定年再出発  


懐かしい空
by yamato-y
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たまには落語を聴いて

福耳落語

三宮麻由子さんというエッセイストがいる。4歳のとき光を失っている。彼女の言葉を使えばsceneless 。
以前、この人が出演する旅番組を見て感心したことがある。盲目ということを、まったく引け目に思っていない。それは一つの個性という感じで、旅を進める姿が小気味よかったのだ。

この人の書いたエッセー「鳥が教えてくれた空」は、実に文章がいい。次に出した「そっと耳を澄ませば」で日本エッセイスト賞を受賞したほどだ。

この人が今度落語の本を出した。今、落語ブームだということは承知している。あの中野翠さんも落語の新書を出していた。
中野さんの場合、志ん朝師匠がごひいきで、その新書自体、彼へのオマージュというかラブレターに読めた。あの、気難しそうな中野さんの意外な一面を見た気がしたものだ。

閑話休題。 三宮さんは目が不自由なことをものともせず、落語好きが高じて、実際に高座にあがって落語の場を体験するくだりまで、この本に書かれている。この人の好奇心は止まるところがない。

小三治師匠の「小言念仏」を聞いて、どじょう鍋に興味をもつのだ。あげく、調理するときにどじょうが鳴くと知って、どんな声だろうと、「駒形どぜう」まで出かけていくのだ。浅草の老舗だ。その調理場へ入って、実際に板前さんがどじょうをさばくのを“聞く”のだ。その経緯、顛末を軽快に、三宮さんは書いている。この文章の最後には彼女の句までついている。
小三治のさげなど語り泥鰌鍋
うまい。

この本の編集者と私は友達なもので、今出来上がったばかりの本を届けてもらって一気に読んだのだ。版元はNHK出版。
本日の発売である。そうだ、大事なことを忘れていた。この本の題は「福耳落語」。このタイトルの付け方がまた実にいいのだ。

これを読んでいるうちに、落語が聞きたくなった。エンターテインメント部へ行って、何かないかなあと問うと、ありました。なんと橘家圓蔵だ。さすが、番組の制作会社だ。

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by yamato-y | 2006-07-31 18:25 | Comments(0)

スチルライフ

スチルライフ

今、番組審査のため、ポータブルDVDプレイヤーを持ち歩いて30本の番組を試写している。

このプレイヤーは便利だ。車中でも出先でもどこでも好きなところで、番組や映画を見ることができる。
欠点は画面が小さいことで、長時間見ていると、眼が疲れてくる。とくに字幕は見づらい。

このDVDの中身は動画だ。いわゆるモーションピクチャーだ。普通写真といわれるものはスチルピクチャー、スチルと呼ばれる。DVD画面だと、モーションピクチャーであっても動きのない画はスチル化するのだ。例えば、風のない日に富士山を入れ込んだ風景を動画で撮影する。風一つないから全てが止まったように見える。それでも大きな画面で見ると、どこかが息をしているのが感じられるのだが、小さなDVD画面だとそれはスチル状態になる。画が死んで見えるのだ。

それは人間の肌も然りだ。昔、東野英二郎が演じた水戸黄門がDVD化されていて、それを見ると動きのない画になると画面がスチル化するのだ。すると、人間が生きていなくなる。つまり死んでいる。肌は実は意識できないほどかすかにいつも動いているのだが、小さなデジタル画面ではそれが表現できないのだ。

ポータブルDVDプレイヤーがどれほど便利でも、これで名画を見て蝶々することは許されないだろう。


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by yamato-y | 2006-07-31 17:00 | 登羊亭日乗 | Comments(0)

サン曜日

サン曜日

本日は休日出勤。午後1時からナレーションを録るのだ。ナレーターは渡邊あゆみさん。

大磯駅へ向かうと、手にビーチボールや浮き輪をかかえた海水浴客が続々降りてくる。
今日は絶好の海水浴日和だ。

私が住んでいるもみじ山は普段は静かだが、夏休みに入ると急に、子供たちの声があちこちから聞こえてくる。

隣のTさん宅にも、娘さんが家族を連れてイギリスから帰ってきた。にぎやかだ。イギリス人の夫君との間に3人の男の子がいる。8歳から2歳までの可愛い盛りが3人もいるのだ。

