定年再出発  


懐かしい空
by yamato-y
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定年祝い

定年祝い

昨夜は青山の「はがくれ」というモツを食べさせる店に行った。Mさんのご所望だったからだ。
Mさんは2ヶ月ほど前に57歳となり定年をむかえた。そのお祝いのささやかな会だ。

3年前に私が定年になったとき、彼は私を銀座裏の美味しいふぐ屋に連れて行ってくれてお祝いをしてくれたのだ。その心遣いがとても嬉しかったから、そのお返しのようなものだ。それにしても、ふぐ屋とモツ屋ではえらく値段の開きがある。それでいいのかと聞くと、M氏はあの頃は酒を飲めたが今はやめていて、食べることだけだから、食べたいのはそのはがくれの美味しいモツだ、というので店を予約して行った。知る人ぞ知る名店で、予約をとるのも簡単でなかった。

宮益坂を登って、青山学院の近くの裏通りにひっそりとあった。店の戸を開けると、モツ焼きの美味しそうな匂いが漂う。
オープンキッチンには白衣の板前さんが二人、かなりの年配。お運びの中年女性が一人、でてきぱき仕事をしている。これはきっといい店に違いない。レバーの刺身がうまそうだ。

二人席に腰を据えて、おまかせにして食することにした。私は瓶ビールをとり、彼はウーロン茶の入ったコップで、まずは乾杯。
「30年間、ご苦労さん。これからもよろしく」
当人は照れくさそうに、まだ13年は働きたいのだがと鼻を指でこすりながら言う。孫が成人するまでということ。この人は臆面もなく孫ぼけを語る。

M氏と私との付き合いは20年になる。因縁浅からないのは、私が脳出血で倒れたことにある。
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by yamato-y | 2008-11-29 08:39 | Comments(0)

番組のご案内

番組のご案内

いよいよ明後日の放送となる。ETV特集。
「新しい文化“フィギュア”の出現~プラモデルから美少女へ~」
時刻は午後10時00分~11時30分

番組の見どころや情報は、ETV特集のホームページに詳しく出ている。参照していただければ幸いだ。元来、ETV特集とは硬いイメージがあるが、そのなかでは異色ではないだろうか。
とにかく、フィギュアなんてことに全く触れたことのない人たちにも見てほしいと制作した。この番組の主人公ボーメさんの作品展が今名古屋で開かれている。その地域の人たちはぜひごらんになることを薦める。とにかく実物のもっているオーラは凄い。

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by yamato-y | 2008-11-28 15:20 | Comments(0)

自己回帰

自己回帰

近年、再帰的という概念がよく使われて、特に社会学的に考察されるケースをどういうことだろうと考えることが多かった。
だが、それとよく似た言葉だが、まったく違う「回帰」という言葉が昨夜来ずっと私をとらえていて離さない。
回帰ーー元へ戻ること。ぐるーっと動いて再び元の位置まで戻ってくること。

自分の人生にそれを見るのだ。敦賀で生まれ育って、金沢に出て、大阪ー東京—長崎—東京—広島—東京と転々とした。還暦となった。最後の東京へ戻ったのが1995年だから現在の位置には13年居ることになる。だから、ずっと東京にいた気分が最近多かったが、振り返れば人並みかそれ以上動いていた。ひょっとすると、今も移動中かもしれない。
そこで回帰ということが気になってくる。この場合の回帰は原点回帰ではない。つまり、敦賀に意味を見いだすのではない。自分がかってあった「場所」にもういちどこだわってみるということ。二つの町、金沢と長崎が浮かび上がってくる。

老人的な回顧といわれればそうかもしれないと答えよう。だが、過ぎ去りしことを再び呼び出すことは感傷だけとはかぎらない。なにか、そんなことを感じるのだ。

なぜ、金沢と長崎なのだろう。そこを知りたい。ただ直感で思うのは、その時代に抱いた希望とプライドを思い出したい。
井上靖の「流星」という詩を想起する。金沢の四高生だった井上が、ある冬の夜に内灘の砂丘に行って、マントにくるまって天を仰いでいる。夜空には満天の星。そこに、ひとつ流れ星。つつーっと流れた。

