定年再出発  


懐かしい空
by yamato-y
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センチメンタル・ノスタルジー

センチメンタル・ノスタルジー

還暦。いよいよ「老い」のとば口に立つことになる。これまで4回年男を経験したが、2008年の年男ほど疎ましく思えることはない。どうやって老いをむかえるかが分からない。じたばたしている。

『美しい老年のために』を読んだ。著者の中野孝次は、定年後の生き方とは”時を充実させる老い”を目指すべきものとしている。
 まず趣味をもてと、足腰をきたえ熱中しろと説く。山歩きか碁でもうてと言うのだ。

次に、定年帰農もいいぞと励ます。自然と触れ合うことが大切だという。但し、これはパートナーの理解を得なくてはならないと、釘をさしている。
近い国への旅も悪くは無いと、中野は韓国や台湾への旅行を勧めるなど、けっして上滑りしない実用的な手法を取り上げていることには共感する。だが心動かない。

 老年とは何もしなくてもいい時間をもっていることだから、逆に一番やりたいことに時間を割くべきと、「ほんとうの趣味をもつ」ことを中野は最後に説く。ほんとうの趣味とは、それをせずに生涯の充実感が得られないもの。中野は、読書とか俳句とかインドアよりも百名山を登るとか外国を旅することとかアウトドアのほうがいいと書いている。

この本は中野孝次が70代半ばで書いているから、人生の機微をそれなりに体験しての戒めというかアドバイスを書いているのであろう。だが、今の私にはどうも響かない。中野孝次が考えたような老いの道とは、どうも違うらしい。セネカや西行を参照しても、それは「教養」の域を出ない。世代の差なのか。まず、「美しい老年」を目指すということに躓いてしまう。「めそめそぐずぐずの老年」では駄目なのだろうか。

きりっとした生き方、敬われる考えを中野が芯にすえることに、居心地の悪さを私は感じる。思い切り叙情的であったら駄目だろうか。思い入れ、感傷、情調に浸っているような老年ではいけないのだろうか。

抒情化は落とし穴だという恐ろしい説を目にした。チェコの亡命作家ミラン・クンデラは「恐怖政治の抒情化」ということを書いている。スターリン以降のロシアの全体主義化を覆ったのは抒情化という大波だったというのだ。乾いた目でなく湿った目(抒情化)があのソ連を作り上げたという。

抒情的であることは自分をあまやかすことになる。とすれば、その抒情性をもって老年を乗り切ろうとすることは、将来に破綻が見えているではないかと、このクンデラの説は私を突き上げてくるのだが、それでもと私は言い張りたい気がしている。

浪曲のように、たっぷりと人情と抒情で世界を覆ってみたい。開き直って「センチメンタルノスタルジー」の世界を目指すのはいかがだろう。周りからは顰蹙をかうかもしれないが気にしないでいくか。

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by yamato-y | 2007-12-30 22:19 | Comments(0)

旅立った二人へ(最終バージョン)

旅立った二人へ

 2007年が終わろうとしている。今年もまた、私にとって大切な幾人かの知人友人がこの世を去った。私は以前このブログで書いた記事を読み返して、今年亡くなったことを知った二人の人物と明日香村との奇しき縁を思った。河合隼雄と金井清昌の二人だ。
  *                               *

河合隼雄と明日香村

2004年に『国宝高松塚古墳壁画』(文化庁)という本が出版され、巻頭に河合隼雄文化庁長官が「三十年経ても壁画は大きな損傷あるいは褪色もなく保存されております」と序言を書いた。ところが実際には明日香村にある高松塚の壁画にカビが生えて褪色も起こっていた。週刊誌などによって追求されたが、文化庁関係者はこの事実についての釈明も公表もないまま密かに修復を行った。地球温暖化による石室内の温度上昇という大雑把な理由で文化庁は幕引きを図ろうとして、逆に批判を浴びることになった。考古学の泰斗網干善教はこう批判している。
「文化庁の最高責任者である文化庁長官は、せめて明日香村に来て、村民に対して説明をするべきではないか。しかし文化庁は、長官は心理学者で考古学は素人だから、説明はできないという。それで許される問題でしょうか。」(『高松塚への道』)

河合長官への風当たりはきついものとなった。本来は文化庁の内部の縦割り行政が長年にわたって犯したミスがこの不祥事を招いたのだが、河合が責任追及の矢面に立つことになる。河合は給与の一部を返納し、さらに、現地へお詫びに出かける。
 傍で見ていて、河合さんの体調が思わしくないことを私は危ぶんでいた。相当無理をしているなあと心配していた。当時、私は河合さんの出演する番組を企画していて、折々長官室を訪ねていたのだ。

