定年再出発  


懐かしい空
by yamato-y
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北陸トンネルの話2

小学生時代の思い出


 先日、汽車のデッキのアクシデントについて考えていたら、また別の事件を思い出した。

 秋になると、祭にあわせてサーカスが来たものだ。気比神宮の大祭は毎年9月初めに行われ15日間続く。日本一長い祭だ。やって来るのは敦賀を本拠地とする柴田サーカスが多かったが小学校高学年になると矢野サーカスに変わっていった。日本全土の祭りを巡回して来るのだ。9月になると待ち遠しかった。

 その年は予定になってもなかなか来なかった。小学校の休み時間に友達となかなかサーカスが来ないなあと噂をしていたら、一人が事故があったみたいだぞと教えてくれた。

 サーカスは福井から巡回して来るのだが、途中北陸トンネルでキリンが首を出して骨が折れたという。そのため、敦賀へ来るのが4,5日遅れているそうだ。それは大変だなあと子供心に思った。信じて疑わない。

 数日後、サーカスは来た。その年私はテントの中に入らなかった。不潔だから綿菓子を買って中で食べてはいけないと親に注意されたのだ。
 サーカスを見てきた友達から報告を受けた。象やライオンはいてきちんと芸もしたが、キリンは死んで剥製で飾ってあったと言う。首のところに包帯が巻いてあって痛々しく見えたと友達は悲しそうに言った。

 私は、遠い南の国から連れて来られてトンネルの天井に頭をぶつけて首の骨を折って死ぬなんて、キリンが可愛そうだと思った。剥製のキリンのところへ行って、インド林檎でもお供えしてあげないといけない、と子供心に思った。

 ずっとこの話を信じていたが、あるとき剥製作りのテレビを見たら、小さな鳥でも1ヶ月以上かかることを知って、キリンがわずか2,3日で剥製になるわけがないということを悟ったのである。間が抜けた話だ。

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by yamato-y | 2006-02-28 23:56 | Comments(1)

日航の悲しみ

JALと大伴

さっき九州から帰った。行きは日航を使ったが帰りは全日空を使った。
日航が病んでいるというかんじがして搭乗を避けたのだ。

昨日の読売の社説に、「日航内紛」とあった。日航の混乱を厳しく批判している。その記事をJALの機内で読むのも皮肉だが、読み終えてイヤーホーンを耳につけた。ところがヘッドフォン差込口が不安定で音量が揺れる。仕方がないので空いている隣席のジャックに差し込んだ。そこも音が歪み揺れる。二度続くとなるとこれは偶然ではないだろう。メンテナンスが不備だといわざるを得ない。

機内を見回すと空席が目立つ。というよりガラガラだ。ドル箱の福岡便にしてこの有様だ。
シートの前のポケットも心なしか乱雑だ。昔は靴を脱いであがるのかと思うほどJAL機内はぴかぴかだった。今はアメリカのローカル便のような雑さが目に付く。貧すれば鈍するかな。

ちょっと気になるJAL批判がある。社内に労働組合が9つもあってこれが不振の元凶だという論調だ。そんなはずはない。労組は基本的に従業員の待遇と業務の安全を第1に考えている。それは利用者の利益と対立しない。給料一律10%カットを会社は組合に要求したというが、これは転倒だ。経営責任を果たさないまま労働者に矛盾を押し付けるとはその経営自体の破産ではないか。ただ、飛行機会社の給料は高すぎるとか人があまっているとかタメにする噂がそのうち流れることは予測される。

詳しくは分らないが、ニッサンのゴーン社長の改革を誉める声が大きいが私はかねてから疑問がある。大船から平塚にかけてニッサン関係者がかなり住んでいる。こどもの友人の親御さんにもずいぶんいた。それが改革時かなり人員整理にあっている。人を減らして成功と言われるとかなりひっかかるのだ。

