定年再出発  


懐かしい空
by yamato-y
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名も知らぬあなたに昔のぼくを見た

名も知らぬあなたに昔のぼくを見た

明け方夢を見た。漱石のような高尚なものではなく、歌謡曲の一節が鳴り響く通俗なものだが、私には気になるものだった。

夜である。円卓を囲んで晩餐となる。6人ほどの同世代の男たち――中にはかみさん連れの者も一人二人いた――が、日本ではないどこか異国のおそらく東欧のレストランの個室に集まっている。互いに初対面だが大人らしく和気藹々に会話を交わす。

食事が出てきた。えんどう豆の煮たもの、そのうえに白いあんかけのようなものがかかり、さらにスクランブルエッグがかかっている。一口食べる。甘い。
白いものはシロップではないか。大げさな店構えのわりにまずい料理だ。嫌になってスプーンを下ろすと、隣人が「一つ一つは美味しいが、これではねえ」と愚痴る。一つ一つも美味しくなんてことはないよと、内心反発する。

そこで昔話に興じる。その昔サンレモ音楽祭に行ったことがあってさ、と懐かしい話を私は隣人に聞かせようとする。音楽が脳内に鳴り響いてくる。湯原昌之の「雨のバラード」だ。♪降りしきる雨の舗道・・・。そこから先ははっきりしない。だがサビの部分はしっかり聞こえてくる。
♪名も知らぬあなたに昔のぼくを見た・・・。

部屋の隅にガラクタというかごみが置かれてある。私の昔はいていたブーツがある。靴ひもの金具の部分だけを残して腐ってぼろぼろとなっている。だが、その靴をはいていた頃が妙に懐かしい。依然として、歌は流れている。この歌ではなく別の歌を思い出したいのが出てこない。愛と太陽の××、というようなタイトルであったがと、思い出すことが出来ず一人悶えている。

でも、名も知らぬあなたに昔のぼくを見たという歌詞を聞きながら、何かが終わり新しく始まるぞと、私は決意しているのだった。

目が覚めると、昨日とうってかわってまぶしい光がさしていた。9時の電車で京都へ行くことになっている。夢の残滓があるうちにと、このヘンテコな出来事を記した。

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by yamato-y | 2007-04-26 07:28 | Comments(0)

なんだかんだ忙しい

なんだかんだ忙しい

本日は、伝票処理や資料整理に追われてしまった。
明日から、京都へ行く。また、今年も大学での授業が半年にわたり始まるのだ。
毎月、最終週の木、金曜日は休暇をとって大学に教えに行くのだ。講座名は映像メディア論。もう5年になるかな。この間に、教え子たちからメディアに就職した人は20名は下るまい。よく考えてみると大変なことだと自分で感心したり。

私の授業は半年にわたり実際に番組を制作する。5分から10分程度のミニドキュメンタリーを作るのだ。その素材は学生自身がリサーチしたものから選出する。
1年目2年目のテーマは「発見!京大の××」だった。3年目は「発見!京大界隈の××」で、4年目にあたる昨年は「発見!京都の××」であった。だんだん、取材範囲を広げて来ているが、取材スケジュールが授業の範囲を超え始めていて、実施が厳しくなってきた。

そこで、今年は初期にもどり、「発見!京大の××」にしようかなと思っている。この決定は明日の新幹線の中で行おう。それまで、よく検討しよう。

授業はこれで終わらない。7月に集中講義がある。3日間、朝から夜までびっしり講義をするのだ。ここで語るのは「テレビは戦争をどう描いてきたか」というようなテーマだ。この授業するために、私も下調べをしたりするので、私自身にとっても勉強になる。今年の集中のテーマは韓流なんていうのも面白いかな。去年、ユン監督にゲスト・ティーチヤーで2時間ドラマ作りについて話をしてもらったのだ。とにかく、映像についていろいろな知見を紹介していきたい。

さて、京都行きの私の密かな楽しみは、食べ歩きだ。主任教授のS先生が食べるのが大好きな人で、いつも新しい店に連れて行ってくださるのだ。これがけっこうディープな京都で私は楽しみにしている。S先生は生まれも西陣で小中高大とずっと京都という生粋の京都っ子で、とにかくよく知っているのだ。だから、この授業のために事前に仕事を集中的にこなすのも、実は苦にならない。

