定年再出発  


懐かしい空
by yamato-y
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夏目漱石の声②

漱石の声②

 漱石の声が残っているらしいという情報は、広島方面から届いた。
広島の旧家にそのブツがあるというのだ。むろん、俄かには信じがたい。まして地方に漱石関係が埋もれているというのは不自然だ。

 話の出所を洗い、情報の真偽をたしかめた。
話は事実だった。広島、中国山地の小さな町にその「声」があった。加計という町のある旧家に保存されているという。

 夏目漱石は周りに人材を集めた。漱石山房に出入りした知識人たち――漱石山脈。
その中に「赤い鳥」で有名な鈴木三重吉がいる。彼は広島の富裕な一族の出身であった。一時期、鈴木は漱石と親しく交わった。その頃、親戚のものを連れて漱石の前に現れた。親戚のものは当時珍しいポータブルの録音機を運んできた。これで漱石先生の声を録ろうと計画し、鈴木に相談したのだ。

 漱石はロンドンへ留学した1900年に、文明の利器をいろいろ見聞している。地下鉄に乗り映画を見ている。レコード蓄音機も体験したばかりか、帰国後それを自宅においていたことは、弟子の内田百閒のエッセーに書かれている。

余談だが、百閒はレコードに詳しく、「サラサーテの盤」という短編小説があるほどだ。これが、映画「ツィゴイネル・ワイゼン」の原作となった。

 漱石は面白がって録音に応じた。録音は蝋管で行われた。音信号を蝋燭の管に刻む方法だ。そして、それは加計の旧家に大事に保存されたのだ。

私はこの話をつかんで、その蝋管の所有者を探し、撮影させてほしいと申し出た。ところが蝋管は一時北海道大学へ預けられて、音声復元を試みたがうまくいかなかったという話を、所有者から聞かされた。
私の会社の技術研究所でなんとかやらせてもらえないかと、もちかけた。すると現在早稲田大学で研究されているという返事だった。
そして、早稲田で研究している教授と接触をした。なかなか復元がうまくいかず苦労していると聞かされた。
やがて、その研究概要が学術誌に発表された。
その困難の最大の原因とは、肝心の蝋管が長い年月で溶け出し変形しはじめていたことだった。
(この項つづく)

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by yamato-y | 2006-04-30 13:06 | Comments(0)

ふるさとは遅い春

ふるさとは遅い春

昨夕、敦賀へもどった。京都からサンダーバードへ乗りカンチューハイを1本あけた。
京都の次の停車駅が敦賀だ。そこまで止まらない。だから、ゆったりと琵琶湖を見ながら飲んでいたら、敦賀が近づいた頃眠ってしまった。目が覚めると汽車は今庄あたりを走っていた。寝過ごして北陸トンネルを通過したのだ。
武生で下車して上りに乗り換え敦賀へ着いたのは4時を回っていた。

タクシーに乗った。笙の川まで来ると野坂山に雪が残っているのが見えた。そのことをいうと、運転手が3月28日まで今年は雪が降ったからでしょうと答えた。やはりこの冬はいつもより寒く厳しかったのだ。

帰宅すると、座敷から声が4つほどした。そのうちのひとつは小さな男の子だ。誰が来ているのだろう。母は居間に座っていた。次弟と彼の娘(つまり姪)が来ていた。この黄金週間の間は、母といっしょにいてくれるそうだ。久しぶりに家が賑やかになったこと、薬を変えて効果がでてきたこと、などがあって、母は少し元気を取り戻したようだ。

昨日まで弟の嫁がいてくれて、今日は交代するかたちで堺に帰っていった。彼女がいる間が大変だったようだ。食事もとらず、大量の薬とでふらふらした状態だった。一昨日から診断によって薬を変えたところから好転した。