大伴昌司の少年マガジン巻頭図解の名作に「大空港」がある。往年の羽田の賑わいをドキュメントした作品だ。この企画のうらに大伴の恋がある。大伴は株で利益を得たとき自宅を改造した。そこにアパートを作り羽田に勤めるスチュワーデスだけを入居させた。池上から羽田まで近いこと、家賃の滞納がないこと、独身女性は部屋をきれいに使うこと、などを考慮して店子のえり好みをしたようだ。いかにも大伴らしい子どもっぽい発想だ。
 この住民との交流から大伴は大空港のアイディアを得たと思われる。そして、その中の一人のスチュワーデスと親密になった。母のアイさんは気がついた。
だがその恋は成就せず顕在しないまま、女性は結婚のため仕事を辞めアパートを去った。この話は母堂から聞いた。ウラは取れていない。残念なことにその人は最近亡くなったということだ。その人は日航のスチュワーデスだった。“デスの彼女”を大伴はちょっぴり誇っていた時期があったのだ。

 日航にがんばってほしいと思う。

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博多は昨日はれていた。かすかに沈丁花が匂っていた。思いがけなかった。
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by yamato-y | 2006-02-28 15:38 | Comments(0)

もう一度投げたかった

津田投手の祈り

こんなはずじゃないと言う番組がある。私にとってそれは1994年に制作したNHKスペシャル「もう一度投げたかった~炎のストッパー津田恒美の直球人生~」である。
入社して3年しか経たない若いディレクターがこの企画をもってきたとき、それほど私は熱意がなかった。スポーツ選手の生き方ということにあまり関心がなかったのだ。

だが若いディレクターの熱意に押されて九州の八代まで足を伸ばしたときにあることが起きた。今は亡き主人公の気配を感じたのだ。

 津田さんが亡くなった後、奥さんは息子の大毅君を連れて実家のある八代へ帰っていた。現在闘病の手記を書いているということで、奥さんと話し合うために御宅まで私は出向いた。そしてその時津田さんの形見の練習用ボールを見せてもらった。
それは津田さんがいつもボールの感触を確かめるために持ち歩いていた握り専用の球だった。薄黒い指の跡がしっかりついている。指にあわせてボールを握り反対側を見ると、「弱気は最大の敵」と黒いフェルトペンの言葉が記されてあった。

おそらくノックアウトされたときなど、寝転びながらこのボールを握っていたのであろう。津田さんはその言葉をじっと見つめて噛みしめていたにちがいないのだ。その字、その文言、その指跡。何かここに津田投手がいるような気配が、そのとき私はした。

 そのボールをテーブルにそっと置いてやや離れたところから私は眺めた。ボール(球たま)は霊魂(たましい)に見えた。ここに彼が宿っていると感じた。私はこの番組を絶対実現しようと、その時つよく決意したのだ。

 番組の撮影が始まったとき、津田さんの闘病シーンを演出するのに空のベッドにそのボールを置いた。そこに津田さんがいるということを示したかった。実際、放送された番組を見た視聴者のほとんどはその気配を感じてくれた。東京で15・6㌫という高い視聴率をカウントした。広島では42・7㌫、2軒に1軒が見てもらえた。当初これほど話題になるとは思わなかったのに番組は大きな反響を呼び込んでくることになった。

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by yamato-y | 2006-02-26 23:47 | シリーズ作品回顧 | Comments(2)

大伴終焉の顛末

ウルトラ星に旅立った人7



 私が大伴の人生を昭和62年に番組で描こうと思ったのは、その奇怪な死と意外な経歴を知ってからだ。特に彼が亡くなったとき変死体扱いされたという事実は衝撃だった。

 1973年(昭和48年)1月27日新橋の新橋亭で日本推理作家協会の新年会が開かれた。恒例の犯人探しゲームが始まったばかりの午後8時、大伴昌司は倒れた。
少し気持ちが悪いと言って、青い顔した大伴が別室の控えの間に入ったときのことだ。ぐらっと揺れてそのまま畳に体を投げてしまった。従業員は声をかけすぐ介抱したが、容態は最悪だった。まもなく大伴は絶息した。