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by yamato-y | 2007-04-25 18:23 | 登羊亭日乗 | Comments(0)

草臥れて藤の花

草臥れて藤の花

今朝のツヴァイク道で、珍しく子どもの姿を見かけた。黄色い帽子をかぶっていたから幼稚園児だろう。母親と弟の3人連れで山道を降りていた。途中、停まって高い木を見上げた。視線の先に藤が咲いていた。薄紫の藤の花房がいくつも垂れていた。きっと、お母さんが教えたのだろう。3人そろって見ていた。

芭蕉のあの句を思い出した。
草臥(くたび)れて宿かる頃や藤の花

春の夕暮れ、歩きつかれて里近くに来て、ふと見上げると夕闇にぽかりと藤の花が浮かんでいるという情景か。美しい景が浮かぶ。句が生まれた場所は、吉野を下りて橿原に向かう辺りと言われている。「笈の小文」の旅の途中である。傍らには愛弟杜国がいた。

これと同じ趣向の句がある。
山路来てなにやらゆかしすみれ草

同じ仕掛けとは言うもの、それぞれいい。この山路は大津の小関越えを指している。

しかし不思議だ。江戸期の俳句に共感しているくせに、現代の若者の心が分かりにくいのだ。ポストモダンの時代とは、「人間」としての共通性を失っているという意味で動物化していると、若い論客東浩紀は語る。

本日、『日本の現代思想・ポストモダンとは何だったのか』(仲正昌樹)を読了した。1ヵ月半かかったが、後半とても面白かった。

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by yamato-y | 2007-04-24 13:04 | 登羊亭日乗 | Comments(1)

自動調理装置

自動調理装置
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スタンリー・キューブリックが「2001年宇宙の旅」(1968)を作ろうと構想したのは1961年ごろだ。SF作家のアーサー・クラークと会ってブレーンストーミングを始めていた。クラークの「前哨」を読んだキューブリックは地球外生命との接触の映画を作りたいと思い始めていたのだ。そのためのデータや専門研究をキューブリックは世界各地から集めた。

当時、80余りの企業、研究施設、学会、政府機関に制作協力をキューブリックは要請している。日本にもその依頼があった。手塚治虫へキューブリックから美術監督になってほしいという手紙が届いた。ということを大伴は手塚から直接聞いている。二人はSF作家クラブの仲間で気があったのだ。

当時、NBCで「アストロボーイ(鉄腕アトムの英語名)」が放送され、アメリカではこのアニメが評判をとっていた。キューブリックもそれを見ていて、美術的アドバイスをこの作者から得たいと思って、作者である手塚に手紙を書いたのだ。

《(キューブリックが製作しようとする映画は)来世紀の月と空間を舞台としたシリアスな、リアルな、サイエンティフィックなSFドラマですが、美術を担当する人がいない。ついてはあなたに美術的な指導をお願いしたいので至急ご返事ください。英語は話せますか?ロンドンに約1年滞在してもらえますか?》
こういう手紙が手塚のもとに舞い込んだのだ。当時、手塚は超多忙の身、おまけに虫プロを始めたばかりで、軌道に乗せるので必死だった。キューブリックのオファーに応じる余裕はなかった。

手塚は返事を書いた。《すばらしい仕事だと思いますが、私には食わさなければならない人間が260人(虫プロの当時の社員数)もいるので、1年も仕事を休むわけにはいかない》と断りを入れたのだ。

これを読んだキューブリックは驚いた。《あなたに260人もの家族がいるとは、アメリカ人にとって驚異です。生活もさぞかし大変でしょう。でも残念です。》
日本人は沢山の妻妾と子どもをかかえていると、キューブリックは想像したようだ。

この後、キューブリックは「2001年宇宙の旅」の制作にあたり、さまざまな未来形の道具を各所から集めた。テレビ電話、自動ペン、人口冬眠カプセル、宇宙時計、自動調理装置、など。