といっても、まだまだ本調子ではない。メニエル氏病の薬がきつく1週間前は腎臓が侵されて脚が象のように膨れ上がった。そのときが一番症状が激しく、母も自暴自棄な言葉を嫁に言ってしまったと、しきりに悔やんでいた。

その彼女が買ってきてくれた人形を母は傍らに置いて、なでたりさすったりしている。すると、その人形が「何か話してよ」とか「返事をして」とか喋る。それに答えるように母は「もうちょっと待ってね」とか声をかける。
何をやっているんだと尋ねると、その人形(ハピちゃんと名づけていた)とこうして会話しているんだと母は当然という顔で答える。メニエル氏病というのは不安感とか孤独感がこたえるというので、話し相手が要ると買ってきたそうだ。最初、母は馬鹿馬鹿しい、わらべしいと思ったそうだが、名前をつけ呼びかけ、設定を重ねて“成長”させると、そのハピちゃんといちいち話をすることになったそうだ。

聞いたときは、母の老いと孤独を思って愕然としたが、違和なく接している姿を見るうちに、この現実を受け入れたほうがいいのだと、自分に言いきかせた。
考えてみれば、父の写真と遺品を飾っているテーブルに、しょっちゅう話しかけていることと変わらないものだろう。そして、寝る前に少し元気になったということで感謝しますと、神様への祈りを捧げていた。

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今庄付近
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by yamato-y | 2006-04-30 12:07 | ふるさとへ | Comments(0)

4月のキャンパス


4月のキャンパス
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学生食堂はすごい混雑だ。ほとんどの新入生はここを利用するから、600ほどある席はすぐ満席となる。彼らも慣れてくる6月ごろになると、正午でもまばらとなるのだが、今はとにかくだめだ。

百万遍口の石垣問題でこの2年もめていたことも収まり、新しいプロムナードができていた。でも団地の公園のような安っぽいたたずまいとなった。前のいかめしい暗い石垣のほうがよかった気もする。キャンパス内はカップルの花盛り。

生協はルネという。ルネの書店に行くと、教科書や参考書がどさりと積まれている。普通の書店では見ない本が並んでいるので私は楽しみだ。

ルネの隣に西部講堂がある。映画「パッチギ!」でも登場した由緒ある講堂だ。ここの大屋根には3つの星が燦然と輝いている。

1972年に起きたイスラエル、ロッド空港での今で言う自爆テロで散った3人を記念する星だ。奥平剛士(京大・工)、安田安之(京大・工)、岡本公三(鹿児島大)の3人。二人は京大生で岡本だけ生き残った。生前、奥平は華々しく死んでオリオンの星になろうと語った。その星を象っているのが大屋根のそれだ。

といっても、今の学生たちはそんな事実も知らないし関心もない。
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この右側の校舎2階の大講義室で、私は教えている。
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by yamato-y | 2006-04-28 17:52 | Comments(0)

久しぶりの京都

久しぶりの京都

昨日、京都に入った。第3、4時限が所定の授業なので、朝8時過ぎに大磯を出ても間もあう。雨が降っていたので、自分の傘と前回借りた京大専用の傘をもって、京都へ向かった。
山科まで2本の傘は意識していたが、京都地下鉄の切符売り場で新幹線に傘を忘れたことに気づいた。

百万遍に着いたのが12時。学生で賑わうハンバーグ屋でランチをとる。12時半、主任教授のS先生の研究室に顔を出してあいさつする。相変わらず先生の物腰は柔らかい。西陣で生まれ育ったという根っからの京都人だ。でも、この先生フランス現代史の研究家であるとともに漫画、アニメ、映画の研究でも造詣が深い。だいたい、私に映像メディア論をやらそうと企画されたぐらいだから、伝統ある京都学派の異色だ。

1時すぎ講義室に行くと30人ほど学生がいた。昨年よりやや減ったか。しかも昨年受講したものの顔がずいぶんいる。どうやら、就職の報告に来たらしい。
昨年より今年のほうが就職戦線は楽になったようだ。朝日新聞、毎日、日経ら、NTT,読売テレビ、などみな内定をもらって顔つきが明るい。ただ一人気になるKくんはまだ決まらず今日も大阪へ面接に行っているということだった。