そして、2006年8月9日に、河合さんは明日香村の現地に入ってお詫びを行う。其の時のニュース映像を見ると脂汗を河合さんは流している。政治家としての苦渋と健康上の不調が明らかに、河合さんの心身を追い詰めていた。それから10日も経たない、8月17日。京都の河合さんの私設秘書から「河合先生が倒れた」という連絡が入った。西大寺の自宅で脳梗塞を発症したのだ。すぐに手術が行われたが、意識をなくした。1年にわたって植物のような状態が続く。

 河合さんは長官職を一期3年で終える予定であったが、首相から二期もと強く要請され引き受けざるをえなかった。辞めたがっていることは傍目からも十分うかがえた。健康も然りながら、政治家としての気苦労に河合さんはほとほと疲れていた。そして、明日香村の古墳をめぐって起きたトラブルが、結果として河合さんを追い詰め、その命を縮めていった。

    *                             *

キトラ古墳の壁画が初めて確認されたのは1983(昭和58)年。地元の有志でつくる飛鳥古京顕彰会とNHKの共同調査で石室に挿入されたファイバースコープが「Q」の字のような形をした玄武(亀)をとらえた――。
 
 金井清昌と明日香村

 金井清昌が去年の1月3日に死去したということを私は最近になって知ることになるのだが、その彼の死から半年も経たない2006年5月、奈良県明日香村のキトラ古墳(特別史跡)の極彩色壁画「白虎(びゃっこ)」が一般公開され話題になっている。会場の奈良文化財研究所飛鳥資料館には、日に3000以上の考古学ファンが訪れ賑わっているというニュースを聞くと複雑な思いに駆られる。1998年のとき、私や金井がファイバーカメラでこの古墳を調査するときに悩み苦しんだことはいったい何だったのだろうと思ってしまうのだ。

キトラ古墳とは、奈良県明日香村大字阿部山にある直径約14メートルの古墳で、7世 紀末から8世紀初め頃に作られたと推測される。高松塚古墳が内部調査されるまで注目されることもなく、長く地中に埋もれていた。
私の大先輩にあたる堀田謹吾チーフディレクターは、70年代の高松塚のブームが一段落したとき、明日香村で他にも古墳はないのだろうかと改めてリサーチをした。そしてキトラと地元で呼ばれる古墳の情報を得る。一説によればキトラは亀虎という意味で古墳にそれらが描かれていることからその名前が付けられたという伝説があったのだ。もし古墳の中に図像を発見すれば高松塚に次ぐ大発見となるかもしれない。予備調査を繰り返しておおよその内部の寸法を測った。その折、盗掘坑を発見する。この一度開けられた小さな穴を利用すれば、古墳の破壊を最小に止めることができる。

堀田は発掘を役場に申請していたが、そこは私有地であり文化風致地区であったので、おいそれと発掘許可が下りなかったのだ。そこで、現状を破壊することがない特殊カメラ使用を考えた。胃カメラのような遠隔操作可能の特殊カメラを開発する必要があった。その技術的アドバイスを堀田に与えたのは、技術本部にいた金井清昌技師だ。彼は技術屋らしくない好奇心の強い人物で、盗掘坑の利用法もカメラの延長システムも考案する。実際のカメラ開発は金井と彼の古巣でもあったNHK技術研究所の共同研究による。
 
そして1983年、ファイバースコープによる石室内調査が行なわれた。当時は誰も装飾古墳が眠っているとは思っていないので、何の横槍も入らず問題もなく飛鳥古京顕彰会のメンバーとNHKスタッフだけで自由に調査ができた。そして古墳正面の玄武の壁画を見つけた。玄武(亀)の形はQの字に似ていた。さらに内部を見ようと、カメラを左右の壁に向けようとした瞬間、ファイバースコープの先端が壊れた。やむなくカメラを引き出すことになるが、カメラが壊れる直前、天井を捉えた映像に星座のようなものがちらっと光るのを金井は見ている。金井以外誰もそれを認知していないので、錯覚じゃないかとそのときはされた。
以来、金井は再度ファイバーカメラを挿入したいと願うようになった。古墳内部を克明に撮り、自分の見たものが錯覚じゃないということを証明したいと、キトラ再調査は金井の悲願となった。

玄武だけの撮影でしかなかったが、それでも装飾壁画発見はニュースとなって全国に流れた。後日、この快挙はNHK特集としてまとめられて放送され、大きな反響を呼んだ。

それから15年後、再度調査が行われる。そのとき、堀田プロデューサーに代わって番組制作担当者に選ばれたのは、私だった。私はそこで金井と初めて会う。

15年目の再調査

キトラ古墳の第1次調査が行われて15年経った。
高松塚の騒動がありマルコ山、キトラと古墳発見が続いた1980年代はそれなりのブームが起きたが、10年も経過すると次第に忘れられていった。明日香村を訪れる人も減少していた。2回目の調査の話は1997年秋に、地元から起こってきた。
 村の関係者はもう一度明日香村に活力を与えるような出来事を探した。地道な発掘調査や考古学的研究は継続していたが、もっと耳目を引くイベントはないかと考えた。