 この死について風聞が流れた。かねがね40歳まで生きられないだろうと大伴が吹聴していたので才能が枯渇する前に死を選んだのではないかとか、睡眠薬を過剰に服用したのはないかとか、持病の喘息が出て慌てて薬を飲もうとして量を間違えたとか、さまざまな臆説が飛び出した。

 実相はどうであったか――。
 薬を誤って服薬したあとは見られず、別室に入った途端倒れそのまま死に至ったことは従業員も目撃している。大伴の正体を知らない推理作家協会では連絡先も分からないので警察に届けた。そこで遺体はいったん最寄の愛宕署に運び込まれて行政解剖を受ける。死因は発作による心臓停止であった。この解剖結果については母四至本アイさんがしっかり記憶している。おそらく過労からくる心臓発作によって彼の命は絶たれたと思われる。

 この日、小松左京は大阪から上京しており大伴の亡くなる4、5時間前に連絡をとりあっている。推理作家の新年会が終わったらSFの作家たちと落ち合おうと大伴は約束していた。その時刻まであと30分というときに小松は大伴の訃報をうける。「嘘だろう」と小松は電話相手に言い返した。当時SF作家たちはよく冗談で人をかつぐことが多かったから、今回もそれだろうと笑い飛ばしたのだ。だが事実と分かって愕然とした。
 いっしょに会う予定であった平井和正や石川喬司にも連絡して皆で愛宕署へ駆けつけた。霊安室に安置されている遺体を見たとき唇にうっすら血がついていたことを、石川は覚えている。

 駆けつけた仲間たちは10年近い付き合いにもかかわらず彼の正体をまったく知らなかった。身寄りがないと信じていた。SF作家たちが金をもちよって皆で葬式を出すことになるだろうなあと小松は考えていた。

 翌朝、大田区池上の彼の家へ遺体を連れて帰った。小松たちが車から運び出そうとわさわさやっていたら隣接する家の老婦人が声をかけてきた。「息子がどうしたんですか」
小松も石川も平井も吃驚した。てっきり天涯孤独の身だと思っていた大伴は両親の隣に住んでいたなんて、思ってもみなかったのだ。
 常々、大伴は母アイさんに絶対親子だと名乗るなと口封じしていたのだ。仮に電話を受けることがあってもまるで下宿のおばさんのように振舞えと大伴は母に「命令」していたのだ。聡明なアイさんは面白がってそれを忠実に守っていた。それは功を奏して慶応の仲間たち以外仕事仲間は誰も大伴の正体を知らなかったのだ。

 今回、私はアイさんに喘息の持病について幼い頃からあったのかと聞いた。
 たしかに喘息はあった。例の戦争が始まる直前、アメリカから帰国する際太平洋横断はジグザグのコースを辿っている。そして高緯度のカムチャッカ諸島あたりまで移動したとき寒冷アレルギーからくる喘息症状を5歳の大伴は起こしたと、アイさんは証言する。ただ、それはたいしたことではなく成人になってからはほとんど発作はなかったはず。鼻が悪かったようで点鼻薬を使っていたかもしれないと語った。それも軽い薬だったという。つまり死因は薬の誤飲ではない。

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by yamato-y | 2006-02-26 18:26 | 大伴昌司の遺産 | Comments(0)

汽車のデッキ

中学生の思い出

 雨の日曜日、朝寝しながら川本三郎さんの新しい本『旅先でビール』を読む。川本さんお得意の名もない町のぶらぶら歩きの記だ。
 エッセイ(この場合、身辺雑記を指す)の真髄は、読者をのんびり、ゆったりした気持ちにさせることと川本さんは喝破している。そのおすそ分けをいただき私も寝床の中でごろごろしながら、川本さんの旅のエッセイをここちよく味わっている。