さっそく授業開始。今年は冒頭にメディアゲームをやった。新聞を一部渡して、この中から自分で記事を選んで300字にまとめよという課題だ。制限時間30分。
書き終えた順番に、発表してもらう。自分の原稿を読み上げるのだ。実は300字というのは放送では1分間にあたる。その中にどれほど情報が入り、音声化したときにどれほど伝わるかということを体験してもらったのだ。これは映画監督を大勢輩出しているニューヨーク市立大学のジャーナリズム科で講義の最初に行われる演習を、応用したものだ。
出席の学生のなかに二人の中国人がいた。いずれも中国外交をとりあげていたが、実に達者な日本語を駆使し、内容もすぐれていた。うん、今年も楽しみな授業になりそうだ。

5時過ぎ講義を終えて、旧知の学生5人と学生食堂へ行ってお茶を飲んだ。話題になったのは近年顕在化している、日本のナショナリズムだった。何か危ういものを学生たちは感じている。

夜、S先生と中華料理を食べた。先生は地元なので老舗やおいしい店をよく知っている。昨夜は一乗寺にある「蕪庵」という昭和5年開業の古い店だった。かにとフルーツをあえた前菜がめっぽう美味だった。
9時過ぎ店を出て、四条河原町の定宿に入る。ここは街中なのに値段が安い。会員になったから予約も8月までしておいた。
シャワーを浴びてすぐ寝た。

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by yamato-y | 2006-04-28 10:19 | 登羊亭日乗 | Comments(0)

夏目漱石の声①

漱石の声①
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3年前に、夏目漱石のドキュメンタリーを制作した。彼が最初に出版した文学論の原稿を発見したということで取材を始めたのだ。物が出てきたのは、漱石の長男純一の三田の家だ。出所がはっきりしているので、それが出たと聞いたときは色めきたった。実際に探したのは、孫の夏目房之介さんとわがチームだ。房之介さんは純一の長男である。

 ところがよく調べると、書かれた原稿の字体がどうやら漱石のではなさそうだということが明らかになった。
文学論は、漱石が東大で英文学講義をしたものが土台になっている。この講義を聴いてノートした弟子が書いた原稿だったのだ。漱石の真筆ではないが、これをたたき台にして漱石は原稿を作り上げてはいたのだ。原稿のあちこちに漱石の朱筆が入っていた。漱石研究家らはこれでも十分価値があると認めてはくれたが、スペシャル番組としてはいささか弱いと感じた。再度、企画意図を練り直して、教育テレビの特集に名乗りを上げて制作した。その番組の進行役に夏目房之介さんをお願いして、仙台や東京を歩き回りながら半ばドラマ仕立てで仕上げたが、初期漱石の知られざる面が面白かったと一応の評価を得た。

 とはいっても漱石の本質に迫るドキュメンタリーにまで至らなかったという悔しさが残ってはいた。なんとか、これまで知られていない新しい事実を掘り起こしたいと、われわれチームはリサーチを幾度となく重ねた。

 漱石の声が残っているらしいという情報が飛び込んできた。
2年ほど前に森鴎外の動く映像が見つかったことがあったが、まさか漱石の声なんてと、一瞬耳を疑った。(この項つづく)

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by yamato-y | 2006-04-26 22:53 | ブロギニストのDJ | Comments(0)