 一度調査したとはいえ、部分でしかなかったキトラ古墳は、その意味では格好のテーマであった。玄武(亀)の壁画が見つかっていたのだから、他の青龍、白虎、朱雀が発見される可能性はあると見たのだ。
未完に終わったキトラ調査をしてみることを村は構想し前回に実施したNHKチームに村は調査を打診して来た。
 15年前の主要なメンバーは、金井を除いて退職するか転勤するかで、事実上解体していた。新しくチームを立ち上げなくてはならなかった。実は、金井は半年後に定年退職をひかえていた。もう、再調査は無理だと諦めていた。ところが、再燃したのである。長年待望していた悲願の再調査がついに行われることになった。彼は間に合ったのだ。

私は番組の責任者であるプロデューサーに選出された。歴史は好きだったが古代史番組の経験がない私は金井からレクチャーを受けながら、猛烈に勉強した。特に飛鳥時代、天武、持統天皇時代については詳細に文献を読み込んだ。

その一方、機材の開発にも力を入れた。技術研究所で前回の失敗した器具の性能アップを図りつつ、レンズ、ビデオ装置なども最新のものを駆使した。撮影用のライトも出来るだけ電圧の低いもので撮影できるほど解像度の高いカメラを開発した。これらの技術的アドバイスはすべて金井清昌エンジニアによる。金井は前回にも協力を仰いだ東海大学情報技術センターとも連絡をとり、その援助を取り付けた。画像はそのままで認知できるものでなく緻密な画像解析が必要なのだ。それが出来るのは東海大学情報技術センターしかない。そのセンターと取材チームを結びつけるなどということは金井以外誰も出来ない仕事だった。

 思わぬ事態

実際の作業は、1998年の春が来てからということで、それまで我々は文献資料や関係者に聞き込むなど準備に入った。毎月のように私は明日香村へ行くこととなった。朝8時の新幹線に乗れば、昼過ぎには現地入りが可で、私は精力的にファイバースコープ調査のための情報を集めた。

 15年前の第1回調査は、NHKと飛鳥顕彰会の共同作業だった。そのとき協力してくれた村関係者、アドバイスを与えてくれた学者らにも、私は接触して重要な情報を入手してゆく。いわゆる番組制作の事前リサーチを丹念に行った。私ともう一人のプロデューサーの二人だけで現地に行っての調査だったが、どこからか情報がもれた。

キトラ古墳にNHKが再びカメラを入れるそうだという噂が、奈良にあるマスコミ各社の支局に流れた。前回の調査のように、NHKが技術を提供することによる情報の優先に異議が入った。2回目は各社にも同じ情報を公開するべきではないかという声があがった。対象が文化遺産という公共性の高いものだから情報公開を求めると、管理する村に迫った。

取り扱いに窮した村は、調整は当事者でやってほしいと、私のところへオハチが回ってきた。私は困惑した。

 いろいろ曲折があったが、結果は、マスコミ各社の意見を受け入れて調査することにした。そして、わがチームは全力で調査して大きな成果を得ることになる。玄武以外に青龍、白虎の壁画を見つけ、さらには天井に精密な天文図まで撮影したのだ。画像はすべて各社に生のまま配信した。それはむき出しの画像だ。それをコンピュータで情報処理しないと、精確な情報にはならない。その作業は各社の責任でそれぞれ行うことにした。

発掘調査本番

1998年3月、大和路はまだ寒さが残っていた。
3月3日、調査前々日に奈良県明日香村の現地に入ったときも、劇的な発見が待っているとは思わなかった。7世紀末から8世紀初めに作られたと言われるキトラ古墳。この古墳を再調査する調査団というのが明日香村によって結成され、私たちはそれに技術協力するという形で参加することになった。早々と現地に入り超小型カメラの組み立て点検を終えて、本番に備えた。

3月5日、本番当日。雲が重く垂れ込め、今にも雨が降り出しそうな空模様だった。阿部山の現地のテントには他の報道陣もおおぜい詰め掛けていた。
 古墳探査ポイントは側道より3メートルほどあがった所で、防水テントで覆われている。
探査用カメラを組み立て、8時過ぎ穴をあけることになった。ここは、第1回調査のときにも参加した金井清昌があたる。
内部が固い版築に覆われているためドリルがなかなか入らない。穴をあけるのに2時間かかる。小雨が降り出していた。
11時過ぎ、やっと貫通し小さなどよめきがスタッフの間に起こる。すぐに内部の温度、湿度、炭酸ガスの濃度などが測られた。雨は本降りとなった。気温が急激に下がった。吐く息が白い。
昼過ぎ、いよいよ探査孔にカメラを通す。総勢5名が慎重に操作する。探索の指示は猪熊兼勝調査団団長。その指示に従ってカメラを操作する金井清昌の額に汗がうっすらと浮かんでいる。