おそらく、この頃であろう。手塚治虫は大伴昌司に一枚の絵を贈っている。題して「自動調理装置」。独身の大伴のことを思って描いたのであろうが、キューブリックの申し出のことが念頭から去らなかったに違いない。それはボタン一つを押すだけで食材が調理されて出てくる装置になっている。当時は夢の装置と思われたのだが、よく見るとそれは現代の電子レンジに似てはいないだろうか。

SFでもよく使われるIFを思う。もし、この映画製作のとき手塚治虫が1年間日本から脱出して参加していたならどうなったであろう。むろん、凝り性のキューブリックだから1年ですむまい。現にこの映画は取り直しが相次ぎ、1965年から3年かけて撮影されたのだが。もし、手塚がこのチームに入って、殺人的なマンガ執筆から離れることができたらもう少し長生きしたかもしれないのではないだろうか。キューブリックのとてつもないエネルギーと合体して、新しい映像文化を生み出したかもしれない。日本映画にも大きな影響を与えたかもしれない。

大伴昌司は「世界SF映画大鑑」のあとがきでこんなことを書いている。
《理想的にはSFは映像として発表されるべきであろう。それをなによりも証明しているものが「2001年宇宙の旅」だが、このような巨大なSF映画を作り出せる映画作家や組織は、日本ではまったく無にひとしい。SFを常識として育った世代のなかから、新しいSFの感覚をもった作家や製作者が生まれることを切望してやまない。》

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by yamato-y | 2007-04-23 18:20 | 大伴昌司の遺産 | Comments(0)

1969年、アポロ11号

1969年、アポロ11号

「あしたのジョー」が始まった1968年は若者の反乱の年で、スチューデントパワーが爆発した。地方都市にいた私はそちらばかりに気をとられていたが、都会ではもう一つ大きな文化の波が押し寄せていた。SFの波だ。むろん、SF小説はその10年前から勃興していたが、68年にSF映画の傑作「2001年宇宙の旅」が4月に公開されたのだ。今では、SFのみならず映画の傑作として映画史に残るが、公開当時は大きな話題にはならず、一部好事家の喝采を得ただけであった。監督のS・キューブリックはカブリックと紹介されるほどだった。

そういう中で、大伴昌司を初めとする小松左京、石川喬司、豊田有恒、手塚治虫ら日本SF作家クラブはこの映画を高く評価した。大伴は翌69年、彼が編集人となってキネマ旬報から臨時増刊号「世界SF映画大鑑」を出版する。これは、後にSFファンやマンガ、アニメのファンたちから尊ばれる貴重書となるのだが。69年には、この映画が描いたことが現実味を増す出来事が起きたのだ。アポロ11号の月面着陸で、宇宙ブームが起きた。

この月面着陸のとき、テレビ各局はゲストを招いて特番を組むが、フジテレビでは円谷英二と大伴昌司をスタジオに招いてこの快挙についての解説を依頼した。

この夜のことを、母の四至本アイさんはよく覚えている。
夕方遅く、外出先から夫君の八郎氏と一緒に帰宅しようとしたときのことだ。池上駅近くで二人は大伴とすれ違った。そ知らぬ顔で大伴は駅に向かって行く。どこへ行くのとアイさんは大伴に声をかけた。「うるさい、いちいち聞くな」と例の威張った口調で両親に文句を言って、改札の向こうに行ってしまった。

深夜、四至本八郎がテレビを見ていて、アイさんを呼んだ。「おい、あれは豊治じゃないか」と画面を指差す。見ると、おおぜいの宇宙ファンの前に座って、ディスカバリー号の構造や機能について大伴が得々と説明していた。アイさんは、自分の息子がそういう知識があってテレビで解説するような立場にあるということを、このとき初めて知った。
                              (この項つづく)
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by yamato-y | 2007-04-23 16:14 | 大伴昌司の遺産 | Comments(0)