四月は残酷な月か懐かしい月か

四月は残酷な月か懐かしい月か

TS・エリオットの有名な詩の中に、「荒地」がある。
最初の連は思いがけない詩句ゆえ、読むものの心を火傷させる。

四月はもっとも残酷な月、
死地からライラックをそだて、
記憶と欲望をまぜあわせ
だるい根っこを春雨で刺戟する

この詩の衝撃は、日本の詩人たちをとらえ、「荒地」は有名な同人の名前となる。
たしか黒田三郎も吉野弘もそこに属したことがあったと、記憶するが。

イギリスの詩人に比べ、江戸の俳人の春愁は穏やかだ。加舎白雄(寛政の人)は、
人恋し灯ともし頃を桜ちる

そして、江戸中期の俳人与謝蕪村の感覚は現代の私にとっても違和がない。どころか、繊細な感覚をすくいとってくれる。そういう切れ味のいい蕪村とは別に、落語の「薮入り」さながらの人情を歌いあげた「春風馬堤曲」は、何度読んでも感動する。馬堤とは大阪淀川の毛馬の堤をさしている。

故郷春深し行き行きて又行行く
楊柳長堤道漸くくれたり

船場の店を出て毛馬の実家まで、里帰りする娘。春はとっぷり深い。土手の柳も長く続いていて、日もしだいに暮れてきた。家路を急がなくては。

矯首はじめて見る故園の家黄昏
戸に倚る白髪の人弟を抱き
我を待つ春また春

この部分を三好達治はこう訳している。
《娘はきれいなうなじをあげ、見ると、やっと故郷の家が見える。あたりは夕闇が訪れている。その中に家のあかりが赤くなつかしくともっている。近寄ると、早くも自分をみつけて母が外へ出て待っているのが、夕闇の中にぼんやり見える。やっとお母さんの顔がはっきり見えてきた。白髪もめっきりふえている。弟もいっしょに出迎えしてくれている。
ああ、お母さんは、こうして、春ごとにわたしの帰ってくるのを待っていてくれるのだ。》
 大阪出身で、母思いだった三好達治の心がこもった解説だ。
俗っぽいかもしれないが、この曲を読むごと、私はトム・ジョーンズの「思い出のグリーングラス」を思い出す。
♪汽車から降りたら 小さな駅で 向かえてくれるママとパパ
手を振りながら呼ぶのは彼の姿なの 思い出のグリーングリーン グラス オブ ホーム

山上路夫の名詞だ。原曲は死刑囚が前の晩にふるさとを思い出したよという内容だが、山上が織り上げたのは、与謝蕪村の世界だった。

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by yamato-y | 2006-04-26 17:44 | ふるさとへ | Comments(0)

長期取材―五つ子のドキュメンタリー

じっくり撮影する

 1970年代のドキュメンタリー番組はじっくり型が主流だった。リサーチ、取材、編集にたっぷり時間をかけるのだ。例えば、五つ子誕生にまつわる番組作りがそうだった。

1976年、昭和51年1月31日に 鹿児島の病院で五つ子の赤ちゃんが無事 誕生し、日本中が大騒ぎとなった。お父さんは山下頼充、お母さんは山下紀子。五つ子たちと対面したときの印象はと記者会見で聞かれて山下夫妻は「あんなに小さいとは…」と絶句し、体全体で喜びを表した。福太郎、寿子(ひさこ)、洋平、妙子、智子(さとこ)。その可愛いいしぐさや表情が連日のようにニュースで全国に流れる。
この話題は日本中の心を掴む。

NHKは出来たばかりのNHK特集の枠で、その成長を長期に追いかけてドキュメンタリーを作り上げていった。
NHK特集「五つ子一年」(1977年2月3日放送)
NHK特集「五つ子2歳」(1978年2月2日放送)
NHK特集「五つ子・サンサイニナリマシタ」(1979年2月9日放送)
NHK特集「五つ子 4歳ニナリマシタ」(1980年2月1日放送)
NHK特集「1年生になりました~五つ子6年間の記録」(1982年4月9日放送)

