げ打つ国際義勇兵の姿はチェ・ゲバラと重なって、私を魅了した。

 ジャック白井、日本名は不詳。ジャックは愛称であろう。正式のファーストネームは分からない。1911年頃に生まれて、孤児として函館で少年時代を送った。外国航路の船員として世界を転転としたあと、ニューヨークへ密入国。コックとして日系レストランで働いているとき石垣夫妻、イサム・ノグチらを知る。綾子にひそかに思いを寄せることもあった。イタリア系女性と同棲。日本人労働者クラブの一員として数々の争議で活躍し、仲間の信頼を得る。
スペイン内戦が始まると、アメリカ共産党が義勇兵を募ることとなった。白井はその呼びかけに応じてスペインへ赴く。彼が属したのはアメリカ人で結成されたリンカーン大隊。およそ8ヶ月間戦場にあって、1937年7月11日、ブルネテ戦線で戦死した。戦局は共和政府にとって次第に不利になっていく。
首都マドリードは激しい攻防の末、陥落。1939年共和国政府は崩壊した。

このスペイン戦争は、反ファシズム陣営である人民戦線をソビエト連邦が支援し、フランコをファシズム陣営のナチス・ドイツ・イタリアが支持するなど、第二次世界大戦の前哨戦の様相を呈した。ヨーロッパの片隅で起きた内乱にもかかわらず、この戦争がヨーロッパに与えた影響は大きく深刻なものとなった。このスペイン革命の栄光と挫折は後にさまざまな芸術に結晶されていく。

 石垣綾子の書を通じて知った白井のことを、私はもっと知りたいと思った。法政大学の川成洋教授が研究をしていると聞き接触をもった。教授から白井に関する貴重な情報をもらった。その情報をもとに、私は「わが心のスペイン~ある日系義勇兵の死」というドキュメンタリー企画を立てて提案することとなる。番組は、唯一人の日系義勇兵として参戦し戦死したジャック白井という人物の追跡を通して、この戦争の推移をたどりながら、今世紀ヨーロッパ文明に与えた衝撃の意味を考えるという趣旨であった。
だが、その企画は認められず、没となった。

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by yamato-y | 2009-10-28 16:44 | 人生にジャストミート | Comments(0)

有明の天才

有明の天才

台風の影響を受けた嵐のなか、臨海線の国際展示場まで行った。駅を降り立つと雨と風がひどいのでタクシーでお目当てのマンションまで行く。ワンメーターだが歩いていたらずぶ濡れになっただろう。嵐の新開地は荒涼としている。
その高級マンションは33階立て。部屋にたどり着くまでに4つのセキュリティチェックを受けなくてはならない。迷路のような構造をすり抜けて狭い(わざとそうしているようだ)エレベーターに乗り継いで33階の最上階に出た。そこに取材をお願いしていた清元梅吉さんが待っていた。70半ばと思われるが、朱色のヨットパーカを着て細身のジーンズをはいたお洒落なスタイルで、にこにこ笑いかけながら立っていた。伝説の人と聞いていたので、手ごわい人を想像していたから拍子抜けした。

来年の夏に、清元の大きな演奏会が開かれる。邦楽の世界では大事件と噂されている。その出来事の中心人物のひとりが清元梅吉さん。
梅吉さんは清元梅派の家元。幼少期より祖父から三味線の厳しい教えを受け、早くから天才少年と呼ばれた。解釈に優れた演奏には定評があり、舞踊家西川鯉三郎には「梅吉さんは憎らしいほど上手い」と絶賛された、と物の本には記載されている。「現在でも他流の演奏家から神格化されるほど尊敬を集め、その音色に憧れる後輩も多い。」とも書かれている。清元三味線、至芸の持ち主である。
こんな経歴の人物は、きっと瀟酒な数寄屋造りの家にでも住んで、普段から着物姿で暮らしているのだろうと勝手に想像していた。口数の少ない苦虫をつぶしたような怖い人と予断をもっていたから、現実の師匠のモダンな姿に拍子抜けしたのだ。