昭和58年の調査時、金井は43歳だった。世紀の大発見となるはずだったが、調査中無念なことにカメラが故障した。撮影不能になる直前に金井は古墳の天井に光るものがチラッと見えたと記憶している。他は誰も見ていないので当時は金井の推測は一笑に付された。だが、金井はきっとこの古墳は想像以上に立派な構造と体裁をもっているにちがいないと密かに確信している。
いつか古墳にカメラをきちんと挿入して、自分の目撃したことが本当だったということを立証したいと金井はねらっていた。調査再開に執念を15年にわたって燃やしてきたのだ。

 超小型カメラのアームは2メートルに伸びて、ついに石室内部に入る。床には土砂が入り込んで散乱している様子がモニター画面に浮かび上がる。カメラを持ち上げると正面には亀つまり「玄武」がいた。ここまでは前回も撮影している。ここから先が勝負だと思った矢先、突然カメラに異変が起きた。
 カメラケーブルが断線したようだ。モニター画面の映像がみるみる白く溶けていった。関係者は全員息をのむ。前回と同じポイントでカメラにアクシデントが発生。沈うつな空気が流れる。すぐにカメラは回復するかとあれこれスイッチを操作するが動かない。技術スタッフから回復の見込みはたたないとメッセージが私の元へ届く。金井はいったん中止したほうがいいと助言する。私はこの日の調査は打ち切ることにした。

星座を見つけた

その夜の技術スタッフの努力は涙ぐましいものがあった。ちゃんとした修理道具もないなかピンセットとセロテープだけで13本の極細の電線を繋いで張り替えてゆく。配線の設計図は東京にしかなく、それが保管されている技術研究所にケイタイ電話で問い合わせながらの作業となった。アルミの束ををセロテープで巻いての応急処置したケーブルが上がったのは午後7時を回っていた。夕食も摂らずに必死の作業であった。外は激しい吹き降ろしの雨になっていた。

翌6日雨はすっかりあがった。阿部山の森の中から鶯が聞こえてくる。
作業を再開すると機材は順調に稼動した。どうやら断線箇所の応急補修もうまくいったようだ。ファイバースコープは正面北壁にある玄武にたどりつく。それから、ゆっくり石室全体をまず眺めることにした。左右に縞模様のようなものを確認。レンズをセミ望遠にして焦点を合わせると、白い虎と青い龍が浮かび上がった。彩色の姿は生き生きしている。新発見の「ブツ」だ。思わず手に力が入る。でも、これは序の口にすぎなかった。

天井にカメラが向けられると、そこには華麗な星座が広がっていた。「星宿」である。世界最古といっていい精緻な天文図が現われたのだ。この星座は後の調査によると、大変な情報を保有していることになるが、その時点ではまだ私たちは知らない。が、新しい像を捕まえたことで私たちは興奮していた。翌日の新聞は1面トップでこの天文図発見のニュースを報じた―。


金井の定年

技師の金井清昌はこの発見から3ヵ月後、1998年夏に定年をむかえる。金井にとってはこの発見は技術屋人生の総仕上げとなった。
 定年後、金井は後輩が営んでいる制作会社に身を寄せて、新規事業などを手がけていたが5年前、脳出血で倒れた。回復したが、麻痺は残った。リハビリを続けることになった。
時々思い出したように電話をかけてきた。金井の欠点は、話がもどかしいうえに長いことであった。病気をした後はさらに長くなった。用件に入るまでに10分はかかる。本件に入っても、話が横道にそれる。ついつい、私は邪慳な物言いになっていた。「そんなに言うなよお」といつも金井は私に弁解するような口調になっていた。今、それを思い出すと胸が痛い。
 4年前、私が定年に近づいた頃、金井は私の身の振り方を心配した。気が短くて協調性の薄い私では、第2の就職も難しいのではと、金井の知り合いの仕事口を探してくれたのだ。残念ながら金井の配慮は実を結ぶことはなかったが、私は本当に有難いと心で何度も頭を下げた。
 3年前、私が定年を迎えたとき、すぐ彼は祝福の電話をくれた。不自由な口で、「無事卒業を迎えることができてよかったね」と言ってくれた。

 それから1年ほど経って、最初のキトラ調査を行ったときの堀田チーフディレクターが急死するということがおきた。その訃報を私は金井に伝えたところ、彼は回りをはばかることなく「ホッチャンが死んだ」と大声を上げて泣いた。30年前、手作りでキトラ古墳調査を二人でやったときの苦労がよみがえったのだ。私は慰める言葉をもたなかった。

金井は高崎で病を養っていた。そのうち見舞いに行こうと思いながらずるずると1年以上の久闊となった。便りがないのがいい便りぐらいにしか思わず、そのうちに金井も病から立ち直って現れるだろうぐらいにしか思わなかった。