高等学校の学生の頃
日本海の砂丘でひとりマントに身を包み
仰向けに横たわって星の流れを見たことがある
11月の凍った星座から 一條の青光をひらめかし
忽焉とかき消えたその星の孤独な所行ほど
強く私の青春の魂を揺り動かしたものはなかった

今、引用して、自分が覚えていた詩と違っている。この流れていった星を、(私は)おのが額でいつかきっと受け止めるだろうと大志を抱いたと覚えていたが、そんな文言はない。
40年前、この詩を読んで、私はそう「誤解」して、今日まで来た。そういうことを考えてみたい。

 
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by yamato-y | 2008-11-27 10:23 | 魂のこと | Comments(0)

わずか3ヶ月で

わずか3ヶ月で

夏に赤塚不二夫が逝ったときちょっぴり悲しかったけれど、暗い気分はなかった。長く植物状態で闘病していたから、どことなく「お疲れ様」と言いたいものもあった。直後に、下落合の赤塚さんの事務所にうかがい仏様に手を合わせたときも、写真の赤塚さんは笑っていた。

うだるような熱い日に葬儀が行われたが、おおぜいのファンが詰めかけて手をあわせていた。バガボンの主題歌が流れるなか霊柩車が去って行った。けだるい疲れがあったものの深刻なものはなく、いかにも赤塚不二夫らしいと思った。世の気分も暗くはなかった。

―-あれから3ヶ月。巷にはどんよりした空気が流れている。朝の湘南ラインで、中吊り広告では景気の悪さと愚痴のような怨嗟のような声がひしめいている。声の大きなおばさんたちは家族の話ばかりしている。罪がないといえば罪がない。むっつり腕組みしているオジサンやケータイをのぞきこんでいる女性たちの表情は冴えない。

 世界経済の落ち込みから、来年の就職戦線は再び氷河期に入るというし、都内のマンションが投売りされていると聞こえてくる。政治は首相が外遊ばかりしていて、内政はほとんど停滞したまま。理解できない犯罪は頻々と起きる。これでは暗くなるのが当然だが、何か打開する方法があるのだろうか。わずか3ヶ月の間の激変には驚いてしまう。

 
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by yamato-y | 2008-11-26 18:37 | Comments(0)

一人酒

一人酒

夜更けに祈っている。何かに対して助けてくださいと。それの結果が出れば、それは救われたということになる。救いは救ってくれる主体があって、救われる私という客体の主体がある。

昨夜、「鷲は舞い降りた」という往年の名画を見た。ドナルド・サザーランド主演の重厚な映画だ。オープニングを少し見て、一度この映画は見たことがあると思い出した。だが、初めて見るように映画の森に入っていくことができた。構成、演出が巧みなのだ。
この映画で不思議な台詞を聞いた。ドイツ国軍大佐が、チャーチル英国首相誘拐の計画を練るときに発する言葉だ。この突飛な計画をヒトラーから命令されたとき、それを後押しするような情報がこの大佐にもたらせるのだ。まるで偶然のように。

そこで、黒い眼帯を巻いたこの大佐は、部下にこういう言う。「君はユングを知っているか」
カール・グスタフ・ユング。ドイツの偉大な精神分析の権威。彼が偉大である、一つ理由にシンクロニシティを説いたことだと、大佐は言うのだ。
チャーチルを誘拐しようというときに、彼が警戒の薄い港町に休暇をとりに来るという情報が「偶然のように」もたらされる。この人生の偶然をシンクロニシティ(共時性)と呼ぶ。

戦争アクション映画で、こういう台詞を聞くとは思っていなかったので、そのあとの好奇心がさらに引き出されて、映画をとても楽しく見ることができた。

しかし、シンクロニシティの意義は深い。人生に偶然はない。すべて、必然である。とすれは、今起きているこの事実もまた、不可知な意味があるのだろう。

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by yamato-y | 2008-11-24 23:26 | 魂のこと | Comments(0)