軒を接しているので、Tさんも我が家に気を使ってくれる。庭で顔を合わせると、「お騒がせしまして」と恐縮する。
結構、騒音には神経質な私だが、子供らの歓声は全然気にならない。ケンカする声も泣き声も全部可愛い。楽しんで、聞き耳を立てるくらいだ。

8歳の上のお兄ちゃんは片言で日本語を操る。日本のおじいちゃんの家に来ると、懸命に日本語を覚えようとしている。今朝も、おじいちゃん、おばあちゃんを相手に練習していた。

「月曜日、火曜日、水曜日・・・」
「じゃ、今日は何曜日?」とおばあちゃんが尋ねた。
「うーん、えーと、サン曜日!」
それを聞いたお母さん、「嫌だ、この子ったら。サンデーと日曜日をごっちゃにしているわ」
Tさん一家は大笑い。

壁を隔てた私も、部屋で、一人でにやにやしている。
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by yamato-y | 2006-07-30 22:00 | ブロギニストのDJ | Comments(0)

キネマ、活動写真、映画

キネマの天地

BSで映画「キネマの天地」(松竹)を見た。長い映画であったが、つい最後まで見てしまった。

1986年に、松竹大船撮影所50周年を記念して、この映画は作られた。舞台は松竹が撮影所を大船に移転する直前の1934年頃の蒲田撮影所。城戸四郎所長以下、若き日の斎藤寅次郎、島津保次郎、小津安二郎、清水宏ら気鋭の監督たちが腕を競いあった、松竹の黄金時代を描いている。

出てくる役者の顔ぶれも大変なものだが、脚本もすごい。この映画の監督である山田洋次や山田組の朝間義隆はともかく井上ひさし、山田太一両巨匠まで参加しているのだ。松竹の力の入れようが分かるというもの。

 だが、全力投入のわりに物語は中途半端だ。その最大の原因は史実にこだわり過ぎたということであろう。日本映画の伝説になった城戸四郎、小津安二郎、清水宏らの造形に、これまで語られてきたエピソードをできるだけ盛り込もうとしたからではないだろうか。
映画としてはつまらなくなったが、映画史を体感するうえでは面白かった。当時の撮影所の様子や浅草繁華街の雰囲気が目の当たりにできたからだ。

映画のあらすじ。浅草の映画館で売り子をしている田中小春は、ある日、小倉監督(小津がモデル)の目にとまり、蒲田撮影所の大部屋にはいることになる。しかし、エキストラでの演技がうまくいかず悩む。助監督の島田はそんな小春を陰でサポートする。いつしか、二人は惹かれあうが、なかなかうまく事が運ばない。やがて小春は会社が命運をかけた大作の主役に抜擢される。ところが最後の正念場での演技がうまくいかず、小春は自分を見失う。それを見かねて、病気の父がある出来事を語って励ますことになる。その成果が出て
映画は見事完成し、小春はスターになる。一方、父はそんな娘の姿を映画館の銀幕で見ながら静かに息を引き取るのであった。

これだけの話なら大衆的で分かりやすいドラマになるはずだが、なにせ途中のオカズが多い。本筋から離れた逸話があれこれ出てくるのだ。

例えば、清水宏をモデルにした監督の撮影エピソード。雄大な富士を背景にしたゴルフ場の場面で、役者が芝居をしたら大きな声でたしなめるのだ。ここでは主役は富士なのだから、お前らはごちゃごちゃ余計な芝居をするな、と。
この話は有名で、それが再現される楽しみはあるが、映画の本筋とはさほど関係があると思えないのだ。

 映画を製作するというのは難しいものだな。好事家として映画を楽しめても、観客は納得しないだろう。

私自身に引きつけていえば、大伴昌司の映画を構想するときも、史実の面白さに引っ張られないようにしなくては。

この映画は、蒲田から大船に撮影所が移転することになったという時期を背景にしている。そうして移転した大船では20世紀中活動が続けられたが、2000年に閉鎖となった。そのとき、私はその終息を記録してドキュメンタリー番組に仕上げた。2000年7月に放送した、「さよなら映画のふるさと・大船撮影所」という番組だ。

