定年再出発  


懐かしい空
by yamato-y
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2008年大晦日 もみじ山

2008年大晦日 もみじ山

穏やかな年末。午後、ひさしぶりにもみじ山から尾根伝いに浅間山まで歩いた。
山はすっかり冬支度で落ち葉の海となっていた。
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見下ろす相模灘も穏やかだ。江ノ島もくっきりと見える。
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2008年、60歳の私の影。
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ぽっかり、ちぎれ雲が浮かんでいた
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夕暮れになると、夕焼になった。

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by yamato-y | 2008-12-31 18:55 | 登羊亭日乗 | Comments(0)

99歳の記憶と実感

99歳の記憶と実感

昨日は、およそ4時間にわたって大伴昌司母堂アイさんの話を聞いた。アイさんは来年数えで100歳である。福島県の出身で、宇都宮の女学校を卒業後東京に出てきて通信社の女性記者として活動し、25歳で結婚して、大伴昌司を得た。結婚相手はアメリカ帰りの評論家四至本八郎である。彼は大阪泉州の出身で早稲田を卒業後アメリカに渡り、カリフォルニア大で学んだのち、サンフランシスコの日米タイムスの記者として筆を振るう。帰国後はアメリカでの知見を広く世間に伝え、「頭脳(ブレーン)トラスト」など戦前のベストセラーをものした。

アイさんの女性記者時代の数奇な人生は最近荒俣宏氏が聞き書きして、ある銀行のPR誌で紹介され話題になった。出口王仁三郎や林芙美子と直接言葉を交わした体験が実にみずみずしく表されていたのだ。

99歳の記憶はあまりに膨大だから、ここでは夫八郎にまつわる戦後史を少しだけ記す。サンフランシスコ講和条約の前の年のことだから1950年の出来事だ。
その年のクリスマスイブに夫の八郎は長野県選出の代議士植原悦二郎といっしょにアメリカに旅立った。日本の独立を求めてアメリカ国務省との交渉にあたるためだ。この機密命令は当時の首相吉田茂筋から来た。アイさんは詳細を聞かされていないが、うすうす感じた。植原は副総理格だった。ワシントン州立大学出身の植原とカリフォルニアでジャーナリストとして活躍した八郎の二人がその重大な任務を与えられたのだ。

当時、アメリカ占領軍はまだ進駐を続けたいと考えていた。というのは、本国に帰ってもたいしたことのない連中だが、占領国にいるかぎりにおいては好き放題なことができる「利権」を手放したくなかった。だが、この連中と関わっているかぎり、日本の発展は望めないと一日も早い独立を吉田茂は目指した。と、アイさんは解説してくれた。なかなか面白い話だが、どれほど実体があるだろうか。この辺はウラをとってみないといけないだろう。いずれにしても、占領からの脱出は日本人の悲願であったのだろう。

1950年のクリスマスは寒い日だった。羽田から飛び立つというノースウェストのプロペラ機はみすぼらしくこれで太平洋を飛べるのかとアイさんは思ったそうだ。航路はアリューシャン列島を飛び石のようにした。
このとき、八郎が支給されたのは一日25ドル。こんな金額ではワシントンでは安宿にしか泊まれず、アメリカの役人から見透かされる。所持金を個人的に工面すべきと、上原は株券を売った。八郎は貯金をおろしニコンのカメラを2台買った。これをアメリカで売却して得た300ドルをもとに500ドル所持した。これらはあくまでポケットマネーで、その後も日本国から何も支給されていない。アイさんはこう言った。「昔の政治家は国のためには自分の財産も投げ出すという気概がありましたよ」
こうしてワシントンに入った二人は次の年の3月まで、毎日国務省とやりあった。
帰りの飛行機は軍用機でグアム島に到着し、そこから日本へ帰還となった。

そして7月。吉田茂はサンフランシスコに出掛けて、講和条約に調印し、日本の占領が終わることとなる。

八郎はおしゃべりで、何でもアイさんに話す人だったが、このときのことはいっさい口を噤んだ。何があったか、誰と交渉したか、いっさい話をすることもなかった。こういう「覆面大使」の出来事があったと自慢することもないままこの世を去っている。