「尾久駅」というエッセイで、操車場や寝台特急「北陸」など列車の話が出てくる。ふっと昔の蒸気機関車時代を思い出した。中学の頃、北陸線にはまだSLが走っていた(と思うが、ひょっとすると気動車だったかもしれない)。窓は自由に開閉できたし、デッキのドアは手動だった。トンネルに入って窓を開け放しておくと、よく眼に石炭ガラが入って往生したものだ。

 中学のクラブの遠征で福井まで行ったことがある。行きは担任に引率されたが帰りは自由行動だった。福井のだるま屋で貸し本マンガの『街』を買って夕方遅い電車でホッタ君と敦賀へ帰った。車中二人ははしゃいでいた。デッキに立って進行方向に顔を向けるとぐんぐん風が切れた。

 ホッタ君がデッキから身体を大きくのり出した。そのうち片手を離して得意げに身体をゆらゆらさせる。対抗列車がゴーッと通過した途端、ホッタ君の姿が消えた。慌てた。「落ちた?!」

 おーい、と言う声がした。隣のデッキにホッタ君はぶら下がっていた。通過する列車の風圧で隣まで流され、たまたまそこにあったデッキの取っ手を掴んだのだと、彼は言う。信じられない軽業だ。今もそれが事実であったかどうか分からない、が、たしかにホッタ君は目の前から消えて隣のデッキにぶら下がっていたのだ。

 一歩間違えれば惨事だったのだが、二人ともことの重大が分かっておらず、「アムナカッタナア」と顔を見合わせるだけだった。当時、デッキに片手でぶら下がるなんてことはよくやっていたので、そんなものだろうと思っていたのだった。

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by yamato-y | 2006-02-26 12:37 | ブロギニストのDJ | Comments(0)

昭和11年、雪の帝都

ウルトラ星に旅立った人⑥

大伴昌司は2月3日にお茶の水の病院で産声をあげた。彼が生まれた昭和11年は、東京によく雪が降った。この日も雪催いとなった。
当時自宅出産が多いのだが、富裕な両親は大学病院で出産することを望んだ。

3日から降り始めた雪は4日になると本格的になった。見舞いに来た父四至本八郎は積もらないうちにと早々に帰って行った。中央線で自宅のある中野駅に帰り着いたときはすっかり吹雪になっていた。1メートル先も見えない。父は這う這うの体で中野富士見町の自宅へもどったと、後々まで父は大伴誕生秘話として語っていた。

 当時、病院で出産すると産後の肥立ちのため3週間入院させた。母アイさんと大伴が自宅へ帰ったのは(大伴は初めてだから、自宅へ行ったという表現になるかも)2月25日のことだった。

明けて、2月26日、帝都は大雪となった。もし大伴母子がこの日までお茶の水にいたら中野へは戻れなかっただろう。雪だけのせいではない。反乱が起きたのだ。陸軍の一部青年将校らが政治の変革を唱えて部隊を引き連れて決起したのである。世に言う、2・26事件だ。都内には戒厳令が敷かれ交通機関もストップした。

 この日から数日間、緊張した空気が都内に流れるが、四至本家の新生児は暖衣飽食のうちにあった。
 それにしても東京に大雪が降るときとは何か起きるときだ、桜田門外も赤穂浪士もそうだったなと、アイさんは思う。アイさんの記憶でも昭和11年と昭和20年の大雪は鮮明だ。敗戦となるあの20年の冬は雪が激しく防空壕の中まで吹き込んだことを覚えている。

 雪の多い昭和11年に生まれたこの乳児の人生は波乱に富んだことになるかもしれないと、母だけはひそかに思うのであった。
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by yamato-y | 2006-02-26 01:35 | 大伴昌司の遺産 | Comments(0)

大伴昌司問題

お墓が出来たときSF作家たちは鎌倉まで参拝に行った
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ウルトラ星に旅立った人⑤