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by yamato-y | 2006-07-30 00:28 | Comments(0)

大磯花火大会

大磯花火大会
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 夕方、花火が鳴っている。本日、大磯の浜辺で7時から予定通り花火大会が開かれる。

暑い日であった。やっと梅雨が明けたようだ。花火大会にふさわしい。この大磯では町民の娯楽として花火を打ち上げるが、私の故郷はお盆の行事として行われる。夜空には花火、水面には灯篭流しという風景になるのだ。

 おもしろうて やがて悲しき 花火かな

華やかに空を彩る花火だが、どこか悲しさがあるのは、死者の影が漂っている気がする。ディズニーランドの花火とは違うのだ。

 本棚の整理をしていて、思い出の1冊を久しぶりに手にした。『手よ語れ~ろうあ被爆者の証言~』(長崎県ろうあ福祉協会編、1986年、北人社)
長崎に勤務していた頃に、私も手伝って出版された本だ。

昭和60年当時、ろうあで被爆した人のことは誰も考慮する人はいなかった。というより、原爆という未曾有の災厄の前に障害という苦難はかき消されていた。被爆と聴覚障害という二重の苦難をもつ少数者は不可視の存在だった。ここに光をあてようとする数名のボランティアがいた。全国手話通訳問題研究会・長崎支部の面々である。

 私はローカル番組の制作を通じてボランティアの彼女らを知った。男性メンバーはいなかった。20代から40代の女性ばかりで、驚くべき情熱家ばかりだった。

半年ほどかけてろうあ被爆者から被爆体験を聞き出し、それを半年かけて文章化する作業となった。どういうことを質問して、何を聞き出すか、について私が手話通訳のメンバーたちにレクチャーした。さらに文章にまとめるときも、長崎原爆の私の情報や知識を提供するなど協力した。
 手話通訳のメンバーから、このろうあ被爆者の記録をどこか出版化してくれるところはないかと、私は相談を受けた。

 長崎へ転勤する前に付き合っていた編集者がちょうど独立したばかりだった。三須正隆。おそらく私より6,7歳年長であったろう。フリーの編集者として、私のゲルニカの番組を子供向け雑誌で書いてくれたことから、付き合いが始まっていた。当時、スペイン戦争に私は熱中していて研究仲間の法政大学、川成洋を三須に紹介するなど、個人的にも親しくした。3人は気が合った。

 東北大学で哲学を学んだという三須はなかなかの論客だった。一本気でやや融通のきかない三須はいつも不遇だった。懐はさびしいと見受けた。貧しいがいつか自分の出版社をもつのだと、夢を語っていた。長崎へ私が転勤してからも文通はしていた。

そして、昭和61年、三須はとうとう自分の会社を立ち上げた。東北出身を意識して北人社と名づけた。その出版社の最初の1冊だったか、2冊目だったか忘れてしまったが、とにかく北人社の開店披露の1冊として、この『手よ語れ』が発売されたのだ。

この本が出た夏に、私は東京へもどった。
福祉番組のディレクターとして、私は全国を飛び回ることになり、三須と会う機会も減った。むしろ私が仲介した三須―川成の友情は年も近いせいもあって深まっていた。

年が明けて、1月だったと思う。まだ寒い季節だった。早朝、川成から三須が死んだと連絡が入った。自殺らしいというのだ。遺体が収容された築地署に今から行くというので、私も成増から駆けつけた。

警察には夫人と川成の二人だけがいた。
3人で、遺体と面会した。青ざめた三須の額に一筋血が流れていた。

三須正隆のことは、これまで誰にも語ってきたことがなかった。三須の人生を思うとあまりに悲しいからだ。

 だが、遠花火を聞いているうち、三須のことを書き残したい、こういう仕事をした人物がいたということを言いたくなった。

残された三須の二人の男児も、今では三十近くなっているのだろう。
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by yamato-y | 2006-07-29 18:50 | 魂のこと | Comments(1)