今年、2007年の秋、韓国のテレビ局から高句麗系遺跡と言われるキトラ古墳の取材をしたいとNHKに連絡が入った。詳細を技師である金井に聞きたいと言う。個人情報の管理が厳しくなったため、現役のプロデューサーたちは金井の連絡先が分からず、私に問い合わせがあった。私は手帳にあった電話番号と住所を伝えた。

 10分後、そのプロデューサーが慌てて伝えてきた。「金井さんは昨年の1月3日に亡くなっていましたよ」
なんと言うことだ。私は恩人の死を1年以上も知らなかったのだ。

 暮れも押し迫って、テレビも新聞も今年亡くなった有名人の追悼番組を放送したり記事を掲げたりしている。だが、今年もたくさんの無名の人たちが旅立っていったのだ。無名といえども、それぞれの仕事を全うして逝かれたはずだ。金井も68歳というやや短い生涯ではあったが、使命を果たして逝った。私は一年遅ればせではあるが、金井清昌のことを、ここでささやかに刻んでおきたい。

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by yamato-y | 2007-12-28 16:51 | Comments(1)

おひとりさま

おひとりさま

手にとった2冊の本が同じ方向を示すものだった。
上野千鶴子『おひとりさまの老後』、養老孟司『養老訓』。
上野本は女たちの老後を提案したもの。養老本は老人のなり方を伝授したもの。
それぞれ、共感を持つ箇所があったり、蒙を啓かれる箇所があったりした。私と同年の上野の語り口はややフリッパント(はすっぱ)で好きではないが。

 こんな本は40代の私だったらハナにもひっかけなかったに違いない。「先のことなんて、そのときになって考えればいい」。そう思っていたはずだ。
なのに、なぜこんな内容に目が向くかは、自分でもおおよそ見当はついている。次第に大きくなってくる老いの影が気になってしかたがない。

昨日、友達から言われた言葉が胸奥に鈍く響く。
「おひとりさまが怖いかい?」
おひとりさまは、何も老後だけのことではない。職場にしても、仲間内でもある。その、おひとりさまを怖がっているのじゃないかと、指摘されたのだ。

さりげなく、「そんなはずはあるまい」とこの言葉をやり過ごそうと思ったが、意外にも心底にどすんと落ちてきた。
―そうなのだろうか、私はおひとりさまを怖がっているのか。
心の井戸を覗いてみる。それらしい影が現れない。なのに、なぜ気になったのだろう。

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by yamato-y | 2007-12-27 15:14 | Comments(0)

師走の福音

師走の福音

ちょっと嬉しいことがあった。
先日、受賞した「闘う三味線 人間国宝に挑む~文楽 一期一会の舞台」へのお褒めの手紙をいただいたのだ。送り主は作家の森まゆみさん。たしか、あの賞の審査員のお一人だったはずだ。番組の1ファンとして、受賞のお祝いを述べたいと森さんはその手紙に記している。

受賞から一定期間経った時期に、「ファンとして」手紙をしたためられたことに、深い配慮を思う。当座であれば、知り合いの誼で審査に臨んだと誤解もされよう。番組の試写、審議、推薦のすべての作業が終わったあとで、番組のファンとしての感想を述べて、祝福してくださったのだ。その感想は作者冥利に尽きるものであった。

作家活動とは別に、森さんは「谷根千」という東京のタウン誌を主宰している。東京の谷中、根津、千駄木、を舞台にした地域情報雑誌だ。雑誌『谷根千』は、全国各地で誕生した同種のリトル・マガジンのお手本となったといわれる。この3つの地域というのは山手線の内側にあって、あだ古い屋並が残っているのを、森さんたちが一つの「文化」として見ることを始めた”運動”でもあった。

森さんから届いた便りはペリーの通訳だった侍たちの絵葉書だった。その絵の端に、森さんは「笑っている武士というのがすごいと思いました」と書いてある。一瞬、何のことか分からなかったが、よく考えると武士というものはそういうものかと、はたと気づいた。

たしかに、江戸末期の古い写真に武士は写っているが、笑った顔はほとんどない。庶民はともかく武士というのはめったに笑わないものだという、故実が実感できる写真だったのだ。脈絡がないが、藤沢周平の世界を思い起こした。森さんの豊かな感受性に驚いた。


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by yamato-y | 2007-12-26 17:15 | 登羊亭日乗 | Comments(0)

はなれ雲

はなれ雲

暮れでありクリスマスイブである。
穏やかな日差し、やや風があり、海は青ざめている。
天上は大風か。雲が南西に向かって千切れ飛んでゆく。
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朝から自分の部屋の掃除をして書棚に雑巾をかけた。昔の手紙が出てきたりして、つい読みふける。書棚にあった文庫本の『方丈記』を取り出す。