「譜面どおりに弾けばいいのです」。演奏するときの心構えを私が尋ねたときの、梅吉さんの答えだ。最近、清元の唄の詞の意味を分からないと弾けないという人がいるが、そんなことは関係ない。さびしい曲は、さびしいように作曲されているのだから、弾いていけば自然と淋しくなるもの。その詞の意味が分かったからといって淋しくなるもんじゃありません。これが梅吉さんの信念だ。天才の異名をとった人の言葉はシンプルだ。

練習はこの高層マンションではしない。稽古場でやる。のべつまくなしに三味線の練習をしていても駄目。めりはりが必要だと考えている。
ところが、師匠が54歳の頃、三味線方の職業病ともいえる腱鞘炎になりかけて医師から「演奏の機会を間引くように」と助言されたことがある。以来、練習、演奏の機会は著しく減少したと思われる。家で練習なんてやりませんというのは、師匠の照れかもしれない。

なぜ高層ビルに住むかというと、40年前に渡米公演してアメリカに触れたときから、「アメリカかぶれ」になったからだそうだ。たしかにそのビルから見る風景は日本ではない。お台場、ベイブリッジ、羽田、の湾岸の風景はまるでブルックリンのようだ。
趣味はなんですか。「賭け事。年に1回かならずラスベガスへ行きます。実はあさってから行くのですよ」と悪戯小僧のような表情になって、師匠は答えた。

俄然、この人物に興味が湧いてきた。不思議な人だ。ヒューマンドキュメントの主人公に相応しい人だ。
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by yamato-y | 2009-10-27 10:19 | Comments(0)

石垣綾子との出会い

大恐慌のアメリカに生きて

「オリーブの墓標」を読んで、ぼくはこの著者石垣綾子の生涯を知りたいと思った。高齢だがかくしゃくとしていると情報を得た。当時、教育テレビで「私の自叙伝」というインタビュー構成の番組が評判となっていたので、そこへ企画を出し彼女を推薦した。その提案はオーソライズされ、彼女の在米生活とりわけ大恐慌時代の思い出を中心に話を聴こうということになった。ぼくにとって初めての社会派の番組となる。それまで学校放送の音楽番組を制作していたのだ。ぼくは張り切って彼女の人生を追跡した。

 石垣綾子は明治36年(1903)に学者の娘として生まれた。自我に目覚める頃に大正デモクラシーと遭遇し自由の大切さを知る。断髪、洋服姿で歩くと、「オバケ屋敷のオバケ娘」と近所でも評判になった。モガ、モダンガールである。
ところが、関東大震災が起きたあとから世相はすっかり変わる。自由がなくなって息苦しい時代となっていった。そこから脱出したいと綾子は渡米を決意するのだ。結婚してアメリカに行く姉夫婦についてワシントンへ行くが、ひとり離れてニューヨークへ出る。徒手空拳で住み込みで働きながらコロンビア大学へ通うのである。その頃画家として留学していた石垣栄太郎と出会う。栄太郎はグリニッジビレッジに住んでいた。芸術家の溜まり場だった。セオドール・ドライサーやユージン・オニールなどがいて、綾子は自由のアメリカを謳歌することになる。
 その年、1927年に有名な「サッコとバンゼッティ事件」が起こる。ロストジェネレーションの作家たちは街頭に出て抗議活動を行う。この人たちを中心に「ジョン・リード・クラブ」が結成される。石垣栄太郎もその有力メンバーであり、綾子も影響を受けていく。生活はどん底だったが、精神的には充実することとなった。
 1929年、栄太郎と結婚した。その年に大恐慌が勃発する。二十世紀の歴史に残る大事件だ。たちまち街角にブレッドライン(パンの配給に並ぶ列)が出来た。現在の派遣村のようなものだろう。急激にして苛烈な貧困が人々を襲う。
 昨日までエリートだったと思われる立派な身なりの紳士が街頭で林檎を売っていた。木枯らしのビル街でその紳士の握る林檎の赤さが、綾子の目に焼きつく。
《屋台にずっと林檎を並べて、紳士は一個5セントの張り紙をつけて売っていた。その林檎を売りたい一心でハンカチでもって一生懸命磨くのです。並べた林檎がつやつやになっていました。通り過ぎる人たちは食べ物がない職がないと青ざめた顔をしていました。そんななかで林檎の赤いつやだけが町のなかでぱーっと明るさを放っていました。》
 石垣の夫婦のくらしも悲惨だった。毎日コンビーフの缶詰と塩だけのお湯で飢えを凌いだ。栄太郎の絵は売れず、綾子はコーヒーショップの店員や東洋人モデルで家計を助けた。
この「私の自叙伝」のインタビューをした1979年、ちょうど石油ショックが起きていた。戦後の高度成長の歪が現れていたのだ。綾子は大恐慌はこんなものではなかったとショックの違いを語った。たしかにその後石油ショックから日本は立ち直るのだが、そのあとに続くバブルが日本人に自分を見失わせることになるとは綾子も予想はしていない。日本の先行きに対してぼくはもっと楽観的にしか見ておらず、冷戦も永遠に続くとしか認識していなかった。