20年前のゲド戦記

アーシュラ・ル・グイン著「ゲド戦記」
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ミンミン蝉が鳴く

朝から、蝉がやかましい。せっかくの土曜日、朝寝しようと思ってもさせてくれない。仕方なく、起きてきて読書。久しぶりに大江さんの本を手にとる。「治療搭」だ。1990年の作品で懐かしい。

 昨夜、筒井康隆が深夜テレビに出ていた。彼の「日本以外全部沈没」という作品の生まれた経緯を話していた。小松左京の「日本沈没」が大評判をとったとき、「沈没成金」と冷やかしてベストセラーを祝うためSF作家たちが集まったことがある。その折、星新一が日本以外全部沈没ってどうだろうと半畳を入れた。それを聞いて、筒井は「そのアイディア、俺がもらった」と声をかけたそうだ。容色は衰えたが、粋なひげを立てて筒井は楽しそうに懐古していた。これの物語は、日本以外がすべて沈没してしまった後の世界の話だ。世界中の難民が日本に押しかけてきて混乱するという、「日本沈没」とはまったくテーストの違うブラックユーモアである。

 筒井が他の作家からアイディアをいただくのは珍しいことではないようだ。むろん、筒井は単なるアイディアを彼独特の世界にもちこむのだから、何ら盗作でもない。

 『文学部唯野教授』もその一つと、私は聞いた。この話は、早治大学の名物教授にして実は隠れた新進作家唯野仁が、壮大な文学理論を講義する形をとりながら、一方大学政治のドタバタをグロテスクに描いたもの。バルトやイーグルトンの名が飛び交う文学講義は、印象批評からポスト構造主義まで広範にわたり、筒井の学識は半端ではないと、大向こうをうならせた小説だ。

この文学論講義のアイディアは大江健三郎との会話から生まれた。1990年当時、大江さんは筒井さんと親しかった。当時、私は毎月のように成城の大江宅を訪問して話を伺っていたのだ。
二人の関係は一方的ではない。筒井から受けた影響は、当然大江作品に反映される。「治療搭」という大江唯一のSF小説はもちろん東欧のSF小説を愛読していたこともあるが、やはり筒井康隆が近くにいたことが大きいと私は思う。

大江健三郎という人はこと文学に関してはきわめて貪欲だ。いろいろなことに挑戦していく。大家になったからとて、同じ作風で書き続ける人ではない。

1994年、私のチームが大江家を撮影しているとき、大江さんは「燃え上がる緑の木・3部作」を執筆していた。その終盤、これを書き上げたら当分小説は書かないと休筆宣言をした。これは話題となったがその直後ノーベル賞を受賞すると、事態は複雑になった。
ノーベル文学賞をもらった人がその後小説を書かないというのは前代未聞だからだ。

マスコミは騒いだ。これからどうするのか、内外から注目された。

 私はそのことについてストックホルムの旅の途中で大江さんにインタビューした。大江さんは小説は当分書かないが、エッセーやファンタジーは書いていこうかなと思うと、答えた。私はそのとき理解できなかった。
ファンタジーって何ですかと、私はしつこく聞いた。大きな物語で、主に子供たちのために書かれるものというようなことかなと話した。例えばどういう作品を指すのですかと質問を私は続けた。すると、大江さんは即座に「ゲド戦記」と答えた。

1994年段階では、日本ではまだファンタジーというジャンルは存在していなかったのだ。大江さんは西欧の文学の動きにもしっかり目を配っていたから、新しいジャンルとして興ってきたファンタジーの手法に興味をもっていたと思われる。このとき語った抱負は数年後『二百年の子供』という大江唯一のファンタジーとして結晶する。

 そういえば、1987年頃、東西冷戦の末期に「世界はヒロシマを覚えているか」という番組で大江さんといっしょに世界を歩いたことがある。東西の芸術家、学者らと対話するためだ。そのとき、アメリカの作家と話をしようと、大江さんはアーシュラ・ル・グインを挙げた。それは誰か私は知らなかったが、大江さんは彼女はとても面白い人だと思うと愉快そうに語ったことがある。