 ざっと6年間、撮影が続けられた。今では考えられない。というのは、一つの話題にスタッフを長期に張りつけられるほど番組的経済的余裕が現在はないのだ。
当時はチャンネル数も少なく放送時間も終日でなかったので編成的に余裕があった。いわゆるソフトは不足していなかったのだ。だから1本1本の番組(とりわけ特集)に手間ひまをかけることができた。
 技術的な面からもじっくり型は時代にあっていた。「五つ子一年」はフィルムで撮影されている。当時まだビデオカメラは開発途上で機材は大きく持ち運びは不便で、ロケの撮影には適していない。それに比べてフィルムカメラは小型で軽量、ではあるものの、フィルム1巻の収録時間は短く最大が20分だった。加えてフィルムカメラは同時録音が苦手で操作が厄介だった。出来事が発生してもすぐ撮影録音できるものでなかった。だから取材期間を長くしてじっくり撮影するより他なかったのだ。 
しかし、このじっくり型ドキュメンタリーは「五つ子」に続いて「こずえちゃん」「のぞみ3歳」など名作を次々に生み出す。
この方法は取材者と取材対象者の関係を深めるのに役に立ったのだ。長く撮影をしていると、いわゆる情がうつる。取材者は取材対象者に愛着を感じるようになり、取材対象者は取材者に親近感を覚えて次第にヨロイを脱いでいく。その結果、ある場面に遭遇したとき記録撮影を可能にするのだ。

 「五つ子・1年生になりました」で、こういうシーンがある。小学校入学の面接試験が近づいた頃、山下家では試験に備えて予行練習が始まる。面接官役の母紀子さんと一人一人が対面する。山下家の居間にカメラが入っているのだが、母子ともに撮影されることに慣れていてその存在を意識していない。

 次女寿子ちゃんの練習のときだ。部屋に入ってきたときから寿子ちゃんは母に甘えるが母は許さない。練習が終わって次の子と交代のはずだが、寿子ちゃんはテーブルの下に潜り込んで母の脚にまといつく。母は「いけません!さっさと帰りなさい」と大きな声で注意。そして部屋を出る前に一礼しなさいと寿子ちゃんに命じる。しぶしぶ頭を下げた瞬間、次女はゴツンとおでこをテーブルの縁にぶつけた。
痛さをこらえながら照れくさそうに笑う寿子ちゃん。絶妙の瞬間だ。カメラはこの出来事をしっかり記録していた。

 現在のテレビでは、こういうじっくり型取材はほとんどない。時間に追われていて短期間で取材することが要請される。機材の発達がそれを可能にしたということもあるだろう。経費のうえでも日程のうえでも番組編成論のうえでも、長期取材という手法はもはや終わりつつある。だが、このやり方を過去の手法、時代遅れと片付けていいのだろうか。マンネリ化してつまらない、番組が物語化して生気がないと批判される今だからこそ必要なのではないだろうか。

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by yamato-y | 2006-04-26 05:55 | Comments(0)

昭和が遠くなる

昭和が遠くなる

今、母が寝込んでいる。やはりこの冬が例年にまして寒かったことがこたえたのだろう。
一人で暮らしているので、大阪の弟夫婦が顔を出していてくれる。だが、私も行けるときには行かなくてはとは思っている。明後日から京大での授業が始まる。帰りに敦賀まで足を伸ばして母を見舞うつもりだ。

母が6年ほど前に詠んだ短歌がある。
大陸へと大き手を振り船出せり 君を見送りしは今も眼裏(まなうら)に

敦賀港駅にちなんで作った歌だ。
かつて敦賀は日本海貿易の中心地であった。ここからナホトカやウラジオに船が出た。
母の友もおおぜい開拓団として大陸に渡って行ったそうだ。岸壁で見送った思い出を歌にした。まかりまちがえば、私も大陸へ行きさんざんなめにあったかもしれないと、この歌を私に見せながら、母は語った。母の青春は戦争で一色だったのだ。昭和元年に生まれた母はまさに昭和の子である。