私は初めて聞く話だった。アイさんの証言がどこまで歴史の事実と合致するのか知らない。だが、その具体性にはひかれるものがある。少し、占領史でも紐解いてじっくり調べてみたい。一方、100歳の証言は今のうちにできるだけたくさん記録したいと考えた。
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by yamato-y | 2008-12-30 09:14 | 大伴昌司の遺産 | Comments(0)

メディアの飽和点

メディアの飽和点

テレビ番組はなぜ停滞から衰弱へと後退しているのだろう。
昨夜も年末特番のいくつかを見た。それなりに新しい工夫をしているのだが、番組は全体としてどうってことのないものでしかない。
例えば、6チャンネルでやっていたスポーツバラエティ。かつての名作「筋肉番付」を改善して、アスリートだけの戦いに素人の愛好家に下駄を履かせて参加させて競わせている。
フットサルの競技では、全日本サッカーの男子花形プレイヤー一人となでしこジャパンの女子で混成されたアスリートチームに対してお笑いタレントでサッカー実績をもつ者と引退した全日本男子の混成された挑戦者チームの戦い。この場合、挑戦者側が点をいれると2点として換算されるとして勝負を面白くさせている。

サッカーの専門家をフットサルという別競技に置き換えて、かつ挑戦者も単なる嗜みを越えた実力者たちで構成されているなど、新しい演出を加味しているのはよく分かる。たしかに、その試合は面白かった。
が、ワイドなこのスポーツバラエティが終わってみると、その面白さはすぐ消えてしまう。特番を見た興奮は薄く持続しない。
12チャンネルでやっていた、久米宏司会の「新日本人」を考えるという特番もそうだった。スタジオ、ビデオリポート、ともによく出来ていると思うが、終わってしまえば心に残らない。
なぜだろう。十年前だったら、十分話題となった番組が、どれを見ても心にしみ込まないのだ。
あえて言えば、既視感か。初めて見るはずの番組だが、どこか見たことのある何か予測がつくような構成/演出というのが多い。それを乗り越えようと工夫すればするほどズルズルとその方向へ溶解していく。

一方、アーカイブスの映像をもてはやす向きもあるが、それとてやはり熱度はない。「全員集合」の舞台は今見てもすごいと思うが、ではこれで番組編成できるかといえばそれは難しいだろう。「全員集合」の場合、舞台中継という点がひとつのポイントになっているが、客席のちびっ子たちの熱い思いが時代を構成していた。その思いは現代にはないから、再放送されるコンテンツはゴースト(亡霊)でしかない。

こんなふうに考えると、テレビというメディアは今交代期に入ったと考えざるをえない。
50年前、映画とテレビのメディア交代が起きた。映画の全盛期がわずか3年で入場者が半減したのだ。一方、テレビ受像機の数は倍々ゲームで増加した。全盛期の頃の映画は何をやっても面白く当たった。小津や成瀬、黒沢、木下という巨匠も活躍したが、東映のこども向けのチャンバラ映画や大映の娯楽映画にも客は入っていた。
ところが、数年すると、何を企画しても二番煎じのようにみえてきた。以前のように社会現象にはならず、「映画界」だけのヒットという観点に変わっていった。今、ハリウッド映画がそれだ。「レッドクリフ」「地球停止」など巨費を投じて製作されても、どうしても見たいと思った「007」のようなオーラがない。そこで、旧作のリメイクやアジア映画の脚色などで趣向を変えようとするが、すればするほどつまらない。あり地獄に呑まれたような状況となっている。

テレビも同じことになっていないか。映画全盛のころの映画人はおごっていた。テレビを電気紙芝居と軽んじ五社協定を結んでテレビへの協力を拒んだ。安逸を貪っているうちに映画は新興メディアのテレビに追い抜かれ、以後50年娯楽の王様の座はテレビに奪われることになる。この場合、映画とテレビという交代だった。

ではテレビは何と交代か。ネットか。ネットはすっかり定着し、テレビのメディア性を浸食するというより、独自に発達を遂げている。テレビは新しいメディアにとって代わられるというより、自衰していくのではないだろうか。どうも、そう思えてならない。