私はル・グインの代理人を探して、アポを取ろうとしたが、彼女はその頃砂漠に住んでいて電話もなく、また人と会うのが苦手だという理由で、この会見を断念する。
これをきっかけに、私は岩波書店から出版されていた『ゲド戦記』を読む。その頃、童話のコーナーに置かれていた。面白かった。

あれから20年。本日、アニメの「ゲド戦記」が公開されると、テレビが伝えている。


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by yamato-y | 2006-07-29 09:40 | 登羊亭日乗 | Comments(0)

怪人X面相

鮎川信夫の奇怪な人生

大伴昌司が周囲にまったく身元を明かさなかったことは有名だ。なにせ、急死したとき、身寄りが見つからないと愛宕署に一晩収容されたほどだ。小松左京や星新一ら作家はともかく、日頃行動を共にした少年マガジン内田勝編集ですら、死後、大伴の正体を知り、両親と相見えるのも遺体検案室でのことであった。怪獣博士は怪人でもあったのだ。

世の中は広いもので、大伴と似たような怪人はいた。しかもとびっきりの怪人だ。
詩人、鮎川信夫。昭和61年に成城の甥の家で、ファミコンを見学中に急死する。これだけでも十分変だ。享年66。

現代詩、特に戦後詩において鮎川は「思想詩人」として重要な役割を果たす一方、ミステリーやワイアット・アープの伝記を翻訳するなど多彩な人物であった。晩年はゴルフ、磯釣りに熱中していた。

ただ一人の弟子河原晋也は、鮎川のことを「幽霊船長」と綽名した。
「謎の怪人」といわれた鮎川は極端な秘密主義者だった。実家以外のことはいっさい素性を明らかにしなかった。母が元気なうちは彼女が秘書代わりで、会見も母の家で行われた。直接、彼と連絡をとるのが難しく、中継者を介して連絡を入れ、折り返し本人から電話が来るまで待たねばならなかった。

鮎川の母がまた怪人なのだ。若い頃相当の美人だったと思われるが、老いて稀代の毒舌家、悪戯好きになったという。言及すればきりがないので、一つにとどめるが、吉本隆明に関することだ。
鮎川と吉本の仲は知られている。最初の頃、吉本もときどき鮎川の実家を訪れることもあったが、あるとき母は吉本に「貧乏書生は子供をこさえるものでない」と、説教垂れたという。懲りて、吉本は出入りしなくなったとか。毒舌、悪戯、枚挙に暇ない。意地悪サッチャンと噂された。

人は鮎川を独身主義者だと思っていたが、30年連れ添ったフミ子夫人という存在が死後になって判明するのだ。
その夫人がまた奇怪な人だ。炊事洗濯まるで駄目。浮世離れした、学究の徒であった。

隠れ家はつたがびっしり覆った木造の平屋。まるで物置のようなところに鮎川は妻と住んでいた。寝室兼仕事場はくもの巣が張りほこりがうず高く積もっていた。部屋にはガラクタや古着が積まれ、膨大な英語の雑誌が散乱していた。整理整頓という俗世間のいじましい徳目はここにはない。――まるで幽霊船だ、この部屋を死後見学した河原はそう思った。以来、河原は鮎川のことを“幽霊船長”と呼ぶようになる。

河原はフミ子夫人から次々と意外な話を聞かされる。それは、長年付き合ってきたダンディな鮎川とはまったく異なるイメージであった。
●料理の苦手な夫人のために、刺身をさばいたり、湯豆腐をこさえたりした。
●気前がよく、ゴルフ麻雀と遊びなれた鮎川だったが、家ではスーパーの景品クーポン券をせっせと集めて台紙に一枚一枚貼り付けていた。
●長年付き合ってきた甥ですら、妻の存在は知らされていなかった。

以前、北村太郎に関する「北村太郎を探して」という本について触れたことがある。北村も鮎川と同じ「荒地」の主要メンバーであった。この本は北村が亡くなったことを契機に書かれたものだ。そこに、北村の中学校時代からの友人で詩人・英米文学研究である加島祥造の講演が収録されていて、こんな発言を加島がしている。