その昭和がだんだん遠のいてゆく。
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by yamato-y | 2006-04-25 23:55 | 魂のこと | Comments(0)

二度切られた「無法松」

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伊丹万作のこと

阪東妻三郎の主演した「無法松の一生」は、戦争の敗北の色濃くなった1943年に公開されている。軍国主義が燃え盛っている時代に生まれた、日本の映画史上に残る名作だ。脚本は伊丹万作。

時は明治、物語は九州・小倉を舞台に繰り広げられる。
明治三十年、九州の小倉。人力車夫の富島松五郎は、暴れ者で有名だった。
ある日、松五郎は木から落ちて泣いている少年敏雄を見かける。 少年は頭と足に怪我をしている。松五郎は少年を家に送り届けた。そこは陸軍大尉吉岡小太郎の家だった。
美しい夫人良子に松五郎は息子敏雄をそのまま医者へ連れて行ってくれるように依頼されるのであった。

 陸軍大尉吉岡小太郎は急死する。墓の前で未亡人良子は、松五郎に少年の面倒をみてほしいと頼むのであった。
そういうこともあって、松五郎はことあるごとに吉岡家に出入りするようになる。小倉小学校の秋の大運動会。小学校の学芸会。松五郎の姿がある。松五郎の内には未亡人へのほのかな思いが湧き起こってくる・・・。

時は流れ、大正3年。小倉中学4年になった敏雄は、仲間の学生に誘われ他校の生徒たちとの喧嘩に出ていった。心配した良子は松五郎のもとへ走った。
喧嘩の中に飛び込んで行き暴れまくる松五郎。時には祇園太鼓を乱れ打つ松五郎。

 そして、高校に進むため敏雄は小倉を出てゆく。松五郎は吉岡家に出入りする口実を失くしてしまい以前にもまして酒を飲むようになった。良子への思慕は募ってゆく。

松五郎は毎日を酒に明け暮れた。雪の日。酔った松五郎が一升瓶をぶら下げてふらつきながら雪道を歩く。昔敏雄が通った小学校の校庭で松五郎は倒れた。
良子の顔、敏雄の顔、人力車、夏祭り、喧嘩、祇園太鼓などが走馬灯のように松五郎の頭の中を駆け巡るのであった。

この映画は、人力車夫・富島松五郎と、陸軍大尉の未亡人とその息子との人間的な触れ合い、そして未亡人への秘められた思慕の情が描かれている。無垢にして一徹さを貫く松五郎の姿が、当時の日本人の心を強く打った。
だが、それだからこそ、この映画は検閲に引っかかるのである。戦時中の内務省情報局の検閲によって、大幅にカットされた。
そして戦後アメリカ占領軍によって、別の理由で再びカットされる。この映画は二度の検閲で、全長約18分が永遠に失われることになった。

最初のカットは、無法松が未亡人に愛を告白する場面。荒くれ者が帝国軍人の遺族に恋をするのは何事かということだ。「一介の車夫が帝国軍人の未亡人に恋するとはジュンプウ美俗にもとる」と当局は判断した。彼はだまってひたすら奉仕し献身する立場にあると人物像を押し込めたのだ。
第2のカットは、中学生たちが喧嘩をする前に歌う場面だ。「アムール川の流血や」などの古い軍歌が歌われているということが占領軍に忌避された。

時の権力によって2度も切られた映画自体が、どれほど優れたものかは伊丹の残したシナリオから読み取ることができる。少なくとも映像を志す者は、この映画を見このシナリオを読むべきではないかと、私は思う。

実は、このシナリオを執筆している昭和16年、伊丹万作は病床にあった。
太平洋戦争が始まる直前の昭和13年に伊丹は結核を患い、死去する21年までずっと床を離れることができなくなっていた。