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by yamato-y | 2008-12-29 10:21 | Comments(0)

番組冥利

番組冥利

こんな言葉をいただいた。
《先ほど、NHKアーカイブスで「もう一度投げたかった」の再放送を久しぶりに見て検索しこのブログを発見しました。94年の最初の放送から何度も見ているのですが、いつも涙が出て止まらなくなります。私も43才になるオヤジなんですが・・・。
94年当時、私は自分の仕事への適性と能力に悩み、新卒で入社した制作会社を辞め自宅に引きこもっていた時期でした。結局、今も同じ仕事を続けています。あの時、背中を押してくれたのが「もう一度投げたかった」でした。見終わって、履歴書を買いに行ったことを覚えています。
ささやかな私の再起のきっかけになってくれた思い入れがあるせいか、何度見ても大泣きしてしまうのです。今も悩みは多いですし、日々苦しいことの連続ですが、この仕事を続けようと思っています。制作者の方に一言、お礼を言いたいです。あの番組を作ってくださってありがとうございました。また新しい気持ちでやっていけそうです。》

エネルギーの交換ということを思う。この言葉を贈っていただいた方は、制作担当である私に感謝を述べていたが、私自身この人の言葉で励まされる。時に、テレビの番組って何だろうと迷うことが多いなかで、こういう言葉をもらうと、再び立ち上がってみようという気にさせてくれる。私らがあなたの背中を押したなら、あなたが今度は私らの背中を押してくれている。それって、生きるエネルギーの交換ではないだろうか。

ああ、ずいぶん忘れていた。人を励ますような、生きていくことを肯定してくれるような作品。そういう志は最近どこかへ置いてきていた。
なんとか、企画が通るようにと、今風のネタをあれこれ探ってばかりいた。番組を制作することが目的で、どんな番組を作りたいかは、近年気持ちが薄らいでいたといわざるをえない。

昨夜、映画「君に読む物語」を見た。どうってことのない映画だったが、その青春の部分にだけ心ひかれた。若い男女がひたむきに一夏愛し合うその迸りに心奪われた。あんな日があった。そうだった。見終わったあとの余情を味わいながら、こんな思いの番組を作ってみたいと、思う。

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by yamato-y | 2008-12-28 13:23 | 新しい番組を構想して | Comments(0)

暮れの取材

暮れの取材

暮れの忙しいこの時期に、わざわざ1時間空けていただいてインタビューをさせてもらった。
新井薬師に住むK元編集長である。Kさんには2ヶ月ほど前に一度話を聞いているのだが、どうしても事実確認をとっておきたいことが残っていた。この部分を持ち越したまま年を越すわけにはいかないと、いささか焦りぎみでアポをとってもらったところ、土曜日の夕方に時間を指定された。

寒風のなか西武新宿線で新井薬師まで行き、予定時刻より20分早く現地到着して、家の前でスタンバイした。Kさんはおっかないのだ。いかにも”鬼編集長”といわんばかりの立派なカイゼルひげの御仁だ。声は大きくときには小さく、爛々とした眼差しかと思えば慈愛に満ちた笑顔に豹変する、真意がどこにあるか読みにくい。若造であれば手もなくひねられそうな手強い人だ。前回もその迫力に押されて、一番大事な部分を聞き逃してしまった。そこを聞いておかなくではいけないと分かっていたのだが、その話を切り出すと怒鳴られそうな気がして、私は避けたのだ。ジャーナリストとしてはあるまじきことだ。
だが、日を追って聞かなかったことの重大さが明らかになってきた。キッズカルチャーの黎明期の重大な案件を立証する、たいせつな事実だということが浮き彫りになった。ここを外しては物語が成立しない。そうして、意を決して再度挑戦となったのだ。