《一九五三年に僕は、そこの山下公園に繋留されている氷川丸で、アメリカに留学に行ったんです。(中略)戦後のアメリカに行く留学生では、僕はごく初期の留学生で、その見送りには、北村と最所フミが2人だけ来てくれたんだ。どうして北村が来てくれたのか、いまだによく分からない。あの人が心の中で僕をそんなに大切に思ってくれていたとは考えられないんだ。もう1人は最所フミ、彼女が来たのは、当時僕らは一緒に暮らしていたからね(笑) 》

最所フミとは戦後日本でもっとも有名な女性の英米言語研究者。後に鮎川の妻となる人物だ。戦後間もない頃、雄鶏通信社にいた加島が、リーダーズダイジェストに勤務していた最所フミに、進駐軍向けの新聞に英文コラムの執筆を依頼したことがきっかけで、荒地のメンバーをの交流が始まった、ということが真相らしい。今や信州に隠遁して、道教を英訳したりして仙人のように暮らしている加島が、鮎川の妻とかつて恋人同士であったとは。

詩人鮎川信夫が怪人というより、詩人およびその周辺の人たちはみな怪人だった。なんか、アダムスファミリーを見ているようだ。大伴昌司は単独犯罪、鮎川信夫は集団犯罪ということか。
今、職場は明日から始まる引越しで大騒ぎ。私は、2本の番組のナレーション原稿のチェック。多忙のはずだが、この鮎川のことを書いておかないと気がすまない。なんだ、かんだで、またブログライティング。


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by yamato-y | 2006-07-28 16:14 | Comments(0)

鮎川信夫、その詩

死者の声 

敗戦後、日本の「大人」たちは虚脱してしまい占領軍の前にひれ伏してしまった。その閉塞を若者らは打破してゆく。詩壇においても例外ではない。詩誌「荒地」が復刊され、そこから新しい人間が叫びをあげ戦後詩壇をリードしてゆく。その中心に鮎川信夫がいる。
  
「荒地」の詩人、鮎川信夫は戦争が始まる前、昭和13,4年ごろ、早稲田の仲間らと詩の同人を作っていて、よく新宿の街を語らいながら歩いた。その中に森川義信がいた。昭和14年3月頃、早稲田構内で二人並んで撮影された写真がある。いかにも親友同士というスナップだ。
そして、その年の暮、森川は早稲田第二高等学校を退学して故郷の家に帰っていく。そして召集された。

昭和17年8月13日、森川はビルマのミートキーナで戦病死する。まだ25歳だった。その森川義信の遺言の中に鮎川への感謝の言葉があった。「一貫して変わらぬ交誼を感謝します。この気持は死後となっても変らないだらうと思います」と書かれていたのだ。それを読んで鮎川は言葉を詰まらせた。
「それにしても、こんなに丁寧に挨拶して死んでしまうなんて」

その鮎川自身も森川の戦病死を知ってまもなく1942年に近衛歩兵連隊に入営し、翌年スマトラに送られたが、1944年発病のため内地に送還され生き残ることになった。
戦後、鮎川は一つの詩を森川に捧げた。

死んだ男

たとえば霧や
あらゆる階段の足音のなかから、
遺言執行人が、ぼんやりと姿を現す。
ーこれがすべての始まりである。
遠い昨日・・・・
ぼくらは暗い酒場のいすのうえで、
ゆがんだ顔をもてあましたり
手紙の封筒を裏返すようなことがあった。
「実際は、影も、形もない?」
ー死にそこなってみれば、たしかにそのとおりであった。

Mよ、昨日のひややかな青空が
剃刀の刃にいつまでも残っているね。
だがぼくは、何時何処で
きみを見失ったのか忘れてしまったよ。
短かった黄金時代ー
活字の置き換えや神様ごっこー
「それがぼくたちの古い処方箋だった」と呟いて・・・