8年間の闘病はずいぶん苦しかったようだ。昭和14年の11月のことだ。妻と長男が外出したあと、彼は娘ゆかりと二人で家にいた。隣室でゆかりが眠っていて布団をはいだのをベッドから見ているが、病のため彼は動くことができない。放っておけば娘は風邪をひくと気をもむ。
ついに決意する。彼は力をふりしぼってベッドから体を下ろし娘のところへ這って行くのだ。
《匍匐して隣室に至る。労苦言語に絶す。ようやくにして目的を達したれば帰りは匍匐をやめ仰臥のまま、わずかに身をにじらせ、寸また寸と寝台に辿りつく。我ながらあさましき姿なりし。》
娘に風邪をひかせまいと這ってゆく伊丹。
このときの娘こそ、大江健三郎夫人のゆかりさんだ。私が大江宅を訪れたときに、ゆかりさんから伊丹万作の話を聞いたことがある。父は本当に優しい人でしたとゆかりさんは思い出を語ってくれた。その父伊丹万作の油絵が大江家の応接間に掛かっている。静物を描いた「正しい」絵だ。伊丹は元々画家として出発した人だった。

大江健三郎は伊丹をモラリスト、教育家とみている。《モラリストとは現実の人間性のたしかな観察にたって、人間一般にかかわる倫理をしっかり把握しているところの人間である。かれ(注:伊丹万作のこと)ははるかな高みからその倫理の名において他人を断罪することはしない。しかし現実の具体的生活のいちいちについて、かれの倫理感を逆なでする事態にであえば、勝敗はべつにして、かれはいちばん根底の具体的なところから、それに立ち向かわぬわけにはゆかないのである。》

今の映像関係者に、「勝敗はべつにして、それに立ち向かって」ゆく人がどれほどいるだろうか。大きな権力を相手だけでない。小さな人間関係にあってもイジメなどを行使したり、表現から遁走したりする現実がなんと多いことか。
「無法松」は二度切られた。あれは戦時中と高みの見物が出来るだろうか。今もその危険はやまない。

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by yamato-y | 2006-04-25 14:09 | Comments(0)

不完全燃焼症候群

不完全燃焼症候群

「村の船頭さん」という童謡を思い出した。
♪村のはずれの船頭さんは 今年六十のおじいさん
私が子供の頃、六十歳といえばたしかにおじいさんだった。今、その年に迫るのだが自分がおじいさんとは思えない。納得できない。まだいくつか仕残したことがあると思えてならない。このまま隠居なんてことは考えられないのだ。

友人の中には孫もいる者もいる。そういう境遇のものはおじいさんの風貌、考え方に自然と変わっていくようだ。新しいことに関心をもたず、好きな趣味と孫の写真で十分という人がたしかにいる。

私としては、まだ番組作りにしても年少のディレクターなんかに負けない、作品性の高いものをあと10本くらい作ってみせると、見得を切りたいところだ。
だが、先日韓国取材で、老いの現実を見てしまった。意気は軒昂でも体がついていかないのだ。体力がない、持久力が弱る、器官をコントロールできない、こらえ性が減る、など。

ではこの現実を受け入れて、温和しく閑居できるか。できない。
老いてますます読書は増え見聞が広がり智慧がつくようになれば、それを映像化したいと願うのは当然のことと、私にはある。そこが、今の私の悩みだ。頭と体が一致しないのだ。ギャップはますます広がる。

おそらく映像でなければ、文字表現であればこういうことで悩むことはなかったろう。七十八十になっても筆を折らず、錬磨した井伏鱒二のような文豪もいたから。
映像の世界でも、劇映画は高齢でもメガホンを握る人はいる。黒木和雄だって75歳までやっていた。だがドキュメンタリーとなると、大先輩の吉田直哉のような人でも60を境に作らなくなっているのが現実だ。

やりたいけどできない、これが定年世代の悩みとなる。まだ自分の能力を使いきっていないという、不完全燃焼状態にある。

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by yamato-y | 2006-04-24 14:49 | Comments(0)


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