午後4時、夕方のチャイムが鳴るのを確認して、呼び鈴を押した。

冒頭、お忙しいところ再び応じていただいて感謝していますとお礼を申し上げた。Kさんはここ数日いろいろなことがあって体調がややすぐれないような口ぶりだった。あまり長居はできないと、早速、用件を私は持ち出した。
すると、Kさんもその案件についてはいささか気になっていたので、きちんと話したいと考えていたと話すではないか。さすが、雑誌創刊の名人といわれるだけあって勘が鋭い。
詳細は書かないが、一つだけ心に残る言葉があった。「ぼくは、部下を引き連れて飲み歩くようなことはしない」
この一言であることが氷解した。Kさんはすべてを語るわけでなく、ある事実の存在を暗示してくれたのだ。このとき、私はサツ回りをする事件記者の苦労が少し分かった気がした。

Kさんの時代から「オバQ」のテレビ化が始まった。そのテレビが始まったとき、ある少年から投書があって、オバQの声が違うと指摘されたことがある。Kさんはこのとき、漫画を読むとき、いかに子供たちがその世界に没入しているかを知った。

お宅滞在は約束の1時間をはるかに越えた。6時近くまで、Kさんはあれこれ教示した。こんなに長時間話していても大丈夫だろうかと気にするほど熱心に語ってくれた。その間、私は2度トイレを借りた。「あなた、一度病院で診てもらったほうがいいよ」とやさしく忠告を受けた。

帰路、いっしょに行った仲間とKさんの男気について話し合った。本所生まれの典型的な江戸っ子であるKさんは、口は悪いが心根の実に優しい御仁だということで意見は一致した。

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by yamato-y | 2008-12-28 12:15 | Comments(0)

今年一番の冷え込みで

今年一番の冷え込みで

総武線に乗って幕張本郷まで行った。カメラマンのKOちゃんを見舞うためだ。3度目の入院をしていたが、やっと家に戻ることが出来るようになったと聞いたから。彼はかつて優れた映像をいくつもものした。彼の特徴は映像派だが「文武両道」だということ。ドキュメンタリーも撮るがドラマも撮れるカメラマンだった。「水の中の6月」という名作ドラマがある。ドキュメンタリーは「とんぼになりたかった少年」という名作のほかに、私といっしょにやった「世界はヒロシマを覚えているか」がある。私にとって”戦友”だ。端正な顔立ちで1メートル74センチの細身で姿のよいカメラマンだ。ただ野球選手のようにケツだけは大きかった。あの重いカメラをかついでそこらじゅうを走り回っていたから当然だろう。

年齢は私より5歳若い55歳。まだまだ仕事のできる年だ。
北総台地の北風が吹きぬける町に私は降りた。駅まで奥様が車で迎えに来ていただいて彼の家にお邪魔した。
扉を開けて、彼の姿を目にしたとき、その変わりように胸が衝かれた。往年のハンサムカメラマンの体が半分になっていた。痩せていた。
2つ病をかかえているという。肝炎と糖尿である。この二つは真逆の療養が求められる。肝炎は出来るだけ栄養価のあるものを食べなくてはならない。糖尿は高蛋白なものはひかえる。このベクトルが相反する困難の治療を続けながら、KOちゃんは闘病していた。
だが、肝炎の原因を聞くと悲しいというか腹立たしい。9歳の頃にかかったおたふく風邪の治療のときにした輸血が原因でキャリアーになったのだ。だから若い頃から深酒もできるだけ控えていたのだ。
痩せた体には寒さがこたえるようだ。暖かい室内でも首にマフラーを巻き厚い靴下をはいていた。でもセーターもマフラーもおしゃれな色使いは少しも変わらない。昔からスマートだった。

家族が健気に支えていた。奥様が献身的であるのはもちろんだが、大学生の息子さんも明るく、お父さんの病状に対しても深刻な眼差しにしていないことに、家族が一丸となって病と闘っていることがみてとれた。
私はときどき言葉を失い、くだらない冗談しか言えなかった。
陽が陰る前に別れの言葉を告げて、駅に向かった。冬の青空はかなしいほど美しく澄んでいた。

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by yamato-y | 2008-12-27 09:20 | 登羊亭日乗 | Comments(0)