 この大恐慌の時代に、石垣夫妻はジャック白井に会う。
《ジャック白井といいましてこれは北海道生まれの船員上がりでしたけれども、その人が近くのシマレストランでコックをしていまして、彼が店からコーヒーの缶とかかにの缶詰とかをポケットに詰め込んでもってきてくれた。貧しい私たちにとっては助かった。このジャック白井というのは、後にねスペイン戦争のときに義勇兵として、あのスペインの人民戦線側へ行って、とうとう戦死してしまいました。》
 不況は続いたが、1933年にルーズベルトが大統領になって、ニューディールが始まっていく。これで生活が改善していったことがよほど嬉しかったらしく、綾子は大のルーズベルトびいきになる。彼女は「ローズベルト」と発音した。この頃から綾子はライターとして言論活動を始めるのである。
海を越えた日本では風雲急を告げていた。満州事変が起きて日中戦争に突入していく。この戦争に反対するため、綾子は街頭に出て戦争反対の声をあげるのだった。
《祖国に弓をひくものですから、ずいぶん悪口も言われました。でも私は日本を愛していましたからやっぱり本当の日本が蘇ってほしいという気持ちから反戦活動をしたわけでございます。》
日米戦が始まる前のことだ。アメリカが鉄くずを日本に売ることを阻止するため、ニューヨークの波止場で開かれた集会に綾子は出席する。そして、おおぜいの群集の前で綾子は壇上に上がって日本への鉄輸出禁止の演説をぶつ。日本大使館の関係者からかなり脅されたが、私は信念をもって行動したと、76歳の綾子が当時を思い出してスタジオで力づよく語った。3時間を越える収録にも疲れを見せず、石垣綾子は精力的に歴史の証言をした。
 その石垣綾子の番組の情報を掲げておく。
1979年9月13日、夜7時半から30分、教育テレビ
私の自叙伝「石垣綾子・大恐慌のアメリカに生きて」

それにしても、スペインの義勇兵として戦場に散ったと綾子が証言する、ジャック白井という存在が私には気になった。

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by yamato-y | 2009-10-25 21:14 | 人生にジャストミート | Comments(0)