ミュージカルに浸りながら

私を野球に連れてって

映画「Take Me Out to the Ball Game」(私を野球に連れてって)を見た。フランク・シナトラ、ジーン・ケリー出演のミュージカル映画だ。
先日読んだ津野海太郎さんの本を読んだ影響かもしれないが、無性にアメリカンミュージカルを見たくなって、この週末レンタルしたDVD4本のうちの1本をこれにした。

物語はどうってことないと誰かが批評していたが、その通り。だからといって悪いわけじゃない。戦前の陽気なヤンキー魂が幸せな形でよく出ていると思った。
20年ほど前に、シカゴでカブスの試合を見たことがある。その7回だったと思うが、チェンジタイムのときに、この主題歌Take Me Out to the Ball Gameが流れていた。

「フィールドオブドリームス」や「がんばれベアーズ」など野球映画はだいたい素晴らしいが、このミュージカルもいい。
日本でこの良き時代の野球をテーマにした「青春ミュージカル」を作るなら、ぜったいに昭和34年の長嶋が2年目、王が入団したときだ。阪神に村山がいて、セントラルリーグがパシフィックリーグを少しリードし始めた頃が一番いいと思う。

「少年サンデー」の初代編集長に聞いた話。創刊号の表紙の写真はどうやって決めたのですかと問うと、迷わず長嶋に決めたと答えた。どうして。
うちの子供たちが、巨人が負けると勉強しないのだよ。かみさんが手を焼いていた。それほど、巨人の長嶋の人気はすごかったのだよ。

小津の映画にも、たしかグローブと球を手にした幼い兄弟が出て来る。ちょうど、この時期ではなかっただろうか。ラジオの時代で、地方では実況中継の音声を聞きながら興奮したものだ。
だから、目の当たりに出来る高校野球は人気絶大だった。

ところで、日本の野球のミュージカルだったなら、どんな設定と仕掛けにするかな。
まず、主人公は兄弟二人。兄は5年生、弟は3年生。ベビーブーマーだ。地方都市に住んでいて、巨人の遠征がやって来るということで、家庭でも学校でも話題となり、入場するためにドタバタするなんてのはどうだろう。球場には大人の同伴でなければ入れないとなっている。兄弟の父親は野球なんてと関心を示さない。ともだちは新聞社に勤めている父親のおかげで内野のいちばんいい席をリザーブしたと自慢する。開催の日が近づくが、なかなか入場券が手に入らない。頼みの綱は、父の弟つまりおじさん。・・・・・

なんて妄想をガラガラめぐらす。


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by YAMATO-Y | 2008-11-23 21:31 | Comments(0)

グリーフワーク

喪の作業(グリーフワーク)


悲嘆、悲傷――胸が裂かれるような悲しみ
休日の午後ということで、パソコンとトートバッグを持って駅前に行った。目黒アトレの有隣堂に入って新書を漁った。2冊、気になる本があった。作家眉村卓の「妻に捧げた1778話」(新潮新書)と川本三郎の「向田邦子と昭和の東京」 (新潮新書 259)」両方とも新潮新書だ。

昨年の夏、「日本SFの50年」という番組取材で、私は眉村さんに大阪のホテルで2時間インタビューしたことがある。その折に、記念にと眉村さんからいただいた私家版の本が「妻に捧げた1778話」の原本だった。不治の病にかかった奥様のために、毎日一話ずつお話を書くということを実践した本だ。奥様は5年の闘病を経て、3年前に亡くなっておられる。その私家版をいただいたとき、私は眉村さんの誠実と愛情の深さに驚き感じ入った。これが広く知られないであるのは残念な気がしていたから、今回出版されたと聞いて嬉しい。

川本さんの著作は好きだからすぐ手にとる。主題が向田邦子とくればなおさらだ。その内容についてはまた別に書こう。
あとがきが気になった。向田が乳がんになったときのことを、川本さんはとても興味深く書いている。その病を恐れた向田の悲しみのようなものを川本さんが深く共感しているのは、今夏、川本さんが最愛の奥様を亡くしたことと関係があるのではないかと、私は思う。詳しくは書かないが、どうもそんな気がしてならない。