おもかげにたつ

おもかげにたつ


先日のブログで映画「失踪」について触れたとき、物語は離れ離れになった恋人たちが再会してハッピーエンドに至ると書いた。

昨夜、見直したら違っていた。失踪した娘ダイアン(ブロック)はその直後に殺害されていたのだ。そのあと、出会った女性リタ(トラヴィス)が主人公ジェフ(サザーランド)の苦難を救うのだ。殺人鬼バーニーから決死的にリタは自分とジェフを守るのであった。

さらわれてから3年もダイアンが生きているはずがない。考えてみれば当然だがそう思ったのは、2番目の恋人との危機が救われたから、私はそう思ってしまったのだ。

それにしても恋人が失踪してからも、ジェフはダイアンのことを思い続ける場面がせつない。
在りし日のダイアンのおもかげをジェフは抱くのだ。

おもかげとは実体がない、非在のことだ。そのことを内面で思い浮かべることだ。まさに面(おも)影(かげ)である。

蕪村の句を想起した。
ちりて後おもかげにたつぼたん哉

ここにはぼたんの本物は散ってしまってない。だが、観察する者の中にぼたんの像が結ばれる。おもかげという。

ジェフのおもかげを追う姿に、私は心をうたれた。

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by yamato-y | 2007-04-22 14:12 | Comments(0)

帰郷~カミング・ホーム~

帰郷~カミング・ホーム~

春はたけてゆく。今年の春は雨ばかり。晴れ間がみえた昨日今日、我がもみじ山にはうぐいすが鳴きとおしている。そこで蕪村の句とあいなる。
古庭に鶯なきぬ日もすがら

うまい。本当にうまいなと思ってしまう。江戸時代の人が感じたことに一も二もなく共感してしまう。先日、二人句会でHさんが蕪村の才能を高く評価していたのが思い出される。芭蕉は幾度も推敲を重ねるが、蕪村はズバッと言葉を切り出してくると、Hさんは褒める。

春の蕪村には、うぐいすの句も多い。
うぐいすのあちこちとするや小家がち
うぐいすに終日(ひねもす)遠し畑の人

蕪村の「春風馬堤曲」が味わえるようになったのは、長谷邦夫のマンガ「薮入り」を読んだことによる。たしか、あのマンガは10年以上前にビッグコミックで掲載されたものだ。
マンガ「薮入り」は古典落語から題材をとっているわけだから、おそらく蕪村の「馬堤曲」が下敷きになっているのではないだろうか。

薮入りは奉公人の数少ない休日だ。実家では帰って来る息子のために、母が牡丹餅を作って待っている。丁稚に行った息子は早く家に帰ればいいものを、盛り場で寄り道して、夕方遅く実家にたどりつく、というそれだけの話だが、私はこのマンガを読みながら不覚にも落涙した。そして、「馬堤曲」の味というものを知り、「竹田の子守唄」の美しさも分かった。

守も嫌がる 盆から先にゃ
雪もちらつくし 子も泣くし

早よも行きたや この在所越えて
向こうに見えるは 親のうち

この歌が流行ってしばらくして、「想い出のグリーングラス」というアメリカのフォークソングがヒットした。ヒットしたのはトム・ジョーンズが歌った原曲だが、私は山上路夫の日本語の詞が気にいった。

汽車から降りたら 小さな駅で
迎えてくれる ママとパパ
手を振りながら 呼ぶのは彼の姿なの
想い出のグリーン、グリーン グラス オブ ホーム

元の歌詞は、護送されてゆく囚人がふるさとを偲んだ歌らしいが、この日本語の移し変えはいいと思った。ノーマン・ロックウェルの「帰還GI」という画はアメリカ人の心を捉えて離さないものの一つだが、その光景を想起させる歌詞だ。

移し変えで好きな作品が、「幸せの黄色いハンカチ」だ。これはアメリカの流行歌「幸せの黄色いリボン」を改編した日本映画だ。内容はほぼ同じで、罪を犯した若者が刑期を終えてふるさとへ帰ってゆく。刑務所を出るとき昔の恋人に、もし許してくれるなら家の前に黄色いリボンを吊るしておいてほしい、という歌詞が書かれてある。