しみじみと

しみじみと

1人、大磯の家に帰ってきた。夜道を歩いていると、西の空に美しい星が光っていた。今日はクリスマスか。

60の男は40年も前を偲ぶ。高校生から大学生になりかけた頃だった。豊かな暮らしと思っていたが、後から考えるとまだまだ日本は貧しかったのだろう。音楽だって、若者が中心でなかった。大人の歌謡曲の隅っこに青春歌謡があっただけだ。

西郷輝彦が好きだった。「チャペルに続く白い道」「初恋によろしく」という歌を繰り返しては歌った。あのころ、東映の青春映画で、西郷が主演で本間千代子がヒロインで登場した青春映画があった。タイトルは忘れたが、舞台は伊豆の波勝崎だったと記憶する。海辺の町の高校生の物語だった。そういう町に住みたいと願ったことが、今、湘南の海辺の町に住む理由になっている。

家に戻って、ユーチューブで、この歌を探して、カラオケ代わりに大きな声で歌ってみる。
♪合歓の並木のこの道は、チャペルに続く白い道 野原を越えて鐘の音は・・・

私の青春、というかもっと続く番組作りの青春。それは38歳がピークだったか。私はディレクターとして張り切っていた。大江健三郎さんと、核の問題で世界を一周した。「世界はヒロシマを覚えているか」というドキュメンタリーだ。旧ソ連とアメリカを交互に取材した。そのときのカメラマンが親友のコダカちゃんだ。私の一番大事な番組を撮影してくれた、かけがえのない友だ。

彼が病気になった。篤い病だ。今病床にある。本日、その容態を知った。
明日、私は幕張まで行って、彼を見舞う予定だ。彼は14年前私が倒れたとき、遠い辺鄙な病院に2度も訪ねてくれた。その恩はけっして忘れない。

彼とは、大江さんがノーベル賞を受賞したとき、二人で密着取材した。夜の深いストックホルムで議論しながら、大江さんと光さんを撮影したことを、昨日のことのように思い出す。
2008年の終わりに、友のことを思う。

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by yamato-y | 2008-12-25 22:26 | 魂のこと | Comments(0)

暮の2つの訃報

暮の2つの訃報

22日、朝隈善郎さんが(あさくま・よしろう=日本陸上競技連盟名誉副会長)老衰のため死去した。94歳だった。葬儀は昨日24日に行われたと新聞は報じている。朝隈さんは広島県の出身で、明治大学在学中の1934年、走り高跳びで日本人初の2メートルを記録した。36年のベルリン五輪にも出場した伝説的なアスリートだ。

一方、指導者としても優れていた。愛弟子山田宏臣との結びつきは伝説となっている。その話を、3年前に私は番組にした。2005年10月29日 総合テレビで放送した『ペルソナα ~伝えたい昭和の心~』だ。山田宏臣は順天堂大学の走り幅跳びの選手だったが、朝隈に憧れ、京都に在住する朝隈を師事した。東京から京都まで通う、遠距離トレーニングとなる。京都の知恩院での朝隈の練習法はある意味で前近代的といえるものだった。知恩院の石段を往復させるという、まるで姿三四郎のような根性論のような練習だった。周囲からはその効果を疑問視する声も起きた。山田もときには迷うこともあった。だが、朝隈の内心は分からないが、けっしてその方法を変えることなく愚直に繰り返した。

そして、1970年(昭和45年)6月7日、神奈川県小田原市の小田原城山陸上競技場で開催された実業団・学生対抗陸上大会で、山田宏臣は8メートル01を跳び、日本人で初めて8メートルジャンパーになったのだ。いつも、競技場で見守る朝隈はこの日いなかった。実は、この大会に参加するつもりで早朝家を出たのだが、わしがいれば山田はまた緊張することになるだろうと朝隈は考え、家に引き返したのだ。8メートル越えの喜びの一報は、山田本人から朝隈に入った。二人は溢れる涙を抑えきれなかった・・・。

この出来事をそのまま、短いドラマに私はした。朝隈の役は近藤正臣さんが演じてくれた。その渾身の演技は、ドラマだと分かっていても感動したことを覚えている。その後、朝隈さんは京都を離れて療養していると聞いたが、ついに亡くなったのだ。94歳天寿を全うしたと思う。