眉村さんも川本さんも大人だから、ベターハーフを喪失したことを声高に語っていない。だが、なにかいい知れない悲しみが充満していると、私は受け取った。

このところ、ずっと私は「喪の作業」ということに関心をもっている。愛する人を亡くしたとき、残されたものの悲しみをどうやって放出、止揚、解消、納得させるのかという難しい作業のことにだ。
まず、愛する人を失うことを悲嘆または悲傷と名付けたい。英語ではグリーフ。

半年ほど前に、私は昔よくかよった居酒屋の主である親父と女将を探した話を数回にわたって書いた。消息を尋ねると親父は3年前に癌で帰天していた。残された女将は悲嘆のあまり姿を消したのだ。行方を探した。あれこれあって、所在を知った。が、当人は私たち昔の仲間たちとは会いたくないと拒絶した。彼女の悲傷があまりに深いのだと知った。

時折、その人に連絡をとる。悲しみはまだ癒えない。続いている。

病気で、愛する人を失っても悲しみが深いなら、自殺で亡くした家族はいかほどの悲しみとなるのだろう。ウェブで「自死遺族」という言葉を知った。家族から自殺者が出てしまった人たちを「自死家族(自死遺族という言い方もあります)」と表現する。残されたこの人たちの苦痛や苦悩は、想像を絶するものがある。ずっと自分を責め続ける。あのとき、なぜ私は救うことができなかったかと。

人を失った後の「悲しみ」というのが、どれほど深いか。
こんな言葉があった。「悲嘆の苦痛は、愛の喜びと同様に人生の一部なのです。それはおそらく愛のために支払う代価、人と結び付くことへの代償なのでしょう」
愛が大きければその代償も大きくなるという理屈は分かる。美しい言葉だが外部にあれば美しいといえても、当事者にとってはどれほど辛く苦しいものか。悲嘆を隠し遅延させることは予期しないような大きな結果を生み出すこともある。自分ではコントロールできないようなモンスターが出現するのだ。精神を病むことになる。

この自死遺族の声が、「彼方へ哀しみの時」というサイトにある。ぜひ、大勢の人に読んでほしい声だった。

吉本ばななの最新作『彼女について』。ややケースが違うかもしれないが、この本もまた「喪の作業」を主題にしていた。

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by YAMATO-Y | 2008-11-23 18:23 | Comments(0)

赤塚不二夫ドキュメントやるべし

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バカでいいのだ

下落合のフジオプロに行ってきた。社長の赤塚りえ子さんに、本格的に取材を始めることを伝えることと、ディレクターの紹介を兼ねて訪問した。

高田馬場から一つ目、下落合は閑静な住宅街だ。駅前に妙正寺川が流れている。川沿いに歩いて5分。あのフジオプロの金のバガボンパパ像のあるビルに着く。

久闊を叙して、先日の「日本の現場、ちばてつや」を制作したと報告すると、りえ子さんはとても喜んでくれた。先日、お会いしたときは両親が相次いで亡くなるという不幸のため、りえ子さんは憂い顔だったが、今日は時折笑顔も見られた。

父は根は真面目な人でした、と語る。破壊と創造を繰り返す人でした、と回想するりえ子さん。先日、トリビュート版のCDが発売されたが、りえ子さんのプロデュースによる。この作品もなかなか評判がいい。

辞去する前に、赤塚さんと奥さんの御仏壇に手を合わせるため、ビルの2階にあがる。
礼拝したあと、広間の壁に赤塚さんが書いた「命令書」があった。
《今日から赤塚不二夫のことを社長先生と名前を呼ぶように命ず
                 平成14年 吉日 赤塚不二夫》

14年当時、奥さんの真知子さんが責任者だったので、スタッフはみな真知子さんを社長と呼んだ。それを聞いた赤塚さんは、真知子さんに文句を言った。「おまえは、奥さんなのに社長さんか」
そして、上記の命令を出したわけだ。大の大人がすることだろうか。なんとなく可笑しい。
赤塚不二夫という人はいつも人を笑わせたり楽しませたりすることばかり考えていた。
「もっと真面目にふざけなさい」・・赤塚名語録。

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by yamato-y | 2008-11-21 17:25 | Comments(0)