「知らず、生れ死ぬる人、何方(いずかた)より来たりて、何方へか去る。また知らず、仮の宿り、誰(た)が為にか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。」

「方丈記」の一節だ。私は知らない。人はどこから来てどこへ行くのかと、問う鴨長明。これを書いたときの長明も60歳であった。

「人の営み、皆愚かなるなかに、さしも危ふき京中の家をつくるとて、宝を費し、心を悩ます事は、すぐれてあぢきなくぞ侍る。」

人間の営みといっても、都市の繁華なところに家を建てたり蓄財したりすることがどれほどのことか。

都を離れて、日野山の麓に方丈というほどの小さな庵を建てて隠棲した長明。その無常の見方にこのうえなく引かれる。

一方でいのちということにも目が向く。ほぼ同じ時代の西行の晩年の歌こそ、同感する。
「年たけてまた越ゆべしと思いきや 命なりけり小夜の中山」
年老いて再び越えることがあろうなどと思ったであろうか、これも命あってのことと、小夜の中山を再び越えつつ、と感謝する西行。西行69歳の時の歌である。

冬至を越えて、これから少しだけ日が伸びる。日脚伸ぶ、ということもいのちか。
無常はいのちにあるのか。いのちは無常のものか。

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江ノ島がきれいに見えている
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by yamato-y | 2007-12-24 15:40 | 魂のこと | Comments(0)

歳末の空

歳末の空

ゆるゆると山を登る。九十九折りの一つ目は長く、上がりきった角で休むことにしている。荷物を下ろして周りを見わたす。冬仕度の小鳥の囀りが喧しい。ケヤキもすっかり葉を落した。名前も知らない雑木の赤い葉が微風にくるくる揺れている。遠く相模湾に江ノ島が浮かんでいる。大気が澄んでいるのか見晴るかすことができた。森の上にぽかりと開いた空は雨上がりのせいか厚い雲によって鈍色になっている。

第1次定年、還暦という現実がなかなか受け入れられず、このところ精神が不調だ。3年前に現役から半分退いた身になったときから、時々襲ってきた鬱々とした気分にまた捉われている。心にも生活習慣病があるのではないかと思ってしまう。
仕事人間で来たから、仕事が減ったり無くなったりすると途端に塞ぎこむ。文楽三味線、日本のSFと春から秋にかけて、今の私なら全力疾走といえる仕事ぶりでやって来た。それが終り、来年の3月放送の作品しかなくなると忽ち心の風船が萎む。番組を作っているという習慣から離れられないのだ。

 だが、物憂さはそれだけではなさそうだ。やはり60歳という節目を意識しているのだろうか。もう60歳になったかという、失望がボディブローとなっている。これまで何をやって来たのだろうか。中也の詩ではないが、おまえは何をしてきたかと風が吹く。

図書館で、20年ほど前に出版された『ぐるっと海道3万キロ』の東北編を見つけて借りた。同名の番組のノベライゼーションで、執筆しているのは私のよく知っているドキュメンタリストたちが名を連ねている。青函連絡船、気仙沼、銚子、夢の島、まだ若かったディレクターたちの筆はみずみずしい。その文章を追ううちに、鼻の奥がつーんとしてきた。

テレビがまだ何かを信じていた時代だ。あの当時、ここに書いている人たちと並んで、私も必死で走っていた。仕事を疑うことなく、観客というグローブに球を全力で投げ込んでいた。今はどうだろう。その行為を全面的に善しとできない。善しと言い切ることに躊躇いがある。

昨夜、黒澤明の「赤ひげ」を見た。薄幸の女が赤子をおんぶして、頭を下げている光景は長く心に残った。虐待で心が捻じ曲がった少女が寝ずの看病する姿。嗚呼、この作品は黒澤がまだユマニスムを信じていた頃の作品だった。これを作っていた頃の黒澤は映画を信じ自分も信じていたのだろう。その後にやってくる「トラ!トラ!トラ!」の挫折から始まる昏迷を思うとやるせなくなる。
曲折があったにせよ、その後も映画を撮りつづけて、わりと長命だった黒澤は晩年のスタイルということをどう考えたのだろうか。

夕方になった。西の空がうっすらと焼けた。鴉が2羽3羽飛んでゆく。


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by yamato-y | 2007-12-23 22:12 | 魂のこと | Comments(1)

晩年

晩年

昔一緒に仕事をしたKさんが1年前に亡くなっていたことを、最近知った。まだ60代なのでそんなことはないだろうと思い込んでいたから、1年半ほど音信が絶えていてもも気にしなかった。
そのうち、ふらーっと電話してくるだろうと漠然と考えていた。