いつも季節は秋だった、昨日も今日も、
「淋しさの中に落葉がふる」
その声は人影へ、そして街へ、
黒い鉛の道を歩みつづけてきたのだった。


埋葬の日は、言葉もなく
立ち会う者もなかった
憤激も、悲哀も、不平の柔弱な椅子もなかった。
空にむかって眼をあげ
きみはただ重たい靴のなかに足をつっこんで静かに横たわったのだ。
「さよなら、太陽も海も信ずるに足りない」

Mよ、地下に眠るMよ、
きみの胸の傷口は今でもまだ痛むか。

 鮎川の「死んだ男」は死者たち一般を指すのではない。「M」と呼びかけられるその人物は森川義信に他ならない。Mは死に鮎川は生き延びた。
「幸か不幸か私は生き残り、戦後の詩運動に携わるようになった。大戦から得た唯一の積極的な教訓は、森川の死から受けたと言ってよい。自己という病いから癒えるために、死んだ友のことを考えることは、私には一つの救いになったとおもう。いつも詩を一種の遺書と見做すような気持ちが私にはあるが、それもおそらく彼のせいだろう。」

文芸評論家の井口時男は次のようなことを語っている。「文学が語るのはあくまで固有の死者である。死者自身はなにも語らない。語りえない。だからこそ我々は安易に死者の名を借りて語ってはならない。死者の「遺言」を知っているかのようにふるまってはならない。死者は戦後社会に生き延びた者に,私の「遺言」を執行せよ,と迫る。しかし,生き延びた者はその「遺言」を知りえない。このとき,死者の記憶を喚起しようとして文字を書き始めた者たちは,吃音するようにして言葉を書き記すしかない。なめらかに語ることなどできないのだ。」

 少なくとも鮎川は自らが「死者たち」の「遺言執行人」であるかのごとく語ってはなるまいと考えたであろう。この哀切に満ちた詩人が実はとんでもない怪人だったというのは、今朝までまったく知らなかった。鮎川のニックネームは「幽霊船長」。私はこの人物を大伴昌司と同じくらいの怪人だと思う。むりくりで渾名を付けるとすれば、怪人5面相。このことは次に書くことにする。

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by yamato-y | 2006-07-28 00:59 | Comments(3)

引越し騒ぎ

引越し騒ぎ

今、私のオフィスでは引越しが行われている。この春に合併したのだが、そのときは大きな変化はなかった。新年度の番組が定着するまでとりあえず組織を変更するようなことを、会社は避けたのだ。
だが夏に入り、ようやく番組が安定期に入ったということで、全社あげて引越しすることになった。

実は、昨年の夏も座席替えを私はしている。そのときは番組制作グループから番組の企画を開発するグループへの異動だった。
そのときも、机の中をすべて出して箱詰めして移動したのだ。わずか1年でまた引越しだ。

おまけに、この時期他の人たちは夏の休暇シーズンに入るぐらい「暇」だが、私はそういうわけにはいかない。7、8月がもっとも多忙を極める。

ぶつぶつ言ったところで、私だけが例外にはならない。今週末、つまり土、日に業者が機械的に荷物を運ぶことになっている。だから、金曜日が荷物のパッキングの最終日となる。もちろん、金曜日一日で片付けられないから、今日ぐらいから少しずつやっておかなければいけない。番組の編集のかたわら、その作業にも追われる破目となる。

わずか1年しか経たないのに、引き出し、ロッカーには資料やくだらないものがいっぱい貯まっている。これを機会に廃棄しようと思うが、なかなか踏み切れないものだ。一番厄介なものは美術本だ。大きく重い。嵩張る。これを箱詰めしてまた取り出すのだと思うと、ぞっとする。次にいらいらするのは外国のコインだ。海外取材で持ち帰ったコインが半端ではないくらい引き出しに貯まってしまった。捨てるに捨てられない。

ふて腐れて、箱詰めやっていたら、肘が机の端にあった名刺入れに当たった。あっと思ったら、そのボックスは落下。整頓されていた名刺は見事にばらばらに散らばった。何ということだ。また名刺の整理をやらねばならない。ざっと1000枚近くある。こんなことになるのも、引越しを考えたやつのためだ。くそ。と八つ当たり気味。


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by yamato-y | 2006-07-26 17:46 | 登羊亭日乗 | Comments(0)