少年誌の青春時代②

編集者の情熱

 総理大臣がろくに字が読めないのは漫画ばかり読んでいるからだという、からかう意見が出てきた。
ああ、やはりこんな議論が起きるのだろうな、この数年漫画やアニメなど”サブカルチャー”が注目され持て囃されてきたが反動が来るかもしれないなと若干危惧していたのだ。そう思ったのは、私ら団塊世代はいつもこの悪罵を受けつづけてきたからだ。昭和34年(1959年)少年サンデー、マガジンが創刊され、少年たちは週刊誌の漫画、読み物に夢中になった。すると、PTAの全国協議会とか何とか連合とかいった団体が、漫画を読むとバカになる、漫画は悪書だというキャンペーンを始めた。我が家でもそうだった。夕方、家の手伝いもしないで縁側に寝転んでサンデーやマガジンを読んでいると、「漫画ばっかり読んで、そのうちバカになるよ。早よう、宿題やるか手伝いするか、さっさとやりな」と叱られた。とにかく、あの頃は漫画を読むとバカになり、映画を見ると不良になるといわれていた。ひどい偏見だ。だからといって、世襲総理大臣のカタを持つつもりはないが。あの人の識字能力と漫画とは無縁だ。

 今、草創の頃のサン・マガ(これからは少年サンデーと少年マガジンを並べていうときはこういう表記にする)を読みこみ、調べている。当時の誌面は今読んでも面白いしタメになる。漫画がそれほど多くない。全体の4分の1か3分の1だ。後は絵物語やスポーツ、科学記事。それがいろいろな知識を与えてくれている。それにしても、この雑誌を作っていた編集者の情熱がひしひしと伝わってくる。相談したわけではないのに、サンマガの編集者の数は奇しくも13人、同数だった。

石ノ森章太郎が「ぼくと少年マガジン」(『荒俣宏の少年マガジン大博覧会』講談社)で、こんなことを話している。
《少年週刊誌が誕生したのは、ぼくら――寺田ヒロオや藤子不二雄、赤塚不二夫など――があのトキワ荘というアパートにいた頃なんですが、こうした世代のまんが家たち、編集者たちが、「少年マガジン」という新しいスタイルの雑誌の中で研鑽しあって、熱気溢れる作品を生み出し、現在の”まんが文化”と呼ばれる隆盛の基礎を作ってきたんじゃないでしょうか。》

そうなのだ。少年誌というメディアを発展させたのは初期の漫画家と編集者だと思う。特にこれまで語られることの少なかった編集者の仕事・役割について考えていくつもりだ。

 編集者の情熱が伝わってくるのは漫画や記事の欄外にある見出しだ。ここに書かれたキャプションはおそらく担当編集者が書いたと思われる。例えば1962年(昭和37年)の「にいちゃん戦車」(石森章太郎作)の見出し。「まずしいくらしをたすけながら、たくましく生きる次郎・・・。思わず、むねをうつ感動と冒険の傑作まんが!」
〈*この見出しの漢字にはすべてルビが振ってある。だから、漢字は読めるようになるはずで、あの総理大臣はそういう訓練ができていないと思う。これは余談。〉
 この見出しの文体って独特だ。にいちゃん戦車の場合は、物語の紹介になっている。だが「ハリスの旋風」になるとちょっと違ってくる。「テレビでも放映され、人気絶頂の『ハリスの旋風』と『丸出だめ夫』!きみもぼくも、みんな愛読者になろう!」この文章の後半はまるでサークルの勧誘のような言辞だ。少年であった私たちに、おじさん編集者は熱いラブレターを書いていたのだと、今になって知る。

この見出しの研究を続けている人がいる。その人から「アオリ」という言葉を教えてもらった。そのことを次の機会に書いてみたい。

この編集者というツワモノの跡を今取材している。内田勝少年マガジン3代目編集長や少年サンデーの編集長たちとお会いした。残念ながら内田さんは今夏亡くなられたが、ほかの方たちは高齢だがお元気だった。
とにかく、サンマガのライバル関係というのは実に面白い。好敵手がいたからこそ、この少年文化は急速に花開いたのだろう。小学館の社史にこんな記述があったので、ここにメモしておく。
《雑誌における競合誌の存在は、品質を向上させ、市場を活気づかせ、読者を増大させる、まさに特効薬なのである。》