昔の仕事のことで聞きたいことがあってこの11月に連絡をとったところ、その人は癌で1年前に帰天していた。知ったとき私はちょうど「日本のSF」の番組の繁忙期だったので、奥様にお悔やみを電話で申し上げるにとどまった。
時間が出来たので、高崎までお参りに伺いたいとご家族に告げたら、こんな遠路まで来ていただかなくてもいいと謝絶を受けた。

ご家族から見れば、1年も経っての弔問は面食らうことなのだろう。ただ、最近知った私としては、本当にご恩を受けた人なので、せめて線香の一本でも手向けたいと願ったのだ。

そんなに大事な人Kさんをなぜ放っておいたのか――。

Kさんは63の頃から持病が出て、家で療養することになった。時々電話で近況を伝えることがこの4年ほど多くなった。Kさんは話が長い人で、一度の電話が1時間に及ぶことはしばしばであった。つい、こちらから電話するのが躊躇することとなった。でも、声だけ聞いているとしっかりしているから、まだまだ長生きすると思っていたが、70を待たずに逝ったのだ。

3年前、私が定年をむかえたとき、Kさんは私の身の振り方をずいぶん心配してくれた。番組を作る以外に能がない私を、どこか格好の職場がないかと、Kさんの交友をずいぶん探してくれた。Kさんは技術職だったから、外資系のコンサルタント会社をあたってくれた。そのときは縁がなく有難く辞退したのだが、そのときにかけてもらった情けには感謝していた。この交友は誰も知らない。私とKさんがそれほどの関係で、苦労を分け合った仲だということはおそらくKさんの奥様も知らなかったはずだ。だから、訃報は私に届かなかったのだ。

高恩あるKさんを長く放置したということが、私を苛む。なぜ、今年の賀状が届かなかったことに気づかなかったのか。

2007年というこの年は、私にとってずいぶん大事な人たちが死去した。植木等さんが死んだ。河合隼雄さんが死んだ。山口小夜子さんも死んだ。個人的な友人もいた。福原シスカが亡くなり福原カズオミが後に続いた。

昨夜、旧知のカメラマンと会ったとき、「死」と「生」の漢字の字解きを教えてもらった。
死。その「夕」は人の骨を表す。その「ヒ」はそこに跪いている様を表す。
生。「土」の中から芽生えてくる様。

昨日から、サイードの『晩年のスタイル』を読み始めた。そこに記されていた言葉がたちまち私を射る。人は年を得て必ずしも成熟するとは限らないということ。
 あと3週間ほどで、私は60歳になる。来し方を顧みれば暗然とする。

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by yamato-y | 2007-12-21 12:13 | 魂のこと | Comments(0)

紅茶を受け皿で

紅茶を受け皿で

昼時になると、コンビニエンスストアの前に弁当を買うための列が出来る。若い人たちが弁当を入れた白いビニール袋を提げたりお湯を入れたカップ麺を大事そうに持っていたりする姿を見かける。

最近のコンビニでは電子レンジやお湯を用意して、そういう客の便宜をはかっている。昔と違って冷たい弁当じゃなく暖かいごはんや湯気の立つ麺を食すことが出来るのだ。3~500円ほどの昼食代となる。

渋谷のオフィス街などで昼食を摂ろうと思うと、最低700円はかかる。コーヒー代まで入れると1000円になる。時には1500円ほどかかる。若い人にとっては馬鹿にならない金額だろう。家から弁当を持ってくるかコンビニ弁当にするかの選択となる。

韓国の大統領選挙で、争点は格差の解消だというが、決して対岸のことではない。日本でも裕福と貧乏は混在している。一方でコンビニ弁当で他方で三ツ星レストランという歪な構造がある。

イギリスのビクトリア朝時代も貧富の差がひどかった。ディケンズの小説に出てくるような世界だ。ブルジョアたちと違って労働者は朝から晩まで働いた。食生活も貧しかった。小野二郎の名著『紅茶で受け皿』(晶文社)は当時を描出している。

朝の早い労働者は屋台で紅茶を飲むのが習慣であった。わずかな時間で熱い紅茶を飲むのだ。猫舌が多かったのか、ふうふう吹きながら熱いのを飲むことはなかった。代わりに、カップから紅茶を受け皿にこぼして、それを冷ましてすするのだ。こうしてやれば朝の慌しいティータイムもしのぐことができた。イギリスの労働者階級にとって受け皿というのは飾りでなく実用の品だったのだ。

後世、21世紀初頭の日本社会の風景はと問われたら、コンビニの前でカップ麺をすする若者たちと答えることになるのかもしれない。
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by yamato-y | 2007-12-19 12:59 | Comments(0)

神楽坂取材

神楽坂取材

神楽坂にある、嵐山光三郎さんの事務所に行った。檀一雄についての取材である。
本企画の制作会社のプロデューサー、番組メインディレクター、サブディレクター、そして私の4人である。飯田橋の駅で12時半に待ち合わせをして事務所に向かった。アポは1時だったが少しはやめにおとないを入れた。