古本屋の薄暗い電灯の下で

古本屋の薄暗い電灯の下で

 今から30年前、どこの私鉄沿線の駅前にでも一軒ぐらい古本屋があったものだ。
当時、ぼくは結婚したばかりで東横線の武蔵小杉に住んでいた。正確には武蔵中原だが、渋谷から帰って来ると降りるのは武蔵小杉だった。国鉄と共通の大きな改札とは別に東横線だけの南口改札があった。そこを出たところに私の自転車を置いていた。
 南口には線路沿いにキャバレーやうどんやが並ぶ小さな商店街があった。改札に近いところにぱっとしない古本屋があった。大半は雑誌や文庫本ばかりの店内で、単行本の棚はせいぜい4つぐらいしかなかった。単行本といっても梅原猛や森村誠一のような本ばかりで、これといってめぼしいものはなかったが、会社の帰りはまち合わせのためちょくちょく寄った。
 コートを着ていたから冬だったと思う。人通りも少なくなった8時過ぎにその店(名前はとっくの昔に忘れた)を訪れた。ガラス戸を開けると一人だけ立ち読みの中年の客がいた。まっすぐ単行本のコーナーまで歩んだ。『悪魔の飽食』や『隠された十字架』など見慣れたタイトルの背表紙が薄暗い電灯の明かりを浴びて並んでいた。
 棚の上のほうに『オリーブの墓標』と書かれた本があった。著者は石垣綾子とある。本の厚さも大きさも手ごろで、背伸びして私は書棚からその本を抜いた。評論家として石垣綾子の名前だけは知っていたが詳しいことは知らない。テレビで女性の政治参加などを力強く主張する、少しうるさそうな小母さんとぐらいしか認識がない。
 ぱらぱらとページを繰ると、石垣さんは若い頃ニューヨークでくらしていたと記されてある。戦前の大恐慌時代を実際に体験をしたとあとがきにある。スペイン戦争、義勇兵、日系人と少しおもしろそうな話題が目次に並んでいた。 
 ジャック白井という名前が目次に出ていた。どんな人物かとそのページを開く。函館生まれの日本人で密航してアメリカにたどり着いた人物らしい。石垣栄太郎、綾子夫妻と仲がよかったようだ。港近くのレストランでコックをやっていて、ときどき石垣夫婦のもとへ遊びにやって来た。彼は非合法のアメリカ共産党に入党し党員になった。大恐慌後、劣悪な労働環境に対して改善を求める運動に白井は参加していた。
 1936年にスペインで内戦が起こると、アメリカ共産党も共和国政府の側を支持するようになる。やがて、共和国の側の劣勢が伝えられると、アメリカ共産党は積極的に応援することなり義勇兵を送ることになる。そのなかに唯一人の日系義勇兵としてジャック白井の名前があった。この人物の知られざる生涯を描いたのが、石垣綾子著『オリーブの墓標』だ。
 私はすぐに買って店を出た。一刻でも早くその本を読みたかったのだ。

 今となってみれば、この本との出会いがぼくのディレクター人生を大きく決定していくことになる。番組制作人生、最初のジャストミートだった。

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by yamato-y | 2009-10-25 00:01 | 人生にジャストミート | Comments(0)

聖なるいかがわしさ

聖なるいかがわしさ

寺山修司を読むのは山口小夜子さんのことをもっと知りたいから。
小夜子さんは伝説の「天井桟敷」の団員ではなかっただろうが、主要な客員であったはずと記憶している。たしか天井桟敷の公演に小夜子さんもいくたびか出演していたと記憶しているが、精確な情報をまだ手に入れていない。
小夜子さん自身、テラヤマの短歌が好きで高校生の頃から愛読していたと打ち明けてくれたことがある。
売りにゆく柱時計がふいに鳴る横抱きにして枯野ゆくとき
この歌を小夜子さんはそらで朗詠してくれた。原宿の喫茶店の隅で呟く小夜子さんは深海魚のように神秘的だった。紅い唇の隠微が眼に焼きついた。
一見、テラヤマワールドはオタク世界と共通するように見えるが、そうではないと白石征は語る。《目と頭で考えるのじゃなくて、暗闇で、身体に触れ、身体の深いところで考える固有の身体的思考を主張しました。》

以前の新宿花園は便所の匂いがした。「和ちゃん」のトイレは板一枚隔てて便器とバーカウンターがあった。小便のしたたりは酒席にまで聞こえた。和ちゃんは私と同年で会津の出身だった。5年前、仕事中に脳出血を発症して死んだ。美人薄命。
小夜子さんの死も早かった。この人は私より年少だったが、近所のおねーさんという感じを漂わせた。「課外授業」で横浜山手の小学校で撮影したことは忘れられない。

 先週のETV特集「須賀敦子」を見ていて、あれえと思ったことがあった。
イタリアに在住していて、日本文学の古典を翻訳しているという消息を書いた須賀の手紙の文面だ。「枕草紙」とあったのだ。おそらく「枕草子」のつもりであったのだろう。
でも「枕草紙」が有名なのは江戸時代に流行した性風俗を描いた春画の一種を指すことだ。ベッドに持ち込まれるから枕絵と呼ばれるもののひとつだ。
むろん、須賀敦子はそんなつもりはないのだが、手紙のなかにはっきり書かれてあるのを見るとおかしくてならない。