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by yamato-y | 2008-11-21 12:30 | 少年誌の青春時代 | Comments(0)

少年誌の青春時代①

少年誌の青春時代①

 1959年(昭和34年)の春、私は小学6年生になろうとしていた。春休み、家族で奈良へ旅行した。若い父と母、それに私と4年だった弟と行った。京都から奈良線に乗り換えるとき駅の売店で新しく出た本を買ってほしいとせがんだ。長嶋茂雄の表紙が光って見えた。少年サンデーの創刊号だ。だから、あの旅行の日付は3月17日だとしっかり覚えている。このときマガジンも同時発売されたのだが、私は買っていない。サンデーのページを繰って寺田ヒロオの「スポーツマン金太郎」にすぐ魅了された。さらに、「海の王子」というSFものの美しい描線に心惹かれた。作者はそれまで名前を聞いたことがない藤子不二雄という人だった。この人物は2人の合体だということを知るのはずっと後のことだ。

こうして昭和34年3月に、少年サンデーと少年マガジンが同時に発売されて、日本のキッズカルチャーは大きく動き出していくことになる。両誌は文字通りライバル、竜虎の戦いがきって落とされたのだ。サンデーは小学館、マガジンは講談社。社の規模や体勢からいっても互角の戦い。

先週、サンデー創刊のときのT編集長にインタビューした。面白い話をいっぱい聞かせてもらった。これらは、来年の特集番組で披露していこうと思うが、一つ二つ、ちょっと内緒で話したい。というか、ものの本や出版社の社史には書かれてあるから秘密の話ではないのだが、実際に当事者の口から話を聞くとめっぽう面白い。

小学館は「1年生」とか「2年生」という学年誌をもっていたから、漫画家ともカット(挿絵、イラスト)を描いてもらうという付き合いがあった。学習雑誌ということで、絵がきれいですっきりしている作家が重宝された。T編集長は当時人気のあった馬場のぼると並んで寺田ヒロオがお気に入りだった。伸び伸びとして健康的な絵柄は学年誌にふさわしいものだと考えていた。T、馬場、寺田で酒をよく飲んでいた。

少年週刊誌の漫画にはまずぜったいに手塚治虫を外せないとT編集長は考えた。「少年」で連載する「鉄腕アトム」は人気実力ともに漫画の目玉だった。ただし、彼の全盛は過ぎていたと認識している。 
 手塚以外には寺田ヒロオを起用するつもりでいた。強烈なヒューマニストである寺田は少年誌には欠かせないパーソナリティだとT編集長は考えていた。ある日、酒を飲みながらT編集長は寺田に聞いた。「君のいるトキワ荘には、漫画家の”たまご”がいっぱいいるけど、誰がいけると思う?」寺田はすぐ答えた。「藤子不二雄」

翌日、T編集長は編集部員を一人連れてすぐトキワ荘を訪ね、藤子に面会した。実際に藤子Aと藤子Fの2人が現れたとき編集者は驚いた。原作を高垣眸にして作画を担当してほしいと伝えたところ、藤子は承諾してくれた。

少年マガジンはサンデーより半年遅れて企画が出発している。発売日までわずかしかないから編集者たちは奔走していた。だが、漫画に関しては少年クラブなど月刊誌で漫画家たちとは付き合いがあるので少し安心していた。

2月11日(水)小学館編集者がトキワ荘の藤子を訪ねて執筆を依頼してから2日後のことだ。2月13日(金、)講談社編集者石原氏(少年クラブ)が来て執筆依頼するも、藤子は週刊で2本を描くのは無理と断った。(トキワ荘青春日記、藤子不二雄Aの記述から)マガジン側にとってみれば、たった2日の遅れがダメージとなる。

サンデーVSマガジンの戦いの緒戦は、トキワ荘グループを最初に押さえたサンデーが有利に展開していくことになる。

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by yamato-y | 2008-11-20 13:28 | 少年誌の青春時代 | Comments(0)


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