 昨日、もう一つ訃報が入った。クリスマスイブの未明に先輩が昇天した。ドキュメンタリストのカタさん(68)だ。ここ数年病と闘っていると聞いていたがついに倒れたのだ。通勤の途中、ケータイに知らせが入った。教えてくれたSさんも同世代で自身病を託っている。哀しみは深い。
新聞はこう報じている。

片島 紀男氏(かたしま・のりお=「平沢貞通氏を救う会」事務局長)24日午前3時28分、食道がんのため東京都八王子市の病院で死去、68歳。東京都出身。
 彼は骨太なドキュメンタリーを作り続けた。昭和史の闇のなかに分け入って、権力とも真っ向から立ち向かっていくつもの名作をものした。まだ68歳だ。こんなに早く倒れるとはおもってもいなかった。明日夜、通夜に行くつもりだ。そこで、カタさんの仕事、人生についてじっくり考えてみたい。

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by yamato-y | 2008-12-25 15:25 | 登羊亭日乗 | Comments(0)

父子碑

大伴昌司と父の顕彰碑

12月3日に、大伴昌司と父四至本八郎の顕彰碑が建てられた。
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場所は大阪府岬町淡輪(たんのわ)。父八郎のふるさとである。南海本線で難波からおよそ1時間、紀州との県境にある。大阪湾のほとりにあって、対岸には淡路島が見える美しい地だ。
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淡輪駅は改札口が一つしかない小さな駅舎。そこから浜の方に向かって100メートルほど下っていくと信号のある交差点が見えてくる。その四つ角の一角に顕彰碑は建っている。
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碑は向かって右に父の業績、左に大伴の業績が刻まれている。横2メートル、縦1メートルほどの黒御影石の立派なもの。
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人物は大伴の縁戚にあたる柴崎覚さん。この柴崎さんは地元の名士で、八郎伝説には詳しい。
見つめているのは、大伴のルーツとなった四至本家があった場所。顕彰碑から200メートルほどのところにある。20年前までここに古い屋敷があったのだが、無住となって荒れたので廃棄された。敷地は600坪ほどの広大なもので中央に巨樹がそびえている。

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by yamato-y | 2008-12-23 17:22 | 大伴昌司の遺産 | Comments(0)

同窓会居酒屋

同窓会居酒屋

9時のニュース企画でいい話を知った。
新橋の居酒屋で全国700の高校の名前を記したノートが置いてあるという。それぞれの高校の同窓生がそれぞれのノートに落書きする。落書きといってもおふざけではない。不況やリストラの波に洗われている中高年のサラリーマンや中小企業の経営者たちが、自分の苦しい胸のうちを記す。それを見た同窓が付け加えやアドバイスを書き込むというのだ。この話に感心した。

単なるノートに書き込むというのはあるが、中高年が対象で、しかも出身高校別にノートするという考えは秀逸だ。中年のおじさんという括りだけではなく、○○県立××高校という区分で仲間の輪を作るというのは、少なくとも40代以上のオヤジにとっては「駆け込み寺」のようなものだ。倶楽部とか教会という中間共同体をもたない日本人にとって、高校という母校(母港)はとても大切なものだと思う。

同じ高校といっても年次が異なれば付き合いもないのが普通だ。だが、仮に面識がなくても、同じ高校に通ったという仲間意識は言うに言えない「堅い」ものがある。
話はまったく違うが、「冬のソナタ」の主人公たちもそうだった。春川高校の放送部の仲間という意識が深い絆を示していたではないか。
たしかに、こういう絆は一方では排除の論理もはたらくが、それよりも今起きている不況不安と必死で闘っている人にとっては、心強い味方になってくれると、私には思えてならない。

ところで、この居酒屋の名前がニュースでは紹介されなかったが、私はきっと新橋の「有薫」ではないかとみた。店内の様子や従業員の衣装でそう感じた。一度だけ行ったことがあるが、たしか居心地のいい店だったはずだ。

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by yamato-y | 2008-12-18 23:30 | Comments(2)


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