さきほど「宮崎VS養老」対談の放送が終わった。ネットで感想を調べていてちょっとカチンと来た。音声がこもっていて聞き取りにくいと苦情が出ているのだ。そんなことは、実施する前から私たちも懸念していたが、イベントを撮影させてもらうにはいろいろな制約がついていて、放送の側だけの事情ではすまないことがあるのだ。むしろ、数少ない巨匠たちのイベントを収録できることだけでもいいのではないかと、言い張りたくなる。現場で努力しているのに、悲しい。
だいたい、出演している二人に対して失礼な文言が飛び交っていることには、ひどく抵抗を感じてしまう。

もっと、番組に対しておおらかであってほしい。硬い番組のなかにエログロがちらっと入っていることの可笑しさを笑い飛ばすとか。

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by yamato-y | 2009-10-24 18:37 | Comments(1)

明日、土曜日放送

明日、土曜日放送

今、教育フェア2009というキャンペーンが行われている。その一つとして先日来編集してきた対話番組が明日放送となる。題して、

ETV50 「こどもたちへ 宮崎駿・養老孟司の対話」
放送日時:09年10月24日(土) 16:00~16:50(50分) 
   
去る9月下旬に京都の国際マンガミュージアムにて宮崎駿・養老孟司の公開対談が行われたものを中心にこの特集番組は構成されている。雑談だが、ゆるやかな主題は今こどもたちに向かっていいたいこと、こどものためにいいたいこととなっている。
二人はこれまで数年にわたって対談を重ねてきた。虫好きの養老さんの虫眼とアニメ作家のアニ眼の宮崎さんという対話の名手がにこにこ笑いながら、世の中をちくんと刺す。そのユーモアは必見。
ただし、対談ばかりではない。二人のそれぞれの活動も当然数度にわたって紹介される。このなかでも、宮崎さんとこどもたちとの関わりは興味深いものがある。ぜひ、ごらんいただきたい。
        
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by yamato-y | 2009-10-23 14:59 | 新しい番組を構想して | Comments(1)

ATP賞グランプリ2009

ATP賞グランプリ2009

22日、「第26回 ATP賞テレビグランプリ2009」受賞式が六本木のハリウッドボウルで行われた。午後4時から表彰式で、今回優秀賞に選ばれた私たちも参加することとなった。

創り手である制作会社のプロデューサーやディレクターが自ら審査委員となって作品を選ぶ、日本で唯一の賞として1984年に創設された。ドラマ部門、ドキュメンタリー部門、情報バラエティ部門の3つのジャンルで作品を募集し、毎年100本を超える応募作品の中から、グランプリ、最優秀賞、優秀賞などが選ばれる。今年は135本となった。

この賞は私にとっても忘れられないもので、今から2年前に「闘う三味線 人間国宝に挑む~文楽 一期一会の舞台~」でドキュメンタリー部門の最優秀賞と総務大臣賞をいただいている。そのときのディレクターと同じ藤田くんが今回もETV特集「全身漫画家~真説・赤塚不二夫論~」で受賞となった。
今年のドキュメンタリーの最優秀は、四川大地震の被災地は今を描いた作品となった。海外取材の肉厚の作品である。私のは、藤田くんと二人だけでこつこつ作って来た手作りものだ。ある意味で、教育テレビの地味な番組にこうして光をあててもらうということは制作者にとって大きな励みである。

表彰式にはプロデューサー、ディレクター、局のプロデューサーの3人が壇上に上がることになっているが、残念ながら局のプロデューサーは生本番があって欠席となった。代わって、赤塚不二夫さんの長女のりえ子さんが登壇してもらうこととなった。受賞のあとのスピーチでりえ子さんは、「昨年、父と母を相次いで失って衝撃を受けたが、この賞でなにか父赤塚不二夫の生き方を認めていただいた気がして本当に嬉しい」と遠慮がちに語っていただいたことが心に残った。