本気で大伴昌司に取り組むことにした。
私が彼の番組を制作して19年経った。この間、大伴を取り巻く状況は変わり
さらに神話化されていった。

去年のNYでの成功はますます現代日本における彼のポジショニングを広げつつある。
――1973年に死んだ大伴は、1980年代に発生したオタク文化の先駆者と目されつつある。
現代日本文化を代表するオタクという現象。評論家さわらぎのいによれば、アーティスト村上隆は「オタク文化を、太平洋戦争に敗北した日本に特有の文化現象だとして」とらえようとしているそうだ。村上はNYの展覧会のプロデューサーである。

もし大伴がオタクの先鞭をつけたとすれば、彼こそ敗戦日本の中から生まれた特有の現象をになっていることになるはずだ。その検証はまだ誰もやっていない。

大伴はオタクの先駆者、オタクの元祖として定立できるだろうか。まずこれに挑みたい。
そのために2つの条件を整理しないと。1つは、大伴の全生涯をできるだけ正確に描きだすこと。秘密主義であったため、彼の人生の虫食い状態を埋めなくてはならない。各人が勝手に推測解釈しているのを洗い、できる限りのファクツを集めて不明瞭な部分を埋めて行く。2つめは彼が築いた労作(トラヴァイユ)はその後のオタク文化とうまく接続しているかということだ。
 私は80年代から起こってきたオタク、お笑い、パソコンなどにこれまで関心をもたなかったので、オタクというものをどれほど把握できるか見当もつかないが、これまで出版された文献などを通して、この検証をやってみたいものだ。

大伴問題のもう一つの鍵は、彼が関わった仕事(トラヴァイユ)はチャイルディッシュ(子供っぽい)なもので、本格的な小説、シナリオにその後乗り出していくはずだったという伝説の検証だ。
 少年マガジン誌で作り上げた大伴ワールドは、彼の人生の中間点であって到達点ではないという噂をたしかめたいのだ。36歳で早世したが生きていればきっと彼は本格SFを書き上げ、文明評論をものしていただろうと見るムキがあるが、果たしてそうであろうか。

プロレスでもジュニアヘビーの選手が力をつけると、ヘビーに転向してそこで大物になって初めて成功という評価と、獣神ライガーのようにジュニアヘビーの最高位を極めることを本分とする生き方と、二通りの評価がある。私は大伴はヘビーでチャンプになることを望んでいたとは思えない。積極的にジュニアヘビーで戦うつもりだったと、見たい。きっと大伴はジュニア文化つまりオタク文化、オタク道をまい進していたと思うのだが、これも検証を要する。

これらの命題をこれから考えていきたい。この記事を読んでいる方たちの意見もぜひ伺ってみたいものだ。

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by yamato-y | 2006-02-25 22:32 | 大伴昌司の遺産 | Comments(1)

外で待つ母

母子鳥


今朝は冷え込んでいる。灰色の空の下、山鳥が騒いでいた。

大磯駅のはずれに公衆トイレがある。毎朝、男子トイレの外で待つ女性がいる。
息子が入っていて外から動静を見守っているのだ。息子は16か17か。おそらく自閉の障碍をもっていると思われる。時折、トイレの中から奇声があがる。母はじれて「早くしなさいよ。もうすぐお迎えが来るのだから」と行動を促す。子は意に介さない。意味不明の言葉を発しながら、悠々とズボンを直し手を洗いハンカチを取り出して拭く。この一連の動作は人のゆうに3倍はかかる。

初めてこの光景を見たとき、中年女性の痴女かと思った。男子トイレの前に立って奥をじっと見つめていたのだから。左手で杖をついている。彼女自身病の後遺症をかかえていると思われる。老けてみえるがどうも私と同じ団塊世代ではなかろうか。障害児を育てる苦労ゆえの早い老化だろうか。

 この母子は将来どのように生きていくのだろう。母が亡くなり子だけが残されたとき、その子はどうなるのか。声を荒げて躾をする母の姿を見ていると、胸がしめつけられる。少しでも自立させたいと、つい叱責口調になるのかもしれない。