 この「幸せの黄色いリボン」を私の好きな曲ということで、マンガ家の水島新司さんにディスクジョッキーで話してもらったことがあった。今から30年も前に私がラジオを担当していたときのことだ。このときの水島さんの語りは素晴らしかった。お話だけなのに、聴いていて胸がジーンと熱くなったのだ。さすが、「アブさん」のストーリーテラーだと感心した。

うぐいすは昔のことを思い出させるだけでない。ふるさとのことも思い起こさせる。
蕪村の句。
わが帰る道いく筋ぞ春のくさ

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by yamato-y | 2007-04-22 12:01 | 登羊亭日乗 | Comments(0)

コミュニケーション不全

コミュニケーション不全

目黒駅前のドトールでコーヒーを飲んでいて、隣の三人の女性たちの会話につい聞き入ってしまった。

50年輩の女性は近所の男性の話題を始めた。どうやら、碑文谷の御屋敷町に住んでいるようだ。彼女は20年前にその町に引っ越してきたとき、隣家とトラブルがあったと、他の30代の二人の女性に訴える。大きな門構えの家に引きこもっている男性がいて、この人物が顔を合わせるたびに「ここから即刻出て行け!」と怒鳴るのだ。ほとほと嫌気がさした。その男は当時30代後半で定職にもつかず家でぶらぶらしていた。慶応を出て作家志望という話だったが、ぱっとしない男だったわと、50の主婦は語る。あの当時偏屈な奴と思ったけど、今考えると引きこもりだったのねと、振り返る。「で、どうなったの?」と若い女性が尋ねると、「その後大きなマンションが建って、その男はもう出てこなくなった」という。「よかったわね」と相槌をうつ30代。

本当によかったのか。その男はさらに追い詰められた気持ちになっているのじゃないだろうか、と私は詮索したくなる。

すると、30代女性が突然告白を始めた。「私の弟が家を出て行かないの」彼女は結婚して子供も一人いるのだが、実家に両親といっしょに住んでいる弟についてこぼしはじめた。
「弟は37、私と年子なの。この20年家からほとんど出ず両親も困っているのよ。」
50女性が聞く。「仕事はしていないの」「大学を中退してからずっと家にいるの」「ご飯のときだけ出てくるのだけど」「一日中、どうやらテレビを見ているみたい」
もう一人の30女性が聞く。「友達とかいないの。どこか、旅に行くとかさ」
「ぜーん、ぜん。高校以来友達からの電話って一本もないのよ。年賀状だって一枚もない。」
他の女性たちは、もっと楽しさを教えてあげたらとアドバイスする。「カラオケなんかへ連れ出したら」。それを聞いて30女性は口をとがらす。「行っても歌う歌がないと言って先に帰るのよ。歌えないということで自分のプライドがすごく傷つけられた言い方をするの」
そして、こう言い放つ。「私の弟じゃなかったら、あんな男とは口をききたくないわよ。」

そのあと、弟の諸行について“姉”はぐずぐず暴き立てた。彼女の気持ちは分からないでもないが、そこまで貶めることはあるまいと、次第に私はその弟のカタをもちたくなった。

結局、三人の女性たちは最近の男はコミュニケーションの不全した者が多いということを結論づけた。最後まで、聞いていた私としては納得できなかった。そんな簡単に括るなよと言いたいが、かといってどうしていいか見当もつかない。

唐突だが、こういう人生を送っている人物が、「耳をすませば」のような物語を見たら泣きたくなるだろうなあと、思った。

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今日のツヴァイク道、藤の花が盛りだった。
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by yamato-y | 2007-04-21 19:36 | ブロギニストのDJ | Comments(1)

城山三郎さんの目

永田耕衣の友のうた

植木等さんの亡くなる少し前に、作家の城山三郎が死んだ。70代だったから少し早いと思った。20年前は、この人の小説は好きではなかった。というか、経済小説という触れ込みで食指が湧かなかった。なんとなく財界御用達の作家というイメージがあった。だが、あるとき先の戦争について厳しい判断をしているのを新聞で知って、ふと読んでみようかと思ったことがある。だが、それは実現せずそのままとなっていた。
今朝図書館に行ったら訃報の作家の特集で城山の過去の作品が陳列してあったので、数冊借りてきた。