そして、最後に今年のグランプリの投票が行われ、発表。ドラマが選ばれた。仲村トオル主演の「空飛ぶタイヤ」で、放送局はWOWOWであった。受賞スピーチの仲村くんの話がウィットに富んでいてよかった。

終わって、会場からすぐ近くの六本木芋洗坂にある焼き鳥屋へ移動して、赤塚りえ子さんを囲んで仲間うちのささやかな祝勝会となる。

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by yamato-y | 2009-10-23 13:51 | 新しい番組を構想して | Comments(0)

秋の蚊

秋の蚊

秋の蚊やペンギン歩きの腕を刺し

明け方、蚊がまとわりついた。10月も末だというのに蚊がいる。今年は温暖化の影響も少ないと思われたがそれでも夏の蚊が居残っている。
四十肩五十肩の症状はいよいよ最終の局面に入ったらしい。タケ先生が昨夜鍼をうったあと整体をしてくれた。左腕付け根から左の二の腕をひっぱり揚げる。少しずつ角度があがっていく。昨日まで揚がらなかった角度まで腕が揚がって行く。施術を終えた先生は、「これまで技を出し惜しみしていたのじゃないですよ」と笑っている。
この肩の症状はある時期まで何をやっても効果がないそうだ。私の場合はいよいよ最後の段階に入ったとみて先生は荒療治をほどこした。たしかに、これまでより腕が揚がりやすくなりはじめている。
この症状は体が冷えているとなりやすく、私の場合は腕が水平まで揚がっているが、人によっては体から30度の角度しかあがらずペンギン状態になるそうだ。
少し緩解したとはいえ、まだ不自由なことは続いていて、寝ているときも左腕がうまく動かず、秋の蚊の鈍い動きにもかかわらず刺されてしまった。

明け方は冷え込んだようだ。起きると鼻がぐすぐす言っている。息のもれかたが少しずれて聞こえる。つまり、自分の鼻すすりだが他人のを聞くようにして聞こえる。風邪のひきはじめかな。

昨夜、少し時間があったので、新宿紀伊国屋の1階をうろついた。新書も新刊もなんだか不景気のことを解くような内容ばかり。佐高と西部対談とか、中川昭一と宋対談とか気色の悪い本ばかり眼につく。
ふと、今手がけている宮崎駿、養老孟司対話のことを思い出した。宮崎さんの発言だ。これからどんな作品を作っていきたいですかという質問に、彼は「経済とか政治とかいう紙きれのことをずうっと貫く、下のほうの層にあるものにぶつかって作っていかなくてはいけないと考えている」と答えた。紙切れのことでないこと・・・。

この放送は今週の土曜日だ。やっと本日完成する予定。

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by yamato-y | 2009-10-22 07:45 | Comments(0)

人生にジャストミート

人生にジャストミート

「課外授業」の主題歌の冒頭に、「縁は異なもの・・・」と歌いだしている。
人生には異な縁というか不思議な出会いというか大切な転轍点というものがある。何度も書いたが、大江健三郎さんと広島の出会いもその一例だ。長男光誕生、広島へ逃避、広島日赤病院で重藤文雄副院長と出会い、光と共生を決意。この重藤文夫との出会いが大江に人生的文学的主題を与えることとなる。大江さん自身、ノーベル賞受賞後にこの出来事を「ジャストミート」と題してエッセーに書いている。

 知らないままに出会っていたという縁もある。
昭和52年、山口の無名校にいた津田投手は球はめっぽう速いが気が弱く、ピンチになるとすぐ崩れるので仲間から「ノミの心臓」と呼ばれていた。その夏休み、東京から6大学のエース早稲田の道方がコーチでやって来た。道方は津田の才能をすぐ見抜いたが、ハートの弱さにも気づいた。そこで一枚のメモを津田に渡した。
「弱気は最大の敵」。ピンチになったときはいつもこの言葉を思い出せと、励ました。朴訥な津田少年はこの言葉を秘めて、その夏の7月、地区大会で完全試合を成し遂げる。ここから津田はプロのマウンドまで疾走していくのだ。
「弱気は最大の敵」という言葉が津田の人生を変えたということは、津田自身も気がつかなかったし、教えた道方も覚えていない。道方が気がつくのは、それから17年経った平成6年のことだ。テレビで「もう一度、投げたかった~炎のストッパー津田恒美の直球人生」を見ていて、道方はあのときの少年だと悟ったのだ。