不良中年の先駆けのような嵐山さんだが、このところ目覚しい著作活動で嵐山さんの名前は至るところで見る。週刊誌2本の連載、毎月のように出る単行本ということで休む間もないほど多忙だ。その人物に1時間のミーティングタイムをもらったのだ、少しでも話をたくさん聞こうと早めに入った。

用件は最後の無頼派作家と呼ばれた檀一雄の残した絵についてである。檀は父が画家だったこともあって、自身絵をよく描いた。数十枚残っているがこれまで公開されたことがない。火宅の人らしく数々の伝説を残した檀は、実はきわめて律儀で健気な人物であったと、晩年の檀を知る嵐山氏は考えていて、その証左がこれらの絵だという説をもっているのだ。

 嵐山さんはかつて平凡社の「太陽」の編集長で、檀氏の担当だった。当時、檀担当では一番若い編集者だったので可愛がられて、檀流クッキングや釣りなどを教えてもらった。代わりに、まだ幼かったふみ氏を野球に連れて行ったこともあるのだ。

奇しきことに、同行のメインディレクターは嵐山氏と小学校の頃同級だったという。わずか2年だけ国立の学校で一緒だったが、どちらかが転校して会えないまま50有余年、月日が流れている。ディレクター氏は最初名乗らず、名刺だけ交換した。嵐山氏はそれを見ながら、この名前と同じ同級生が小学校の頃にいたなあと、呟く。ディレクター氏は嬉しそうに笑って、「ぼくですよ」と答える。

嵐山氏はけげんな顔をして、じっと顔を見る。「うーん、あのときのI君?なんだかずいぶん変わったね」とまだ腑に落ちないまま名刺を見る。

この出会いの場面はなかなかよかった。互いに確認してもそれほど大げさにならず、さりげなく久闊を叙しながらビジネスに話をうつしていったのだ。
帰りがけに、氏は旧友を呼び止めて、最新の氏の著作を献呈していた。

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by yamato-y | 2007-12-19 08:11 | 登羊亭日乗 | Comments(0)

野晒し(のざらし)

野晒し

古井由吉の最新作『白暗淵(しろわだ)』を読む。2006年4月から2007年6月まで「群像」で書き継がれた短編集だ。その中から「朝の男」と「野晒し」の2編を読む。

古井がモデルらしい老年の男の視点で描かれた作品は、現在の老境と敗戦直後の状況が入り混じる物語だ。「朝の男」は昭和20年5月24日に襲った空襲の翌朝に廃墟を一人だけ歩いていた男を見たという少年の記憶がテーマだ。すべてが破壊された瓦礫の原を偵察しているかのように歩いていく男のことが、60年を経て主人公によみがえる。
「野晒し」は同名の落語を寄席で聞いた主人公が、身の回りで起きた老女の死と野晒しの女幽霊と重ねて描いた作品だ。いずれも死のにおいがたちこめた作品だ。

落語の野晒し。
長屋に住む八五郎は隣家を訪ねてきたきれいな女のことを、翌朝聞く。隣家はつりが好きな浪人で、向島へ釣りに行ったときに見つけた人骨に酒を注ぎ回向してやったところ、女の骨が礼に来たのだと話してくれた。 それを聞いた八はさっそく釣に出かけて骨を見つけて回向する。その夜期待して待っていると、現れたのはいい女でなく幇間(たいこもち)が現れるという人情話。野晒しとは行き倒れの遺体のことで、江戸時代にはそのまま放置されて白骨化することがよくあったのだろうかしらむ。芭蕉も句にするほどだから。
野晒しを心に風のしむ身かな

古井の「野晒し」では、小学生だった頃ラジオでその落語をよく聞いていて、母親が「ぉ骨がわらいますよ」とたしなめたことなどが思い出されてくる。敗戦後のもののない飢餓の時期、街角には行き倒れの姿を目にすることもあった。

昨夜遅く、斉藤寅次郎監督の「東京5人男」を見た。古川ロッパやエンタツあちゃこが出演する昭和20年の映画だ。終戦からわずか3月で上映されたその映画には、廃墟の東京が記録されている。劇映画だがそのままドキュメンタリーにもなっている。廃墟の中を都電が走り、水道管から水がちょろちょろこぼれている。俳優の石浜朗によれば、空襲の翌朝には街角に遺体が放置されていたという。まさに野晒しだ。

先日、渋谷駅前の交差点で不思議な光景を見た。ツタヤの前の地下入り口のそばでホームレスがまっすぐ背を伸ばして寝ているのだ。まるで遺体のようだ。そこは陽だまりになっているので寝ていたのかもしれないが、私には突然「野晒し」という言葉が頭に浮かんだ。

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by yamato-y | 2007-12-18 09:43 | 魂のこと | Comments(0)


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