被爆のマリア

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被爆のマリア



タイトルに惹かれて田口ランディの小説「被爆のマリア」を買った。ウェブの小説で名を馳せた人だから、“保守的な”私としてはこれまで敬遠して読んだことのない作家だった。ところが、この題名の小説を読んでみると、いたって普通の文学であった。
物語は――

主人公は、ビデオ店で働く若い女性だ。何でも頼まれると断れないタイプで、お金も貸してしまうし、身体も許してしまう。そんな自分が嫌のだが、嫌われたくないという思いのほうが勝ってそうなってしまうのだ。同僚の男性がそんな彼女を案じている。彼は、主人公のことをアダルト・チルドレンではないかと考え、幼い頃に何か傷ついたことはないかと問う。幼少期どころか、現在でも彼女は父の暴力に苛まれていた。やがてそれはエスカレートし、母と共に父から逃亡するが、やがて捕まり、母はその暴力の中、死んでしまう。

そして、彼女は被爆のマリアに祈るのだった。長崎に原爆が落ちたときに破壊され、首だけになった焼け焦げの「被爆のマリア」に。原爆というとてつもなく大きな悪意に対して無抵抗で被爆していった無原罪のマリア・・・。

このマリア像は見覚えがある。それどころではない。私の心に深く刻印されている。20年前、長崎三ツ山の純心女子大の学長室で目にして以来、脳裏から去ったことがないのだ。

長崎浦上。江戸時代以来、キリシタンたちが潜伏してきた地だ。江戸末期から明治初年にかけて、キリシタンであることが発覚して何千人という村人が流罪となった。浦上4番崩れと世にいう事件だ。刑を終えて村人がもどったのは明治6年(1873)のことだ。半数近い者が流罪先で亡くなっていた。生きて帰村した1883人は荒れた浦上の地を復興させてゆく。そして、力を合わせて念願の天主堂建設を始める。20年ほどかけて大正3年、東洋一の煉瓦造のロマネスク様式の大聖堂が完成させた。祭壇にはイタリアから送られた無原罪の聖母の像が奉られた。美しい像であった。それから30年経った。

1945年8月、浦上天主堂の上空500mで原子爆弾が炸裂した。一帯は猛火に包まれ地獄と化し、浦上に住んでいた12,000人の信者のうち、8,500人がその日に亡くなった。 天主堂には、被昇天の祝日の準備のため信者24名と司祭2名がいたが、全員が即死、天主堂は深夜まで燃え続けた。浦上の丘は廃墟となった。その年の10月、一人の復員兵が浦上の廃墟を訪れる。 長崎の出身で、北海道の修道院に帰院する途上の野口神父であった。 師が深い祈りをを捧げている時、瓦礫の中から、真っ黒に焼け焦げた顔が、深い悲しみをたたえて自分をみつめていることに気付く。 天主堂の祭壇に奉られていた聖母マリアのお顔であった。野口師は、このマリア像を自室に安置して毎日祈っていたが、「このような聖なる物を私していることに後悔をおぼえ」、原爆三十周年の年、片岡弥吉氏の手を通じて浦上天主堂に返上した。

片岡弥吉氏は浦上キリシタンの末裔で、キリシタン研究の第一人者だった学者だ。二人の娘はシスターとなり、現在純心女子大の学長と教授となっている。弥吉氏の死後、そのマリア像は娘に託された。その片岡千鶴子シスターから、20年前に「被爆のマリア」を見せていただいたのだ。お顔をみたとき感動した。美しい面が焼け焦げ、眼は失われて眼窩はむき出しとなっているが、慈愛と呼びたいような微光が放射していた。

このマリア像をめぐる物語を、私は最初に著した本のなかで紹介することになる。その本とは、「キミちゃんの手紙」(未来社)で、兵器工場に動員されていた女子挺身隊の被爆記録である。この本には、私の長崎勤務で学んだことをすべて書き込んだ。私にとって長崎とは、原子爆弾の被害とキリシタンの栄光であった。
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かつてのマリア像
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by yamato-y | 2006-07-26 13:44 | 魂のこと | Comments(0)


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