 出会うこともタイミングが大事だ。
映画雑誌の編集だけでは飽きたらなくなった向田邦子は、シナリオライター集団「Z」に参加する。29歳のときだ。そこでプロのシナリオ作家たちに揉まれて技を磨くのだが、本格的な始動は「Z」の世話人の今戸に森繁久弥を紹介されてからだ。一本書いてみた脚本が森繁の目に留まり、彼のラジオレギュラー番組「重役読本」を書くことになる。さらにテレビの「七人の孫」のシナリオを担当するようになり、彼女は大きな世界へと漕ぎ出していくのだ。

 出会いは片方だけに影響するわけではない。
内田勝が大伴昌司と出会ったのは、内田が少年マガジン3代目編集長になったばかりのことだった。不祥事が続いて2代目編集長が降板したあとを受けての就任で戸惑っていた。が一方ではライバル少年サンデーに対して一矢報いたいという情熱も湧いていた。そこへ現れた大伴はちょうど円谷プロのお蔵に入った特撮映画の企画をもっていた。大伴から内田は一度ぜひ見て欲しいと依頼されて見たのが「ウルトラQ」である。これはいけると直感した内田は少年マガジンで怪獣の特集を巻頭に掲げることにする。ここから少年マガジンの快進撃が始る。同時に、大伴昌司もそのグラフィックな手腕が認められ、巻頭図解のデザイナーとしての頭角をぐんぐん表していくことになるのだ。

ディレクター、プロデューサーの仕事に携わって40年。レギュラー番組を除いて、いわゆる特番を500本余り作ってきた。この数は、同世代の同業者のなかでもけっして少なくない数だと思う。その番組群のなかで、こうして作って来たなかでも、私自身の人生にジャストミートした番組は5本はあったのじゃないだろうか。

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by yamato-y | 2009-10-20 18:55 | 人生にジャストミート | Comments(0)

音響効果

音響効果

朝、駅で顔なじみのディレクターと会い、昨夜の「須賀敦子」の番組をめぐって意見を交換した。私は番組に不満だった。彼女の全人生を60分で描くのは詰め込み過ぎだと感じた。イタリアでの須賀の神話的時代を描くか、失意の帰国後の迷いのなかから再生していった時期を描くか、焦点をしぼりこんだほうがいいと思うと、その人に話した。
よほど勢い込んで私は語ったのだろう。その人も大筋において異論はないが、そこまで言わなくてもいいのではと表情をした。乏しい予算のなかでよく頑張っているとポジティブに番組を捉えていた。なるほど、「武士の情」だ。

教育テレビの番組費では海外取材など叶う話ではない。これまでのアーカイブス映像をいろいろ継ぎ合わせてイタリアシーンを作り上げる努力をしていたのは分かる。というのは、私がロケしたアッシジやラベルナの映像がいくつか出てきたから、台所は火の車だろうと察していた。

二人とも共通した感想は、番組のなかでの音響処理の不具合のことだ。選曲があっていない。音の出るタイミングが鈍い。須賀敦子の美しい文章の朗読がいくつも登場するが、心に沁みこんで行かないという不満が残った。その人も同じ意見だった。音響、特に音楽の扱いは難しい。悲しいときに悲しい曲、楽しいときに弾む曲というふうにはならない。黑澤明のコントラプンクト(対位法)ではないが、その逆を狙う方法だってあるのだ。

実は、今から603スタジオで音響作業が始る。「宮崎駿・養老孟司対話」の音楽とナレーション録音だ。この対話という地味な映像をどう賦活させていくか、音響の役割が大切になってくる。人のことを批判しているだけではすまない。自分もそのセンスが問われる。

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by yamato-y | 2009-10-19 12:09 | Comments(0)


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