私が側を通るとき、トイレ前の母は恥ずかしそうに目を伏せる。

 春の磯 子呼び母さがす 千鳥かな
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by yamato-y | 2006-02-24 14:07 | Comments(0)

さよなら、谷よしのさん

大部屋さんの鑑

本日、評論家の川本三郎さんと話していたら、突然松竹の大部屋女優だった谷よしのさんの話になった。いやあ、11月に偶然のことから谷さんを私見ましたよと、ノー天気に話したら、川本さんが2月初旬にお亡くなりましたよといわれた。

吃驚した。たしか11月2日のこのブログで谷さんをお見かけしたことを書いたし、谷さんは90近いお年だがまったくそう見えないと記したばかりだったから。

2月となると、闘病でもなく突然の死であったにちがいない。あのときあんなに朗らかに仲間と話していたのだから。ただ、あのときの話題は遺産の後始末の話だったことは、今となっては不気味ではあるが。

谷よしの――昭和11年7月、松竹に入社。松竹が大船につくった俳優学校の第1期生で、「自活のできる仕事がしたい」と家族の反対を押し切って女優を目指した。以来、大船創生期から閉鎖まで64年間、大部屋女優一筋。私は彼女の最後の出演をテレビのカメラで収録するという縁につながった。

考えてみれば、大船が閉鎖になるという話題をNHKスペシャルにしようとしたとき、評論家の川本さんにいい知恵をいただこうと相談したのだ。そのとき、川本さんから谷さんのことを教えてもらった。映画関係者はともかく映画ファンの視点から谷さんを発見したのは、たしかに川本三郎さんの功績だった。川本さんも谷さんの死がずいぶん残念であったのだろう。この話題をルパンのカウンターについたときすぐ口にされた。

谷さんのご冥福を祈る。合掌。

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by yamato-y | 2006-02-23 23:58 | 魂のこと | Comments(0)

銀座、バー・ルパン

ETV特集、銀座ロケc0048132_202871.jpg


木村伊兵衛の番組ロケを、銀座で行った。場所は懐かしい文壇バー、ルパンだ。
かつて、太宰治、織田作之助、坂口安吾らが集うた、伝説的な店である。ここのカウンターで撮影された、太宰や織田作の写真はあまりに有名だ。


集合予定の3時に着いたがロケの本隊はまだ到着しておらず、私はオーナーの高橋さんと名刺交換してひとしきり、この店の伝説についてあれこれ聞いた。
開店は昭和3年。当時、銀座5丁目のこのあたりは場末に近いかんじだったそうだ。隔世の感がある。
昭和48年に、建物を少し改築して、ルパンの内装も変わったが、場所どりも家具も昔のままを使っている。カウンター奥の丸イスは、まさに太宰の席だったので、私は座ってみた。少し嬉しい。

そんなことをしていると、本隊がやってきた。本日の主役、川本三郎さんもいる。久しぶりにお会いする。このところ川本さんの本はいろいろな場所で評判になっている。川本さんはいち早く藤沢周平を評価してくれたことが嬉しかったことを、今も記憶する。

本当に偉ぶらない人だ。にこにこしながら、木村伊兵衛の写真のもつノスタルジーについて分りやすい言葉で話してくれた。ノスタルジーの感情は、東京のように2度も大破壊を体験している都市では大切なものだと強調しておられた。私も共感することしきり。

このルパンも、私は初めて来たがどこかノスタルジーを覚えるのだった。

ここに来るまでに、銀座や月島のあれこれを、本隊は川本さんとともに撮影してきている。町のガイドにもないような、いい路地のあちこちを川本さんはたくさん紹介してくれたと、ディレクターは教えてくれた。うむ、早くラッシュ映像を見てみたいものだ。

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by yamato-y | 2006-02-23 20:02 | ブロギニストのDJ | Comments(0)


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