その1冊が『部長の大晩年・永田耕衣の満開人生』だ。神戸に住んでいた俳人永田は大震災に遭遇していて、その後寝屋川の老人ホームで晩年を送る。その頃に城山は永田を訪ねて取材を開始したようだ。
実は、私も同じ頃寝屋川に永田を訪ねて取材をしている。ちょうど震災から2年ほど経っていた。95歳の疎開暮らしの中で詠んだ彼の句が、新聞に載った。「枯草や住居無くんば命熱し」
95歳とは思えない、被災したとは考えられない、強いエネルギーをこの句から感じた。この人物をドキュメントしたいと、東京から私は大阪へ飛び取材交渉にあたった。
この企画は結局実現しなかった。永田の車椅子生活は予想以上に困難に満ちていたのだ。

こういう因縁もあって、城山の本書は興味をもってひもといた。永田は55歳定年まで大企業の勤め人として全うしながら、一方俳人として生ききったということに私は強い関心をもつものの、本書に登場する他の俳人詩人の言葉がいくつか気になる。ここでは、それを記しておきたい。この言葉を選んだ城山三郎の目をつよく意識する。

まず秋元不死男の句。
渚にて見し初蝶を夢に見ず
蝶を見た幸運を喜んだが、夢には出てこなかったという意味であろう。秋元の夫人は、これはもう一度会いたいという心境を指しているわけではないという。「現実のいちどの出会いは、もう一度そのまま繰り返しは望めないのだ」という作者の苦い認識だと、いうのだ。このエピソードを城山はどういう気分で紹介したくなったのであろうか。城山も同じことを考えていたのであろうか。

もう一つ、永田の年少の友人赤尾兜子の句。彼は定年直前の56歳で昇天した。
初寝覚焦らぬことを誓ひつつ
新聞記者であった赤尾は、定年になったら書画展を開いて余生をうちこみたいと語っていたという。まもなくそのときをむかえる、その直前で倒れたのだ。私と同業者であるだけに、この句は他人事ではない。

永田耕衣を思い、城山三郎を偲んでみようと読み始めたのだが、この本の周辺の人たちが気になってしかたがなかった。

前後するが、秋元不死男についてはもう少し書く。彼は京大俳句事件で2年間獄中を体験している。出獄すると、家は空襲で廃墟となっていた。そんな過酷な体験を経ているにもかかわらず彼は家庭を愛した。息子を詠んだこんな句がある。
子を殴(う)ちしながき一瞬天の蝉

そのうたれた息子とは、シャボン玉ホリデーの名ディレクター秋元近史である。彼はその才能で人を驚かせたものだが、絶頂期自死した。

永田耕衣が絶賛したという、高橋新吉の「留守」という短い詩。

留守と言え
ここには誰も居らぬと言え
五億年経ったら帰って来る

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by yamato-y | 2007-04-21 11:45 | 魂のこと | Comments(0)

ファンミーティング

ファンミーティング

ビデオのコピー作業を終えて席にもどったら、「春のワルツ」ファンミーティングの実施要領が届いていた。

来る4月末日に、ソ・ドヨン氏を招いて国際フォーラムでファンミーティングを開催するのだ。私は直接関係していないが、会社の事業ということで私にもプランメモが回ってきたのだろう。

それに目を通すと、その日は土曜日だが、2回公演があるようだ。最初が午後1時半、2回目が午後5時からだ。ゲストはソ・ドヨン氏とピアノのイ・ジスさんの二人だけ。司会はあの大桃美代子さんになっている。どんな内容になるかは分からない。

ゴールデンウィーク前後に、ソさんはずいぶん活躍するようだ。成功してくれることを願う。

さらに、別のところからファックスが届いた。植木等さんのお別れの会についての案内だ。
これは4月27日。青山で行われる。葬儀委員長が谷啓、桜井センリ、犬塚弘の3氏になっていて嬉しい。この会の正式な名称は「植木等さん 夢をありがとう さよならの会」。行きたいが、ひょっとすると、その頃私は関西にいる予定だ。

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by yamato-y | 2007-04-20 15:37 | 冬のソナタの秘密 | Comments(2)


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